10 ラムのキーホルダー
『アルバイト、楽しそうですね。羨ましい。貴女がうまくいっているならよかった。M』
トイレの個室で小さな紙をこっそり開き、いつも通りの流麗な字を見て思わず頬がゆるむが、トイレ内に響く無遠慮な笑い声に思わず眉をひそめた。
トイレの洗面台では上位グループがはしゃいでいた。無意味な言葉を連呼してひたすら笑っている。美咲は耳を塞いで喧噪は遠のくのを待った。
やがて静かになると、美咲は制服のポケットに入れてきたシャープペンシルとノートの切れ端を取り出し、文字を綴った。
『アルバイトは変わらず順調です』
脳裏に、夕暮れの中で踊っていたシルエットが思い浮かんだ。少し迷って、美咲はシャープペンシルを走らせた。
『この前、A組の二階堂君と偶然、アルバイトの帰りに会いました。二階堂君はダンスがとても上手くてびっくりしました。Mさんにも彼のダンスを見てほしい。きっと感動すると思います。それから彼は、マイケル・ジャクソンが好きで『BAD』のアルバムを持っていて、わたしに歌詞カードを貸してくれました。わたしもマイケル・ジャクソンのファンなのですごくうれしいかった。二階堂君は良い人でした』
二階堂晶のことはどうしてもMに報告したかった。
Mが自分と同じく下位グループに属しているなら、二階堂晶という人物を誤解しているかもしれないと思ったからだ。美咲がそうであったように。
『それから、この前初めてアルバイト代をもらいました。大好きなキャラクターのキーホルダーを買って、あとはCⅮラジカセを買うために使う予定です』
最後はこう結んだ。
『最近はこわいくらいうれしいことが続いています。もちろん、Mさんとこうして手紙を交換することもその一つです』
ちょっと長くなっちゃったな、と思いつつ紙を丁寧に小さく折りたたむ。
Mと直接話せたらいいのに、と思う。
そうしたら、自分も上位グループの子たちのようにMとはしゃいだりするのだろうか。
いや、たぶんしないだろう。
Mと自分は静かに、教室の隅で誰にも知られない秘密の会話を楽しむのだ。その風景を想像して美咲はうっとりする。それはきっと素敵な時間だろう。学校がこの世の楽園に思えるような。
♢
「ねえ、もしかしてそれ『うる星やつら』のラムちゃんじゃない?」
隣の福本京子が美咲の鞄を指さして言った。
昼休み、いつものように自分の席で本を読んでいるときだった。四月から同じ教室で過ごしてきて京子に話しかけられたのは初めてだ。京子は上位グループの一人だった。
「うん、そう」
教科書を出したとき外に飛び出してしまったのだろう。美咲はラムのキーホルダーを鞄の内側にさりげなく隠しながら答えた。
Mにも報告した、アルバイト代で初めて買った品物だ。
週に三日、放課後数時間のアルバイト代は、それまで自由なお金を手にしたことのなかった美咲にとっては大金だった。アルバイト代を何に使おうか一晩考えて、二つの物を買うことにした。
CⅮラジカセ。
それと、ラムのキーホルダーだ。
『うる星やつら』は美咲にとって特別なアニメだった。
テレビ人間のせいで見られることはほとんどなかったが、主人公のラムは美咲にとって大好きで憧れのキャラクターだった。
ラムのように自分の好きな人や好きなことに一直線に打ち込めたらどんなに爽快だろう。ラムを取り巻く日常のように楽しい毎日だったらどんなにいいだろう。
「なつかしー。あたしも好きだったよラムちゃん。小学生のときだけど」
きゃらきゃら笑う京子は「小学生のときだけど」というフレーズを強調した気がした。じいっと覗きこむ視線を避けたくて美咲は読んでいた本に戻ろうとしたのだが。
「ねえ、日高さんてよく見ると美人だよね。スタイルもいいし、ボディコン似合いそう」
曖昧に笑い返した。ボディコン? どうして今ボディコンの話をわたしなんかにするのだろう?
困惑を見せないように美咲は微笑んだ。
「そんなことないよ」
「またまたぁ、謙遜しちゃって。ところで持ってる? ボディコン」
まだボディコンの話か。
持っているわけがない。美咲は首を振った。早く読書に戻りたかった。黒板の横にかかった時計に視線を滑らせ、すぐにでもこの会話を終わらせたいという衝動に駆られた。昼休みが終わってしまう。
「ええっ、今どき持ってないのぉ? まあいいや、じゃあ貸すからさ。ディスコ行こうよ」
「ディスコ?!」
まったく予期せぬ提案に、思わず声が裏返ってしまった。美咲の反応に満足なのか、京子はなぜか得意気に言う。
「そ。あっちゃんの知り合いが『マハラジャ』に入れてくれるって。ねえあの『マハラジャ』だよ? すごくない? 友だちたくさん連れてきていいよって言われたんだって。人数多い方がいいんだって」
つまり面子合わせなのだろう。
それでも誰かから何かに誘われたことは単純にうれしかった。久しくなかったことだ。けれど、ディスコはどう考えても美咲には場違いだし、残念ながら興味もなかった。
「あの、わたしそういうのはちょっと……せっかく誘ってくれたのにごめんね」
『マハラジャ』というのは流行りの高級ディスコだと聞いたことがある。
家が貧乏で、学校の隅っこで『異端』という壁を作り、透明人間のように生息している美咲のような人間が行っていい場所だとは、とうてい思えなかった。
誘ってもらったことは本当にうれしかったから丁重に断ったつもりだった。しかし。
「……ふうん。お高く留まってるじゃん」
誘ってやったのに、と言わんばかりだった。京子は一瞬前とはまるで別人な冷ややかさで美咲の鞄を睥睨し、
「オタクのくせに」
言い捨てると席を立ち、行ってしまった。京子の長い髪からふわりとシャンプーの甘い香りが立ち上がった。
オタクのくせに。
その言葉はそのまま、美咲の内側の柔らかい部分に刺さった。普段、誰からも侵されないように大事に大事に守っている柔らかでつるりとした部分。そこに、鋭い棘がぷつりと刺さったようだった。
ラムのキーホルダーが二度と誰の目にも触れないように、美咲は鞄の奥底へしまった。野生動物が幼体を巣穴へ隠すように、そうっと。
そのとき鞄の底で小さな紙が手に触れた。帰りに下駄箱へ入れていこうと思っている手紙だ。
Mはラムのキーホルダーのことをどう思うだろう。
Mは京子と美咲のやりとりを見ていたかもしれない。
オタクのくせに、と言った京子の言葉に賛同したかもしれない。
そう思うだけで全身が冷たくなった。足元の地面がぐずぐずと崩れていくような感覚に身も心も侵食されていく。
Mが美咲の前から去ってしまうなんて考えただけでも怖い。けれど、ラムのキーホルダーを無かったもののように捨てることなんて美咲にはできないのだった。




