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1989  作者: 桂真琴
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20 夕立



「降りそうだねえ」

 雑誌コーナーにはたきをかけ終わった成子さんが、レジに戻ってきて顔をしかめた。

「嫌だな。洗濯物出してきちゃったよ。子どもたちが入れておいてくれるといいんだけど。ねえ、美咲ちゃんも、もう帰ったら? 今日はお客さん少ないし」


 急に広がった黒雲のせいか、道行く人はコンビニに寄らず、急ぎ足で通り過ぎていく。


「そうだね、あとは僕と成子さんとで、夜シフトの子たちが来るまでなんとかなるかな。日高さん、自転車だろ? ひどい夕立になりそうだって天気予報でも言っていたから、もう今日は上がっていいよ」

 店長にも勧められ、美咲は急いでユニフォームを脱ぐと駐輪場へ急いだ。


 やっぱり晶はいつも通り縁石に座って、WALKMANを聴いている。


「あれ? 美咲じゃん。いつもより早いな」

「晶! 雨降りそうだよ!」


 呑気な晶を急かして自転車を引いてすぐ、ぼつ、と大粒のシミがアスファルトに落ちた。


「ほらやっぱり降ってきた!」

「あれ、もしかしてけっこうヤバい?」


 晶の表情から笑いが消える。大きな雨粒が痛いくらい身体に叩きつけた。


 美咲も晶も自転車に乗り、堤防の道を懸命にこぐ。あっという間に空をひっくり返したような雨が注いで、前を行く晶の背中もよく見えなくなった。自転車をこぎ続けることに危険を感じた瞬間、空が光り雷鳴が轟いた。


 思わず悲鳴を上げた美咲に晶が叫んだ。

「堤防から降りよう! ここは危険だ!」


 二人で堤防の道を川と反対側へ下りていく。後から続きながら、晶がどこへ向かおうとしているのか美咲も思い当たった。

 堤防の下に、河川敷へ続く細い道が一本ある場所がある。そこは自転車がすれ違えるくらいの狭い道だが、トンネルになっているのだ。

 地面に広い金網の排水溝があって水を逃がす役割をする場所で、めったに人が通らない。美咲も実際に来たのは初めてだった。


 二人で自転車を停めると、トンネルの中に響く雷雨の音が一層凄まじく聞こえた。


「止むかと思ったけど、ダメだな。雷も鳴ってるし」

 止むどころか、雨は瀧のような勢いになっている。

「ごめん」

「なんで美咲が謝るんだよ」

「だって、先に帰ってれば晶は降られなかったのに。先に帰ってくれてよかったのに」

「……いいだろ、べつに」


 晶はなぜか不機嫌そうに荷物からタオルを出した。美咲も自分の鞄からタオルを出したが、キャンバス地の鞄は中まで雨に濡れていて、水が絞れるほどだった。


「ほら」

 ふわり、と頭にタオルが降ってきた。

「髪、ちゃんと拭けよ」

「晶こそ体を拭きなよ! 風邪ひくよ!」


 タオルを突き返すと、晶は美咲の頭にタオルを載せてがしがしと拭いた。


「ちょっと!」

「風邪ひくだろ」


 やっぱり不機嫌気な晶の力が強くて、抗えないまま頭を拭かれた。


 雨は相変わらず激しく、雷に加えて風も強くなってきた。トンネルを吹き抜ける風はひんやりとして、濡れた服にあたると寒いとさえ感じた。美咲は思わず自分の肩を抱く。


「寒いのか」

 肩をさすっている美咲を見て、晶が眉根を寄せる。

「大丈夫だよ。夏だし」

「顔色が悪い」

「暗いからそう見えるだけだよ」


 トンネルの中には灯りがなく、外の外灯の明かりが頼りだ。

 晶はリュックの中をごそごそやっていたが、諦めたように肩をすくめた。


「タオルは濡れてるし、羽織るっていっても俺の汗まみれのティーシャツじゃなあ」

「だから大丈夫だって」


 晶はトンネルの真ん中に立った。風の方向を確かめているようだ。


「しょうがない。これで我慢してくれ」

 晶は風が吹いてくる方向へ背中を向けるなり、そのまま美咲を抱きしめた。

「ちょっ……」

「だから我慢してくれって言ったじゃん。風邪ひくよりマシだろ」


 背の高い晶の胸に美咲はすっぽり収まってしまった。


「言っとくけど、やましいことは考えてないからな」

 ぶっきらぼうに言う晶の手は、遠慮がちに美咲の背中に回されている。美咲が寒さに震えない程度の力を考えているようだった。強くもなく、かと言って弱くもない。身体がしっかり触れ合い、体温を分け合えるくらいの力加減。


「何かで読んだことがある。極寒の中央アジアの雪原では、遊牧民は裸で抱き合って布団に入るそうだ。火にあたるよりも服を着るよりも、人の体温の方が温まるらしい」

「そう、なんだ」

「こうしてると俺もあったかいし」


 さもあらん。美咲は自分が発火してるのでないかと思うくらい顔も体も熱くなっていた。


 トンネルの中には雷雨の音と、排水溝に水が流れていく轟音が響く。恥ずかしさは、やがて心地よさに変わった。晶の胸は雨と汗の匂いがした。そして温かかった。人の体温がこんなに温かく心地よいものだと、初めて知った。厚い胸板を打つ鼓動は、美咲と同じくらい速かった。


――晶も同じ気持ちかもしれない。


 突然の雷雨で寒くて、心細くて。

 そう思ったとき、美咲は晶の背中に自然と手を回していた。自分の手も相手を温められる手でありたかった。



 晶が息を呑むのがわかった。



 雨も雷も、すべてが消えうせた。ただ互いの体温だけを感じて、ただ抱き合っていた。時が止まったかのように、ずっと。



 どれくらいそうしていただろう。


「……雨、止んだかもな」

「うん」


 刹那、美咲を抱く力が強くなって、耳に何か温かく柔らかいものが触れた。


「晶――」

 しかし次の瞬間には晶はもう美咲から離れて、足早にトンネルの外を確認しに行っている。


「もう大丈夫そうだ」

 振り返った晶は、笑って美咲に手招きした。

「ほんとだ。もう平気だね。でも道に水がすごい」

「自転車は押していくか」

「そうだね」


 二人でぎゃあぎゃあ言いながら水浸しになった道路を歩いて帰った。



――もしかして、キスした?

それは結局、聞けないままだった。





 家に帰ってからも晶の腕の感触が身体に残っていた。


 その感触は美咲を心地よく包んだ。あなたは大切な存在だよと言ってもらえているようだった。そんな風に思ったのは生まれて初めてだった。その夜はとてもよく眠れた。



 連続幼女誘拐殺人事件の犯人逮捕、というニュースがテレビで流れたのは、その次の日だった。




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