12 1989年 6月 戦車と真っ白なシャツ
美咲のアルバイト代が入った封筒が勉強机の抽斗から消えたその日、テレビには同じ映像が繰り返し映っていた。
大きな道、いや広場のような場所を整列した戦車が粛々と進んでいく。その前に一人の男性が現れ、戦車の前に立ちはだかる。男性は黒いスラックスに白いシャツを着て、買い物の帰りなのか何か荷物のような物を提げていた。重々しい雰囲気にそぐわない、どこかの風景から切り取って戦車の前に張り付けたような男性の存在に、しかし戦車は止まる。
男性はたった一人で大きな戦車に、もっと巨大なもの――国家や権力や戦争といったもの――に対峙した、とニュースキャスターが興奮気味に話した。
美咲は映像の中の男性から目が離せなかった。ニュースが終わり、別のニュースに映像が切り替わってからもテレビ画面を呆然と見つめ続けた。
自分より大きなもの、強いものに抗うのに、暴力を用いず徒党も組まない。そんなやり方を、初めて見た。
♢
アルバイト代が消えてしまったので、CⅮラジカセを買うのは延期せざるを得なかった。
どうしても、どうしてもすぐに欲しかったのに。
CⅮラジカセがあれば晶からCⅮを借りられる。『BAD』をいつでも聞くことができる。ずっと夢だった。CDをダビングして『ベストヒットUSA』で聴いたことのある音楽をたくさん聴くことが。
けれど手が届くと思った瞬間、夢はまたテレビ人間によって遠ざけられてしまった。
美咲のアルバイト代は、テレビ人間が喰ったことがわかったのだ。
リビングのこたつ机に所せましと積まれているお菓子。そして、ガラスコップになみなみと注がれた焼酎。美咲が生まれて初めて懸命に働いて得た対価、CDラジカセを買うための資金は、すべてそれらに使われたらしい。
いつもはテレビ人間のすることを疲れた顔でやり過ごす母が、珍しく食い下がった。お菓子と酒をどうやって購入したのかとテレビ人間を問い詰めた。
するとテレビ人間は、にたり、と笑った。
真っ暗なブラウン管に薄気味の悪い嘲笑を映し出し、美咲のアルバイト代を使ったとつまらなそうに言った。
「なんが悪いと。家ん中んもんはおいのもんじゃろうが。バイト代でもなんでも、家の中ん金はおいが使っていい金じゃ」
砂嵐のようなざらざらした声に吐き気がした。母は真っ青な顔で、タオルを握りしめた手は真っ白になって、どうしてそんなことが平気でできるのかとテレビ人間を詰った。
「まこちのさん、せからしこっちゃ」
テレビ人間の真っ暗なブラウン管に焼酎が呑まれて消えていく。美咲は想像した。テレビ人間が美咲の部屋へ忍びこみ、勉強机の抽斗を開けて、アルバイト代の入った封筒をそうっと抜き出す姿を。吐き気がした。自分の部屋でテレビ人間がぬめぬめと蠢いていたのかと思うと嫌悪感で全身の毛が逆立った。美咲は雑巾で薄い板のドアや勉強机の周囲を何度も何度も拭いた。
そのとき、台所でがちゃん、と音がして美咲は反射的に立ち上がった。
台所のシンクで母の夫婦湯呑が割れていた。それをじっと黙って見ていた母が、うわあ、と一声上げたかと思うと激しく泣き出した。
いつもなら隣近所を気にしてすぐに泣き止むのに、そのときは違った。金切り声を上げてテレビ人間を罵倒し、呪いの言葉を吐き、バスタオルも役に立たないくらい大声で泣いた。
母に声をかけようと思ったそのそき、怒号と共に何かが飛んできた。
美咲はとっさに母の腕を引いた。母が一瞬前まで立っていた場所でビール瓶が粉々に割れていた。泰平の世の象徴であるという聖獣麒麟のラベルシールがひしゃげている。当たっていたら大怪我をしたことだろう。
母はガタガタ震えた。唇をわななかせ、警察に通報してやる、と叫んで電話台の上の受話器に飛びついた――と思ったら、ゆらり、と近寄ってきた影に吹き飛ばされた。一瞬、何が起きたのか美咲にはわからなかった。テレビ人間が母をしたたかに殴ったのだとわかったのは一拍後だ。美咲は愕然とした。テレビ人間の動作はとても緩慢であるのに、母に危害を加えた瞬間は目に見えぬほど俊敏だった。
化け物。
目の前で黒い靄を増大させる四角い頭部を持ったそれを、他に何と言いようがあるだろう。
母は勢いよく床に転がって呻いていた。美咲が母を起こそうとしたとき、再びテレビ人間が動いた。瞬間、母が手に持っていた電話の受話器が飛んできて、美咲の眉の端に当たった。視界がちかちかと光ってにじんだ。電話台からだらしなくぶら下がる受話器が見えた。あまりの痛さに美咲は動けなかった。あ、と思ったときには隣にいた母がテレビ人間に引きずられていた。
母の悲鳴、そしてテレビ人間が怒号をまき散らし、手を振り上げ、肉が肉を殴打する密度のある音が何度も、何度も執拗に繰り返された。
――やめて。
たぶん実際に音となってこぼれた言葉は、けれど母が殴打される音に消された。
背中を蹴られ殴られるたびに母は奇妙な音を出した。まるで鞴のような、空気が物体をただ通り抜けていく音。
テレビ人間は母をただの物質のように殴打した。そこには何の感情もなく、反復動作と鬱屈した黒い感情があるだけだ。
このままだときっと母は死ぬだろう。
真っ暗なブラウン管にすべてを吸いこまれ、テレビ人間に喰い尽くされ、テレビ人間の歪んだ鬱憤を便所のように吐き出されて死ぬ。
息絶え、肉塊と化した母が脳裏に浮かんだとき、美咲の身体は動いていた。
美咲はテレビ人間の正面に立っていた。
正確には、テレビ人間と母の間に割って入っていた。
背後で母が嘔吐した。荒い息の合間にううとかごうとか苦し気な音がして、様子をみなくてはと思ったが母を振り返ることはできなかった。真っ暗なブラウン管を前にして、その闇をも呑み込む闇への恐怖に全身が囚われた。動けなかった。目を逸らすことすらできなかった。
刹那、視界に火花が飛び頬に痛みが走った。
殴られたのだ。美咲の身体はよろめいた。助けて、と思ったとき、暗いブラウン管に何かが映った。
美咲は目を瞠った。
それは戦車の前に立つ男性だった。巨大な戦車の前に立ちはだかる真っ白なシャツ。暴力ではないやり方で相手に対抗する後ろ姿だった。
――負けたくない。
かつて理不尽に美咲の学校生活を踏みにじったクラスメイトたちへの感情と同じものが腹の底から沸いてくる。負けたくない。倒れそうになる身体を必死にふんばった。真っ白なシャツを、巨大な戦車を前にして怯むことなく立っていた後ろ姿を思った。あのようにありたいと自分を奮い立たせた。
反対の頬にもう一度衝撃がきた。足の裏をぐっと踏んばった。
気が付けば、美咲は真っすぐ立っていた。
殴られても倒れずしゃんと立っていた。自分が真っすぐ立てているを気付いたとき、痛みも恐怖もどこかへいってしまった。
テレビ人間の二本足でしっかりと立ったままの自分の姿が、真っ暗なブラウン管に映っている。真っ白なシャツの後ろ姿がそこに重なった。
テレビ人間の顔に映った自分の姿が、体内の隅々まで血をいきわたらせ、熱を持たせていく。そのエネルギーの流れを美咲ははっきりと感じ取った。
テレビ人間はよろめき、テレビにしがみついた。咆哮を上げ砂嵐の音をたて、部屋から消えた。
美咲はぐったりした母を風呂場へ連れていき、シャワーで洗い流し、必要な着替えを出しておいた。そして母の吐瀉物と割れた瓶を片付け、ひしゃげた聖獣のシールを捨てた。鈍い痛みを思い出し、左眉の尻にタオルを濡らして受話器が当たった部分を冷やした。どす黒い妙に弾力のある生き物が、痛みと一緒にぐねぐねと傷の中でのたうち回っていた。
それを忘れるために、美咲は部屋の扉を固く閉じた。
部屋の隅で丸くなって耳を塞ぎ、傷の中で暴力的な蠕動を繰り返す生き物が静まるのをじっと待った。
またアルバイト代を貯めようまたアルバイト代を貯めようまたアルバイト代を貯めよう。呪文のようにそれだけを繰り返し呟いた。




