9 PASSION
「家がこっち方向の人いないと思ってたから、すげーうれしいな」
一緒に帰ろう、と二階堂晶は駐輪場で屈託なく笑った。
美咲がアルバイトを終えるのを待っていたらしい。アルバイトで疲弊した身体がさらに重くなった気がした。
何が親近感だ、と美咲は思う。そんなものクソくらえだ。
美咲が何もいわないうちに、二階堂晶は自転車を引いて美咲と並んだ。
学校の中で最上位グループのそのまた頂点にいる人間は、自分が他人から拒否されるなんてきっと微塵も思わないのだろう。
だから平気で人を待っていたり、自転車を並べて歩いたりできるのだ。
その図々しいとも思える思考に美咲は無性に腹が立った。
しかし学校とアルバイトで疲れた身では、この状況と明るい傍若無人さに抗う勇気も気力もなく、美咲は無言で自転車を引いて歩いた。
理不尽なことをされることには慣れていた。それは厄災と同じだ。テレビ人間もいじめもそうだった。無駄に逆らわず、じっと嵐が過ぎるのを待つしかない。
「なんか怒ってる?」
聞かれて首を振った。答えるのも億劫だった。
「じゃあ、なんか疑ってる?」
晶は長身をかがめて美咲を覗きこんだ。視線が合ってしまって思わず言葉が出た。
「二階堂君の家、広尾にあるって聞いたことがあるけど」
都心の高級住宅街に住んでいる人が、なんで。なんでこんな郊外のコンビニエンスストアの駐輪場で学校下位グループの美咲のことなどを待っているのか。
「へえ、俺の自宅を調べた奴がいるんだ。物好きな人間もいるもんだなぁ」
晶は心底感心したように言ってから美咲の視線に気付き、顔の前で手を大げさに振った。
「あ、誤解しないで。俺、嘘は言ってないから。広尾に家があるのは本当で、こっちに家があるのも本当。一人暮らしをしてるんだ、俺」
「一人暮らし?」
「自宅からだと遠いからさ、学校」
晶はさらりと言うが、遠いからという理由であっさり一人暮らしができる――美咲には眩しすぎる話だった。
「それにしても、日高さんがバイトしてるってちょっと意外だったな。何かきっかけでもあるの?」
どこか踏み込むような聞き方がざらりと美咲の内側を撫でた。あの手紙のことは誰にも話したくなかったし、知られたくなかった。もちろんテレビ人間のことも。だから当たり障りのないことを言った。
「お金、欲しいから」
それはまったくの嘘ではなかった。
お金は必要だった。
テレビ人間は今や、家で凝っているだけでなく、家じゅうに侵出して金を喰うようになっていたのだ。
家にある硬貨や紙幣はテレビ人間に見つかればすべて真っ暗なブラウン管の中へ吸い込まれた。母も美咲も、硬貨や紙幣を自分の手の中に――決して比喩ではなく本当に――しっかりと握りしめている必要があった。
「偉いなあ、日高さん。自分で使う金を自分で稼げるってすごいよ」
ちがう、そうじゃない、と叫びたかった。
そうしなければテレビ人間にすべてを喰い尽くされてしまうから、飢えてしまうから、文字通り生きていけなくなってしまうから。だから必死で働いて、必死にお金を握りしめて眠っている。
「俺なんて、好きなCD買うにも親からもらった金だからさ」
そう言って笑い、晶が何気なく鞄からCDケースを出したのを見て、美咲は目を瞠った。
「マイケル・ジャクソン、好きなの?」
それは『BAD』のCⅮアルバムだった。
懐かしさと羨望が一気にこみ上げる。『BAD』のアルバムは喉から手が出るくらい欲しかった物だ。しかしいくつかの理由から手に入れることを諦めている物でもあった。
「日高さんは? マイケル・ジャクソン好き?」
逆に聞かれて反射的に深く頷いた。
「とても好き。ダンスもパフォーマンスも全部すごいと思う。歌もそう。マイケルの歌を誤解してる人もいるけど、歌詞の意味をちゃんと理解してないからだと思う」
以前『BAD』の歌詞を訳しているとき、図書館の人が教えてくれた。マイケル・ジャクソンの歌の歌詞はさまざまに解釈が分かれるのだと。
「『BAD』の歌詞だって、ナンパの歌とか暴力的とかいろいろ言われているけれど、そうじゃない。本当に悪いのは何か、それに抗うために暴力は絶対に使わない、っていう強いメッセージがあると――」
美咲は立ち止まって振り返った。晶が呆然と立って美咲を穴の開くほど見ていた。
「俺も同じこと思ってた!」
え、と思った瞬間、晶は満面の笑みで言った。
「うれしいよ。マイケル・ジャクソンについて熱く語れる相手が見つかるなんて!」
「や、そんな、わたしは」
「それに日高さん、本当はすごくしゃべるんだね」
口をパクパクしたまま恥ずかしさで顔が熱くなった。しまった。上位グループの人を相手についしゃべり過ぎてしまった。
「それに俺のこと、初めてちゃんと人間として認識してくれたし」
「えっ、そ、んなことは」
下位グループの自分を同じ人間として見ていないのはそっちではないのか。
「いいんだ。責めてるわけじゃない。日高さんていつもcoolだからさ」
coolという発音が嫌味でもなんでもなく自然に素晴らしくて、美咲は晶の言葉を待った。
「なんていうか、ラインを引いてるっていうか。壁を作ってるっていうか」
確かに美咲は『異端』という壁で自分を守っている。
それは学校の中で、あなたたちのような上位グループの人たちから身を守るためだからと胸の内で呟く。
「だけど今、俺とちゃんと会話してくれたじゃん。すごくうれしかったよ」
美咲は言葉を返せなかった。
上位グループの人間は、自分たちより下の人間と話をしてやっているという態度を隠さない。下位グループに対してはなおさらだ。
下位グループに属する美咲のような『異端』に対し、会話してくれてうれしかったと言う晶に、何と言葉を返していいのかわからなかった。だから晶が持っている『BAD』を食い入るように見ていると、
「好きだよ、ずっと」
顔を上げると晶は頷いた。笑った顔はいつも学校で見る社交的な笑いではなく、どこか力強い芯を持った笑顔だった。
「マイケル・ジャクソンは俺の憧れなんだ」
自転車を引きながら今度は晶がマイケル・ジャクソンについて語った。その生い立ちからジャクソン5時代のこと、ソロデビューのことなど、晶は実にマイケル・ジャクソンのことについて詳しかった。
限定された情報源しか持たない美咲にとって、晶の話は刺激的で、気が付けば夢中で耳を傾けていた。
「CⅮ、貸そうか?」
「えっ……」
瞬間、うれしさが胸を突き抜けた。しかし次の瞬間には泡沫のようにうれしさは消えた。美咲は砂利を噛むような失意を押し隠して力なく首を振った。
「ありがとう。でもいい」
「どうして? 貸すからダビングすればいい」
「……CⅮラジカセ、持ってないから」
CDが出回っている最近では、レンタルショップや図書館で好きなだけCDを借りてきてダビングできることは知っていた。CDを買うよりもずっと安く多くの曲が聴けるというその魔法のような方法は、しかしCDラジカセが無くては叶わない。
晶は少し黙ったあと、CⅮケースから歌詞カードを抜いて美咲に差し出した。
「今でもラジオの音楽番組とかで『BAD』はよく流れるから。歌詞カードがあったら楽しめるかも」
すぐに断れないほどにその申し出は魅力的すぎて、美咲は黒い衣装に身を包んだマイケル・ジャクソンを凝視してしまう。焦れたように晶が美咲の手を歌詞カードでタッチした。
「ほら、鞄にしまって」
「でも」
「I hope you like it」
見事な発音だった。
思わず顔がほころんで、美咲は歌詞カードをおそるおそる受け取る。
「ありがとう」
「You're welcome」
晶は笑って道端に自転車を停め、河川敷へ下りていった。慌てて歌詞カードを鞄にしまって、長身の後ろ姿を追いかけた。
こんなに幸せでいいのだろうか、と美咲はまだぼうっとしていた。夢にまでみた『BAD』のアルバムの歌詞カードが鞄の中にあるなんて。身体の力が抜けるのを感じた。晶の後ろから川の方へ下りていく足どりが心地よくとても軽い。
この辺りは川幅が広く、河川敷には広い公園やグラウンドがある。人影はまばらだった。犬の散歩をする人がちらほら通り過ぎていく。この時期特有の生命力を帯びた夕焼けが、静かな河川敷を黄金色に照らしていた。振り返った晶の顔に夕焼けが陰影を作る。
「日高さんて、部活なんだっけ?」
「文芸部」
「お、文化部仲間だな」
「え……二階堂君、文化部なの?」
「うん。コンピューター部」
意外だった。晶はバスケットボールが上手いという噂だった。背も高いし、引き締まった身体はどんなスポーツでもこなせそうだ。
「意外だった?」
「運動部だと思っていたから」
正直に言うと、晶は照れるように笑った。
「実は俺、ダンス習ってるんだ。運動部だと両立できないし、身体に筋肉が付き過ぎちゃうから」
ふいに、煌めく川面を背景に長い手足が軌跡を描いた。
滑らかな動きが波を作ったと思ったら、ぐっと引き寄せた体がビートを打つ。ステップでリズムを作るその動きは見覚えがあり、頭の中でメロディが再生された。
「ビート・イット!」
「当たり」
晶はうれしそうに手を挙げた。
「すごい。MVのダンスにそっくりだよ!」
「ほんと? そう言ってもらえるとうれしいね」
晶はそのまま軽いステップで踊り続けた。そのしなやかな動きは男性の大きく筋肉質な身体からはちょっと想像できないもので、振りの正確さは目を瞠るものだった。『ベストヒットUSA』で見た『ビート・イット』のミュージックビデオそのものだ。
ダンスの良し悪しなどわからない美咲の目から見ても、晶のダンスは標準レベルを軽く超えるものではないかと思われた。
晶のダンスには人を惹き付ける何かがある。
それは晶の容姿の良さに由来するものではなく、晶の内側から発散される何かだ。目が離せなくなる、人を惹き付ける熱い何か。
額から伝わる晶の汗が、晶が飲む午後ティーのペットボトルが、夕陽を反射してとてもきれいだと思った。二階堂晶という人間の力強さや美しさを目の当たりにした気がして、肩で息をしている晶の背中に心に浮かんだことをそのまま言った。
「……PASSION」
「Passion?」
完璧な発音が聞き返してくる。
「二階堂君のダンスは、PASSIONだと思う」
振り返った晶と目が合った。美咲は真っすぐ晶を見た。汗で額に張り付いた髪をかき上げた晶は、白い歯を見せて笑った。
「ありがとう」
無邪気な、子どものようにきらめく瞳で。本当にうれしそうに。
それは学校で見たことのある二階堂晶とは別人の顔だった。
♢
ある晩、母が美咲の帰宅が遅いことを詰った。帰って家事をしろと言う。
「アルバイトしてるんだよ。前に許可届にハンコ押してもらったでしょう」
母の溜息をかき消すように美咲は早口で言った。高校生アルバイトは親の許可が必要ということで、母には書類を見せて印鑑をもらっていた。
どこでアルバイトをしているのかと母は聞く。前にも話したはずなのに。疲れているせいか、母は美咲が話したことをほとんど覚えていない。こうして何度も同じことを説明することが多い。
「学校の帰り道にあるコンビニだよ」
白米にふりかけをかけた。あとはキュウリとワカメの酢の物、それが夕飯だ。母は茹でたジャガイモにマヨネーズをかけてかじりついている。
「時給いくらなの」
「750円」
「あんた、銀行口座なんて持ってないじゃない」
「高校生はバイト代を手渡しだって」
母はジャガイモとマヨネーズを咀嚼してから言った。
「ふうん。いいわね。稼いだお金を自分のために使えるなんて」
美咲は何と返していいかわからず黙った。母の言葉は嫌味でも揶揄でもなく、手に取れるように実感のあるものだったからだ。
母は働いても働いても、きっと一円だって自分のために使えることなどないのだろう。母が働いて得たお金は、このふりかけやキュウリやジャガイモに使われる。あるいはテレビ人間に喰われて終わりだ。
「家にもお金、入れるから」
美咲が言うと、母はチョコレートが買えると喜んだ。ふと視線を感じて顔を上げると、真っ暗なブラウン管がこちらに向いていた。
美咲が恐怖に身をすくませるのを確認してから、ゆっくりとテレビ人間はテレビに向き直った。
テレビでは夜のNHKのニュースが流れている。テレビ人間の真っすぐ伸びた背中が左右にゆっくり揺れている。それは古い柱時計の振り子を思い起こさせた。
その振り子は、どこへ向かって時を刻んでいるのだろう。
目を逸らしたいのに、美咲はテレビ人間の背中をじっと見つめていた。




