25 1989年 10月 文化祭
文化祭当日。
美咲は、文芸部が運営する読書カフェの入り口で、受付台の上に短編集の冊子を積み上げていた。
なんとか編集が間に合った原稿を印刷室で指示された部数刷り、冊子に綴じてここまで運んできた。すべての作業を一人でやらなくてはならなかったため、早朝に登校してなんとかカフェの営業時間に間に合わせた。けれど。
「ちょっと遅かったじゃないの!」
カフェの場所になっている教室の前で、先輩たちに怒鳴られた。
「前日までに終わらせろって言ったでしょう?!」
初耳だった。先輩たちは夏休みのあの日に美咲にすべてを押し付けて以来、美咲に話しかけることすらしなかった。しかし、どちらにせよ作業はこれより早く終わっていたとは思えないので、美咲は素直に謝った。
「すみません」
「ほんと、ちょっと顔が良いからって所詮はオタクなんだからさ。調子に乗らないでよね」
くすくす、くすくす。だよね、オタクなんだからさ。アニメのキーホルダーとか持ってるんだからさ。
そんな囁き声に囲まれて、美咲は台車から冊子を一人で下ろした。
「それが終わったら日高さんは帰っていいよ」
見上げると、部長が立っていた。害虫を見るようなその目に背筋が冷えた。
「だって、冊子を配るにしてもオタク菌がうつったら困るし? カフェに出てもらうのもちょっとねえ。あ、そういえば、日高さんフラれたんだって? 二階堂晶が日高さんとは何の関係もないって公言したんだってね。御愁傷さまぁ」
くすくす。くすくす。ざまあみろ。
美咲を囲む先輩たちの輪郭がぼやける。
――違う、晶は。
晶は美咲のために言ったのだ。
この前の夕暮れ、晶から伝わってきたPASSIONを思う。美咲とは無関係だと、どんな気持ちで晶がそう言ったのかを考えると、胸が刺すような痛みに襲われた。
「やだぁ、泣けばいいと思ってんの? 嫌な女」
先輩たちは冷えた視線を美咲に投げ、各々の仕事に散っていった。
カフェが開店し、エプロン姿の同級生たちが廊下を通る生徒や来校者に声をかけている。その光景がひどく遠いものに思えた。
もう、学校に美咲の居場所はない。
けれども今日、美咲にはやらなくてはならないことがある。
♢
空き教室や、屋上、中庭など、人の少ない場所を転々をしながら美咲は夕方を待っていた。
文化祭の夜を飾るフリーステージ。それは夕方、外部からの来校者が引き上げてから開催される、内輪のプログラムだった。
希望者は誰でも出場できて、部活単位で出ることもあれば個人の場合もある。歌だったり芸だったり手品だったりいろいろだが、要はステージを盛り上げるパフォーマンスであれば何でもあり、というものだった。
会場になっている体育館にはすでにたくさんの生徒でごった返していて、文化祭の運営委員が忙しく動き回っていた。
美咲はその様子を、体育館後方の隅で眺めていた。
やがて体育館の暗幕が引かれ、照明が前方ステージに集まる。運営委員の挨拶でフリーステージが始まった。
ミスター・マリックを真似た手品やヒットソングのモノマネが多かったが、そのほとんどを美咲はあまり知らなかった。アルバイト中にコンビニエンスストア内で流れる情報で聞きかじった程度の知識しかない。
すべてが、テレビからの情報だった。
体育館は大盛り上がりで熱狂に包まれていた。美咲は愕然とした。美咲には会場の盛り上がりと熱狂が理解できなかったからだ。知らないということが、テレビを自由に見れないということが、テレビ人間に支配された自分の生活が、こんなにも世間と隔絶されているということを改めて思い知らされた。
ステージの明るさから目を背けるようにうつむいていた美咲は、黄色い歓声に顔を上げて、動きも息も止まってしまった。
「晶……?」
黒いジャケットにシルバーのバックルがいくつも光る衣装。
その特徴的な衣装に身を包んだ晶がマイクの前に立つと、大歓声や口笛が巻き起こった。
「マイケル・ジャクソンのモノマネをしまーす」
軽快な晶の言葉に再び体育館が沸く。その様子を見ていた晶の顔から、ふと、学校で見せるいつものふざけた笑みが消えたことに気付いた者が、何人いるだろうか。
「マイケル・ジャクソンはこの楽曲に、暴力ではなくダンスと自己信念の力で仲間や隣人に訴えかけるメッセージをこめました」
刹那、消えた照明、段階的に立ち上がるイントロに体育館はしん、となる。
照明が点いてイントロのダンスが始まると、一気に歓声が起きた。
美咲は瞬きをするのも忘れてステージを食い入るように見つめる。
まるで『BAD』のミュージックビデオを見ているようだった。
晶はステージを大きく使って動き、流れるようなダンスも切れのいいステップも煽情的なサインも、マイケル・ジャクソンのダンスのすべてを完璧に再現していた。
Who`s BAD?
このパフォーマンスを晶が選んだ意味。美咲に絶対に見に来てほしいと伝えた意味。
――晶も、わたしと同じ気持ちだったんだ。
歓声とアンコールの大合唱に沸く体育館で、美咲は一人、顔を覆って泣いた。
♢
熱気に蓋をするように、美咲はそっと体育館の扉を閉めた。
涼しい夜風が心地いい。ただあの場所に立って観ているだけだったのに、ずいぶん汗をかいていることに気付いた。大きく深呼吸していると、足音が近付いてきたので振り返る。
「晶……」
全身汗だくで、肩で息をして。
「どうだった?」
とっさに言葉が出ないでいると、晶の表情が曇った。
「マイケルファンの美咲には及第点をもらえないかな」
「そんなことないよ!」
美咲は慌てて叫んだ。
「すっごく良かったよ! 本物のマイケルかと思ったくらいだよ!」
「それは褒めすぎ」
晶が笑う。それを見て、美咲も思わず笑った。あの夏の河川敷で共有した時間の柔らかさが一瞬、戻ってきた気がした。
「でも良かった。美咲が見に来てくれて。ステージの影からずっと美咲を探してたんだ。もっと前列で観てもらえればよかったんだけど」
「じゅうぶん。じゅうぶんPASSIONをもらえたよ」
美咲はこのところ冷えて凝っていた自分の心が溶けていくのを感じていた。
「晶のダンスは、やっぱり人を熱くするPASSIONがある」
「美咲にそう言ってもらえると、マジでうれしい。ありがとう」
「わたしこそありがとう」
美咲は心から言う。久しぶりに晶と笑みを交わした気がした。
ふと、晶の顔から笑みが消えた。それは美咲の知っている晶のどの表情とも違って緊張を孕んでいる。どうしたのだろう、と美咲は晶の言葉を待った。
晶は、ジャケットのポケットから何かを手の中に握りこんだ。
「俺、どうしても美咲に渡したいものがあったんだ」
「わたしに?」
そっと開かれた大きな手のひらの中をのぞくと、そこには古ぼけたガチャガチャのカプセルがあった。
「こ、れは……」
見覚えのあるカプセルの色。中に入った小さな紙。
美咲が何かを言う前に、晶がカプセルを美咲の手ごと握らせた。
「俺は美咲を絶対守る。だから美咲はこれを捨てろ。何もせず、平和に暮らすことだけを考えてほしい」
「ねえ、どうして、どうして晶がこれを――」
「俺が、テレビ人間を消すから」
「えっ……」
見開いた美咲の瞳に、晶の意志の光が映る。大きな手が美咲の頬に伸びてきて、近付いた晶が耳元でささやいた。
「I wish nothing but your happiness」
瞬間、晶は踵を返して走っていった。
歓声に沸く体育館に戻っていく背中を、美咲は呆然と見送ることしかできない。あの夕暮れの日のように。けれどあの時と違うのは、悲しみの中に驚きと焦燥があることだ。
どうして晶がテレビ人間のことを知っているのか。
――聞きたい。聞かなくちゃ。晶に。
しかし、晶と話すことは二度と叶わなかった。
文化祭が終わると、晶は学校から姿を消した。




