水没廃墟の片隅で
海から突き出た『止まれ』の逆三角形は、走る自動車ではなく、跳ねるイルカやトビウオを制していた。
線路を失った貨物列車は、海水を切り裂きながら悠々と泳ぎ、団地の洗濯物は風ではなく水流に揺れている。
そして深山颪は街へ吹き降りることなく、海面に阻まれて荒波を立てた。
潮を滑ってきた風は、やけに冷たい。
「……寒い」
海原の上、斜めに顔を出す信号機に腰掛けていた少女が、肩をすくめる。
かつて灰色の道路に三原色を灯していた信号機は、今や海藻の深緑に覆われ、磯の匂いを放っていた。
「奴らの密会、そろそろだよね。こんな感じで撮れれば……」
少女は隣の廃ビルへスマホを向け、割れた窓の奥に広がる暗闇へとピントを合わせる。
試し撮りを重ね、確信を得た瞬間……彼女は信号機から迷いなく飛び降りた。
水面に触れた途端、少女は“シャチ”へと姿を変える。
……といっても変身の術ではない。ただ、オーバーサイズの黒いパーカーのフードを深く被り、紐を引いて顔だけを出しただけだ。
背ビレのついたパーカー。白いアイパッチが描かれたフード。すっぽり被れば、遠目にはシャチそのもの。
──のはずだったが、フードの下から太い漆黒の三つ編みがにょろりと飛び出し、どうにも異物感が拭えない。
崩れたビル街の上空を、シャチの群れが縦横無尽に泳いでいく。
海底から見上げれば、まるで空を飛んでいるように錯覚するだろう。
その群れに紛れ、少女──シャチ娘──も街という名の大海原を進んでいく。
本来はカナヅチだった彼女が、魚のように泳げる理由は単純ではない。
また、この水没世界に適応するため特訓したわけでもない。
すぐそばに、スマートなイルカが近づいてきた。
〈わ、シャチ化した子もいるんだ!〉
イルカ型の水着──マーメイド水着──を身につけた少女が、驚いたように声を投げる。
〈イルカ化は多いけど、シャチは珍しいかもね〉
シャチ娘は、透明で少し暗い調子の声で返す。
ここは海中。言葉は口ではなく、鼻の気嚢を震わせて放つ超音波だ。
世界がこうなった直後、人々は一律に気嚢と水泳能力を得た。
それが“当たり前”になって久しい。
〈あなた、どこの子?〉
イルカ娘が問うと、シャチ娘はスマホを取り出し、海底を照らす青白い光の中で地図を示した。
かつて首都だった都市の中央──住宅街の跡地。
〈そんな遠くから? ワケありって感じ〉
〈……そっちは?〉
話題をそらすシャチ娘に、イルカ娘は深追いしない。
〈あたしはヒマつぶし。こんな世界だと、一日が一年みたいでさ。だから北へ旅行中~。じゃ、またね〉
〈北はまだ、なごり雪があって寒いよ。気をつけて〉
〈はーーい〉
イルカ娘は軽やかに去っていった。
暗く内向的なシャチ娘が、初対面の相手と自然に会話できるのは、この世界の“ある特性”ゆえである。
彼女は再び群れとともに西へ進む。
(不思議。人間だった頃は、群れなんて大嫌いだったのに)
そんな思いを胸に、果てのない水没廃墟を進んでいたとき、彼女はふと動きを止めた。
群れが遠ざかり始めた頃、彼女はゆっくりと上昇する。スマホの録画を開始しながら。
目指すは、海から真っすぐ突き出たタワーマンション。
この一帯だけは、朽ちも傾きもしていない。
〈証拠さえ撮れれば……アレさえ撮れれば〉
呪文のように目的を繰り返しながら海面へ向かう──そのときだった。
スマホの画面に、異様な影が滑り込んだ。
高速で「§」の記号を描くように迫る細長い生物。
〈ヤツメウナギ!?〉
鋭い円形の歯列。獰猛な動き。
だが、すぐに分かった。これは本物ではない。ヤツメウナギの能力を受け継いだ“少女”だ。
イルカやシャチは元のサイズが大きいため、人間が化けても違和感は少ない。
だがヤツメウナギは小型であり、それが人間サイズになれば、やたら異様さが際立つ。
それでもシャチ娘が一目で正体を見抜けたのは、
〈ハイ、身柄確保。ちょっとツラ貸してもらうよ〉
そう言い放つ少女の髪飾り。
両目の左右に七つずつ並ぶ“エラ穴”のような装飾が、決定的だった。
〈何なの!? 離して!〉




