16 夕暮れの河川敷
「久しぶり」
コンビニエンスストアの駐輪場で、二階堂晶が手を上げた。
だぶだぶのデニムに白いTシャツ姿でヘッドフォンを首に掛け、SONYのWALKMANで音楽を聴きながら二階堂晶は本を読んでいた。
アルバイトで疲れてぼんやりしていた美咲の意識は一瞬で目覚めた。脇や背に汗が噴き出たのは暑いからではない。
――どうしよう。
まず頭に浮かんだのは、Mにこの場面を見られたらどうしようということだった。
夏休みが始まる前、勇気を出してMにバイト先を教えた。顔を見せにきてくれないかな、という一縷の望みをかけて。だからこの一週間、アルバイトに来るとMのことばかり気になった。
Mらしき人物が店に入ってこないか、駐輪場で佇んでいないか。いつも注意深く周囲を観察していた。
けれど目の前に現れたのがMでなく、二階堂晶だったなんて。
『BAD』の歌詞カードを借り、ダンスを見せてもらったとき以来、晶に対して上位グループの人間に対するような緊張感はない。
その代わり、美咲は晶を前にすると困惑するようになった。
晶の姿を見かけると逃げたくなって、それなのに話をしたい。そんな矛盾する気持ちが葛藤するようなったのだ。その葛藤は美咲をひどく落ち着かなくさせた。
今、こんなに近くで話したら自分の心臓の音が聞こえてしまうかもしれない。変な奴だと思われるかもしれない――美咲は晶と三メートルほど距離を取って身構えた。
「あはは、そんなに警戒しなくても取って喰ったりしないよ」
「……二階堂君、何してるの?」
「名前で呼び合う約束だろ。歌詞カードのお礼に」
晶は悪戯っぽく笑って黒いヘッドホンをリュックに引っ掛けた。歌詞カードのお礼だと言われれば美咲は逆らえない。
「じゃ、じゃあ、晶……こんなところで何してるの」
意識していると思われるのが嫌で名を呼んでみるが、うまく発音できない。けれど晶は気にする様子もなく、
「ダンススクールの帰りなんだ」
傍らに置いた大きな黒いリュックをぽん、と叩いた。
「美咲と一緒に帰ろうと思って」
――わたしを待っていた?
それは美咲にとってかなり衝撃だった。Mに見られたらどうしようという思いはまだ頭の隅にあったが、なぜか高揚した気分がそれを麻痺させた。顔が熱くなったのをごまかすように顔をしかめて呟いた。
「暑いのに」
「べつに気にならないから。ダンスしてるときの方が暑いし」
屈託ない笑顔にとっさに言葉が返せない。どうして自分は晶のように感じ良く笑えないのだろう。
自分が恨めしくて、でもどうすることもできなくて、そんな自分も嫌で。美咲は視線を落としたが、ふと、晶が手に持っている本に目が吸い寄せられらた。
「それ、何の本?」
「村上春樹だよ」
『世界の終わりとハードボイルドワンダーワンド』というタイトルが見えた。美咲は村上春樹という作家もその長いタイトルの本も知らなかったので、黙って自分の自転車のカゴに荷物を入れた。
「読書感想文、夏休みの宿題で出てただろ。課題図書じゃなくてもいいって聞いたから、どうせなら自分の読みたい作家の本を読もうと思って。美咲は読書感想文の本、読んだ?」
晶は自分の自転車を動かし、美咲と並んだ。
「読んでない」
このところアルバイトが忙しくて図書館にも行ってなかった。読書感想文のことなどすっかり忘れていた美咲は、週末に図書館、と頭の片隅にメモをする。
「村上春樹、嫌い?」
「嫌いっていうか、知らない」
「まじ?」
晶は驚いたようだった。
「じゃあ読んでみなよ。絶対損はさせない。すごく面白いから」
熱心に勧める晶と、手の中の本を見比べる。本には、栞が挟んであった。
「でも、読んでる途中でしょ?」
「気になる? なら違うのを貸すよ」
「違うのって……その作家の、他の本も持ってるの?」
「うん。村上春樹の本は、今のところ全部読んでるし、持ってる」
美咲も読書は好きだが、この作家が好き、という本の読み方ではない。本を買ってもらうことなどできない美咲にとって、本とは基本、図書館の本だ。図書館のお薦めコーナーの本が主で、それはつまり文豪の本やファンタジーが主だった。
「その村上春樹っていう作家の本、どこで知ったの?」
「本屋巡りをしていて、たくさん積まれている本をいろいろと立ち読みしていて、これは面白い、他の本と違うって思ったのがきっかけだったかな」
「ふうん」
そういう本の探し方もあるんだ、と素直に感心した。
晶の読書の仕方は美咲が知らない方法で、新鮮で眩しく思えた。
「村上春樹の作品を読んでいると静かな気持ちになるんだ。自分の中にこんなに静謐な場所があったんだって気付かされる。あるいは静謐を望む心があったんだって気付かされる」
「へえ……」
静謐、という言葉が胸の中にぽたんと落ちてきた。静謐。素敵な響きだと思った。
読むと静謐な場所に気付くって、どんな小説なんだろう。
「明日持ってくるよ。美咲もきっと気に入ると思うから」
いつの間にか堤防の道に出ていた。
晶がダンスを見せてくれた河川敷の広場が見えてきた。夏休みだからか、あの時よりも人影が多い。数人の子どものグループが歓声を上げて走り回っていた。
どちらともなく自転車を停めて、その風景をしばらくぼんやりと見ていた。
「またダンス見せてね」
思わず言葉が出てきた。自分でもびっくりして、見上げた晶もびっくりしている。その顔が弾けるように笑った。
「Sure!」
完璧な発音で晶が言う。
「ちょうど今日、スクールでやったことを復習したいと思ってたんだ。見てくれる?」
「えっ……あのっ、ちょっと!」
晶は美咲の手を引いて河川敷を走り下りた。広場の隅にリュックを下ろし、WALKMANを出してヘッドホンを抜きスイッチを入れた。すぐに曲名がわかった。
「……Man In The Mirror」
ゆるやかに流れだしたマイケル・ジャクソンの曲。『ベストヒットUSA』やラジオなどでチャンスを見つけては何度も聞いて歌詞も覚えていた。
晶の長い手足がしなやかに動きだした。
晶は全身で曲の想いを、自分の想いを表現している。それはごく自然な動きだ。
それを見ていた美咲の口からも、いつの間にか自然とメロディーがこぼれていた。
そんな自分に驚いて、でも歌うことをやめられなかった。晶は無心に踊っている。ただリズムに身を任せ、何度も同じ動きを繰り返して確認している。
夕暮れの空を見上げ、美咲も歌い続けた。どこかで蝉が鳴く河川敷に、夏の夕暮れの風が吹いていった。




