21 1989年の夏が終わる
部活のために久しぶりに登校したお盆明けの学校で、美咲は違和感を覚えた。
下駄箱でも廊下でも、沼の中を歩いているような重たい空気がまとわりついている感じがする。
夏休みとはいえ、部活や委員会活動のために登校している生徒は意外と多く、校内は夏休みとは思えない活気があった。楽しそうにしている生徒たちの中で、自分を取り巻く空気だけが明らかに異質だ。
それは『異端』を取り巻く空気とは違うものだ。
その原因は、文芸部の部室へ着いてからわかった。
「日高さん、やるじゃん。二階堂晶と付き合ってるんだって? 文芸部始まって以来の快挙だよ」
入るなり二年生の女子に囲まれた。心臓を素手でつかまれたような衝撃が走った。ちがいます、という言葉は矢継ぎ早な先輩たちの声にかき消される。
「まあね、日高さん、美人だもんね」
「でもそれって文芸部基準じゃん。上位グループで二階堂晶を狙ってた人たちはどう思ってるんだろうね?」
「あの女、地味子なクセにって?」
くすくす。くすくす。
美咲を囲むのは、のぞいても真っ暗で何も見えない穴。穴、穴、穴。
いつも何気なく接していた先輩女子たちの双眸は空虚な穴と化し、そこから赤黒い何かが噴き出しているように見えた。いじめに遭っていた頃のことが脳裏にフラシュバックする。吐き気がした。
「いいなあ、あんな美形が彼氏だなんてぇ、うらやましい。どうやって付き合えることになったのぉ?」
先輩の一人がふざけた甘ったるい声を出す。美咲を囲む空虚な穴が一斉に嗤う。吐き気に蓋をするように、必死に言葉を絞り出した。
「付き合ってません」
「またまたぁ。しょっしゅう、河川敷でデートしてるんでしょ?」
身体中の血が、ざあ、と引いた。見られていたなんて。
「学校の中、その話題でもちきりだよ」
「そうそう、だから気を付けた方がいいよ。上履きに画びょう入ったりしてなかった? 二階堂晶ってすっごい人気者だもんね」
美咲は唇を噛んだ。あの嫌な空気の正体はこれだったのだ。
「というわけで、日高さんの身の安全のために部室にこもって作業したほうがいいってことになったから。これお願いね」
部長の先輩女子がニヤニヤと美咲の前に積んだのは、この夏に部員が一人一人書いた短編の原稿だ。
「文化祭で冊子にして配るから、編集作業を日高さんにやってもらおうと思って」
短編集の編集作業は誰もやりたがらない大変で地道な作業で、毎年クジやジャンケンで数人を絞り出すと聞いていた。
「誰か日高さんと一緒に編集作業やる人、いるぅ?」
その場にいる部員たちは黙って気まずそうにうつむいた。普段、美咲とそこそこ話をする同級生たちでさえ下を向いている。渦中の人間と関わりたくないのかもしれないし、美咲が部室に来る前に示し合わせがあったのかもしれなかった。その両方だと美咲は思った。先輩、しかも部長の決定には誰も意見できるはずもない。
「誰もいない、と。てことで、悪いけど日高さんには一人で作業してもらうから。お願いね?」
やれ、と念を押すように迫ってくる部長の顔は、目が笑っていない。
「……わかりました」
美咲は押し出された原稿の束を受け取り、のろのろと整理を始めた。誰も手伝おうとはしない。
学校の中ではどこへ行っても、興味本位な下世話な視線が美咲に絡みついてきた。呼吸の回数まで監視され数えられているような息苦しさにたまらなくなって、腹の底から突き上がる感情が頭の中で叫んでいた。
負けたくない。屈したくない。わたしは何も悪いことはしていないのだから。
昔いじめに遭ったときもそう思って耐えた。
再びいじめに遭わないために『異端』となり、透明人間のように過ごしてきたのに。
あの屈託ない笑顔が眩しくて。離れがたくて。不相応だとわかっていたのに、乞われるまま晶と一緒に過ごしてしまった。
――『異端』の自分が、透明人間の自分が、光を求めてはいけなかったんだ。
晶は大丈夫だろうか、と思う。この噂が晶を貶めたり苦しめたりしませんように。美咲はそればかりを願った。
♢
家に帰るとテレビ人間はいなかった。母が珍しく鼻歌を口ずさんで台所に立っていた。その後ろでは煌々とテレビがついていた。夕方のNHKのニュースだ。
そこに映る男の顔に酷い嫌悪感を抱いた美咲は、震える手でリモコンを手にし、おそるおそるチャンネルを変える。
かちかち。かちかち。
美咲は何度も何度もチャンネルを変えた。何度変えても同じだった。
どのチャンネルも繰り返し同じ男の顔を映し出す。まるで何かの啓示のように
連続幼女誘拐殺人事件の犯人だわ、物騒な世の中ねえ、と背後で母がのんびりと言った。
♢
夏休み最後の日、いつものように駐輪場に晶の姿を見つけた美咲は、思わずその場に立ち止まってしまった。
いつもなら足どりも軽く詰めるその距離を空けたまま、いつものようにWALKMANのヘッドホンをつけて読書をする晶を見つめた。
夏中、この時間だけが楽しみだった。早く明日が来ればいいと心から願った。晶といると世界が鮮やかに見えた。
そして、それが特別な感情であると、この前の雷雨の夜に気付いてしまった。
晶に会うのはあの雷雨の夜以来だ。
「どうしたんだよ、そんなところにつっ立って」
美咲に気付いた晶はいつも通りの仕草でWALKMANのヘッドホンを外す。照れたように笑う顔にあの雷雨の前とは違う想いを見た気がして、美咲は胸が締め付けられた。
うれしいのに苦しい。近付きたいのにここから一刻も早く離れたい。
そんな感情に引っ張られて立ち尽くしていると、晶から近付いてきて言った。
「ごめんな」
やはり晶も知っていたのだ。晶がいつもより少しだけ近い距離に立ったので、美咲は顔を上げることができず足元に視線を落とす。
「なんか、学校で変な噂になっちゃってるな」
晶の声は柔らかいが、美咲は怖くてその長身を見上げることができない。申し訳ないという気持ちと晶のために何とかしなくてはという焦燥に苛まれ、懸命に言葉を紡いだ。
「わたしの方が謝らないと。困るのはそっちだから」
「俺? 俺は困らないよ。いっそ、本当に付き合ってるってことにする?」
思わず弾かれたように顔を上げてしまった。晶はじっと美咲を見ていた。その双眸は熱を持って艶やかで、しかしどこか鋭い緊張を孕んでいた。
「……いや、ダメか」
ふ、と自ら緊張を解いて晶が笑った。
その笑顔はなぜか泣きそうだ。
――なぜそんな顔をするの?
その問いが、いろんな思いで混乱して膨張した美咲の感情にぷつりと穴を開けた。
「……わたしのことが嫌なら、関わらなければよかったのに」
「え?」
晶の怪訝気な顔が視界いっぱいにぶわり、と滲んだ。
「わたしは晶とはちがう! 晶みたいにどこにいてもキラキラして人が集まって拍手喝采される上位グループの人じゃない! 存在を押し殺して透明人間になってやっと学校に居場所ができる下位グループの人間なの! 住んでる世界が違うのに、嫌ならどうして関わってきたの?!」
薄茶色の瞳が驚愕に見開かれた。
「なに言ってんだよ。俺が美咲のこと嫌なはずないだろう。それに上位とか下位とか、そんなのは――」
「わたしだってそう信じたい。でも現実はそうじゃない。そうじゃないんだよ、晶」
晶の言わんとすることはわかっていた。美咲だってそう思いたい。ずっとそう願って生きてきた。しかし現実はその願いを無惨に消し去るのだ。
それは学校という場所で生きる者が、学校で生きていくために必要なものさしだから。
「もうここに来ないで。わたしと……関わらないで!」
言いたくない言葉を口にすることがこんなにも痛いことなのだと思う。その痛みを振り切るように美咲は自転車に飛び乗り、懸命にペダルを漕いだ。
堤防の道を行く人々が驚いた顔で美咲を振り返ったが、美咲は決して振り返らなかった。茜色の夕焼けの中をただひたすら自転車で走り続けた。
川辺の風が蜩の鳴き声を流すように吹き抜けたとき初めて、美咲は自分の頬が濡れていることに気付いた。




