15 1989年 夏のはじまり
学期末の試験が終わると学校は一気に夏休みモードに入る。
どこに遊びに行くだとかいつ花火大会があるだとか、そんな話がひっきりなしに飛び交う。そんなフワフワと落ち着かない空気の中でも人間関係の微妙な駆け引きがあり、それはグループ同士の駆け引きであったり男子と女子の駆け引きであったりいろいろだが、美咲はそういう人間関係の渦から遠く離れていることを今ほどよかったと思ったことはなかった。
このところMとのやりとりが頻繁なので、トイレに行ったり下駄箱を気にしたり、美咲も落ち着かないのだった。
『夏休みは何をしていますか? 夏休みの間、貴女と手紙の交換ができないのはさびしい。M』
『夏休みはアルバイトをたくさんするつもり。CⅮラジカセを買いたいから、お金を貯めたいと思う。わたしもMさんと手紙を交換できないのはさびしいです。H』
『同じ気持ちでうれしいです。どこかで偶然に会えることを祈るばかりです。M』
Mはいまだに直接会おうとは言ってこなかった。
いつものように手紙の返事を小さく折りたたもうとして、美咲は手を止める。迷って、もう一行書き加える。
『よかったら夏休みに入る前に、直接話しませんか』
美咲はMの正体を知らないままだった。
けれど、Mとのささやかな手紙交換のおかげで高校という場所に通うことが楽しみになっていた。誰かが自分を気にしているという事実がうれしい。
知りたい。Mのことが、もっと知りたかった。会って話がしたかった。
オタクのくせに、と京子に睥睨されたことを思い出す。学校という檻の中で、少なくない数の人間が美咲を『オタク』と分類するのだとしたら、Mが美咲に失望することはじゅうぶんにあり得る。
四月に部活のことを聞いたとき手紙が途絶えたことを思い出す。その恐怖と天秤にかけられるほどの好奇心が、もったりとした夏の積乱雲のように湧き上がっている。
Mに会いたい。もっと仲良くなりたい。
――ダメだ。
美咲は手紙を小さく小さく破いて大きな溜息と共に便器に投げ入れ、流した。そして新しい紙に書き直した。
『わたしは府中市川辺町にあるコンビニエンスストアでアルバイトをしています。学校から向かって、河川敷沿いの堤防の道の手前にある店です。よかったら来てください。H』
これが、今の美咲にとっての限界突破だった。Mに会いたいと強く思う一方、Mに去られることを怖れた。
いつものように紙を小さく折りたたんで注意深くポケットにしまうと、美咲は下駄箱へ向かった。
昇降口には放課後のざわついた空気と夏の気配が漂っている。
ふと、二階堂晶のことを思い出す。
風の噂では、以前通っていたアメリカの学校のことで渡米していて、六月はほとんど学校を欠席していたという。たしかに、このところ美咲のアルバイト先にも表れず、成子さんが寂しがっていた。
それでも昇降口ホールに貼りだされた学期末試験の順位は一位だったから、二階堂晶はやはり優秀なのだろう。真面目な美咲も試験の結果は悪くはなかったけれど、トップを争うほどではない。純粋に晶をすごいと思う。
♢
夏休みに入り、美咲はアルバイトの回数を週五回に増やすことにした。時間も長くした。
昼間のシフトに入っている成子さん以外の主婦たちは、夏休みになると子どもの用事や家の事情で休みを取るので、その埋め合わせという形だった。店長や成子さんに「助かるよ」と喜ばれた。
「週七日でもできます」
美咲が申し出ると、店長は気遣うような表情で笑った。
「もちろん日高さんが入ってくれたら店は助かるけど……そんなにバイト日数増やしたら、親御さんも心配するんじゃない?」
店長は美咲の顔をじっと見た。その視線の先は先日まで痣で変色していた左眉の端にある。美咲はその視線を避けるようにじゃあ週五日でお願いします、と頭を下げた。
文芸部は、夏休みだからといって活動日は増えない。部活がなければ学校へ行く理由もない。しかし、美咲は家にいたくなかった。
テレビ人間が家を占拠する時間が確実に増しているのだ。
暑くなってから、テレビ人間はほぼ毎日のようにリビングに現れた。
エアコンのついていない薄暗いリビングでテレビの明かりが明滅し、その前でテレビ人間の影が揺れていた。開いた窓から入ってくる生ぬるい夏の熱気が、テレビ人間の放つ臭気を家じゅうに広げた。その汚染から逃れるために部屋の扉をいつも硬く閉じた。
小さな扇風機だけが頼りの部屋で汗をだらだらかいてじっと息を潜めるより、涼しいコンビニで働いた方がずっとずっといい。
アルバイトに出れば忙しいけれど、美咲の心は以前よりずっと凪いでいた。
これまでは仕方ないとすべて諦めていた。けれど今、学校以外にテレビ人間の侵略を回避する手段を美咲は持っている。
それがMからの手紙であり、アルバイトだ。
巨大な戦車の前にたった一人で立っていた男性は『無名の反逆者』と呼ばれ、あの日以来ニュースでは繰り返しその映像が流れている。
その映像を見けるたびに、あの日、殴られながらも母を背にかばったときのことを思い出した。そのことで美咲は少しの自信と希望を見出すことができた。
――もしかしたら。いつか、テレビ人間の支配する檻から出られるかもしれない。
もっと暴力を受けるだろうか。母を連れ出せるだろうか。迷う。迷うけれど、
あの『無名の反逆者』が着ていた真っ白なシャツが。Mからの手紙が。アルバイトが。何もかもを諦めていた美咲を奮い立たせてくれる。
今やれることを精一杯やっていれば道が開けるかもしれない、と思わせてくれる。
そして夏休みに入った今、美咲にとって精一杯やれることというのは、アルバイトだった。




