17 夏休みの日課
それから毎日、晶は美咲のアルバイトが終わるのをコンビニエンスストアの駐輪場で待つようになった。
他愛もない話をしながら堤防の道を歩き、河川敷まで下りていき、晶はその日のダンスの復習をして、美咲は気ままに歌ったり川をぼんやりと眺める。それが日課のようになった。
踊っているとき、晶は美咲の存在も周囲のことも忘れているようだった。美咲は河川敷に生えている青々とした長いねこじゃらしを手に取って蚊を追いながら、川の流れを眺めるふりをしつつ晶を見ていた。
晶の額に流れる汗や、1.5リットルのペットボトルを飲んでいるときの喉の動きや、長くしなやかな手足の動きと筋肉の躍動。
目が、耳が、美咲の感覚すべてが晶に吸い寄せられた。
夏休みに入ってからは日中ほとんどアルバイトを入れていたため、テレビ人間に遭遇することはあまり無かった。晶と共に時間を過ごすことでさらに帰宅が遅くなると、テレビ人間は酩酊して寝た後だった。
時々、テレビ人間が暴れて割ったらしき皿を片付けたり、テレビ人間に殴られて怪我をしている母の手当をすることはあったが、息を殺して部屋でじっとしている時間が無い分、気分がだいぶ軽かった。母には申し訳ないと思いつつ、美咲は日が暮れるまでの時間のほとんどを晶と共に過ごした。
美咲は学校の鞄からラムのキーホルダー取り出し、アルバイトに持っていく休日用のキャンバス地の鞄に付けた。そしてその鞄の内ポケットに『BAD』の歌詞カードが入ったピンク色の袋を入れた。
晶にならキーホルダーを見られても白い目で見られないと思ったし、『BAD』の歌詞カードはいつでも返せるようにしたかった。
今日こそは返そう。毎日そう思うけれど、なかなか返すタイミングをつかめずにいた。晶といると、他愛のない話でも会話が尽きなくて、つい言いそびれてしまうのだ。
今日も、口から出てきたのは別の話題だ。
「この前借りた本だけど」
晶が貸してくれた村上春樹の本は『風の歌を聴け』という題名で、やっぱり美咲は知らなかった。村上春樹のデビュー作なのだという。
「どうだった? 面白いだろ?」
「うん、とっても。有名な作家だっていうからもっと難しい文章なのかと思ったら、すごく読みやすい」
「よかった、美咲もそう感じてくれて」
晶は空を仰いだ。
「いろんなこと言われるけど、村上春樹は最高だよ。名作は名作っていうことを証明している本物の小説家だ」
「それを聞いたら、晶が言ってた静謐な場所っていうのがますます気になるな。わたし、まだ見つけられてないんだ」
『風の歌を聴け』は面白いが、静謐というよりワクワクしてドキドキして、先を読みたいと思う。それはたぶん、晶の言う静謐とは違う気がする。
「そうだな、何冊か読むと実感できると思う。読んでみる?」
「ぜひ」
自分の中に静謐な場所があるなんて。想像しただけで素敵な気分になる。
晶が次に持ってきたのは『1973年のピンボール』という本だった。
「俺たちが生まれた年がタイトルなんだぜ」
「なんか不思議な感じ」
美咲は受け取った本が折れないように慎重にトートバックに入れる。ラムのキーホルダーがちゃり、と音をたてた。
「あ、それ『うる星やつら』ってアニメのキャラクターだろ?」
晶がさりげなく聞いてくれたことに目の奥が熱くなる。晶は福本京子とのやり取りをどうやら見ていたようなのに、あのときも「胸を張っていい趣味だと思う」と言ってくれた。
「ええと、名前なんだっけ」
そう聞いてくれる晶の言葉がうれしすぎて、この会話を途切れさせたくなくて。あわてて目をしばたかせ、平静を装う。
「ラムだよ」
「そうそう、ラム! アメリカで同じ学校だったアニメファンの友だちがラムはセクシーでキュートで最高だって熱弁してた。インパクトのあるコスチュームだもんな」
「ヒョウ柄のビキニなんて、すごいよね」
「現実には有り得ない」
視線が合った瞬間互いに吹き出し、しばらく大きな声で笑った。犬の散歩をしていた老人が「今どきの若いもんは」と苦笑まじりにすれ違っていった。
ごく普通にアニメの話をしてもらえることが心地よくて、借りた本が楽しみで、家に向かう美咲の足どりは軽かった。
このところ、テレビ人間は夜もリビングで澱んでいる。
テレビでは決まって野球中継が映っており、巨人が勝っている日はおとなしく、負けると暴れて物を破壊し母を殴った。
今夜は巨人―中日戦で、巨人が勝っていた。
野球中継の音と母が台所で皿を洗う音がする、束の間の平和な夜だった。美咲はキッチンの隅でお茶漬けをかきこみ急いで部屋に戻る。そして、晶が貸してくれた『1973年のピンボール』の頁を開き、その世界に没頭した。




