07 個の自覚
ついに夏期講習がやって来た。
早朝、学校のロータリーには、貸し切りの大型バスが何台も連なっていた。僕が通う進学校では恒例行事となっている、希望制の夏期講習合宿。特進クラスや医学部志望者が中心となるこの《強化合宿》は、三泊四日、学校の理事長が所有してるだとか言う、山奥のホテルでひたすら偏差値を上げるためだけに開催される。
バスの座席は男女別で、出席番号順に割り振られているはずだった
だから本来、僕の隣には出席番号が一つ後ろの男子生徒、寺野が座るはずだったのだが――。
「よう。奇遇だな、月野」
特に奇遇でもなさそうな言いぶりで、いつもの友人に会うようなテンションで。窓際に座っている僕の隣に、当然のように宇都宮――学校生活であるから、男だ――が、座る。もちろんこれは宇都宮の分身、《一ツ星》相当の実力者。男の宇都宮有だ。
昨日までの金髪美少女とは打って変わって、今は隣で制服をきっちり着こなす、整った顔立ちの・黒髪の美少年へと擬態している。
「……僕の隣は寺野君のはずだが?」
「ああ、ティラノ?」
寺野君――クラスではティラノと呼ばれているトサカが特徴的な男子生徒――は、本来宇都宮が座るはずだった席にいて、隣のクラスメイトとワイワイ喋っていた。
「代わってもらった」
宇都宮は彼を指さしながら、にんまりと笑う。
バスが発車するまであと十分はある。その余暇を楽しむかのように、宇都宮は僕に向かって肩を組んできた。
「……おい」
「いやなのか?」
「まぁこれくらいなら別に……」
「じゃあこれは?」
そう言いながら、宇都宮の唇が、猛接近してくる。
「このボケェ!」
「――ふぎゅゥっ!?」
僕は宇都宮の頭に脳天チョップをかました。
宇都宮は頭を押さえ、ちょっと悔しそうに僕のことを見てきた。
「なんでだよぉ……」
「馬鹿、見られるだろ」
僕は首を振って周囲の様子を観察する。……よかった。周りは歓談に夢中で、こっちの様子なんて気にも留めてない。よかった。危ない。僕と宇都宮がデキてる疑惑が出来るところだった……。
「なんでキスしてくれないんだよぉ……」
「公共の場だろうが」
「そうじゃなかったらいいのか?」
じーっと、少し非難するように目を細めて、僕を見た。
「そもそも、男同士のキスなんて――」
「いやか?」
そう言って、ずいっと、近づいてきた。
顔面で説得してくるんじゃない、この美少年が。
僕は別に、同性愛者じゃないんだってーの。
「……やっぱり、女の方がいいか?」
「いや。……そりゃあさ、僕は……その、性愛の対象は女だから」
「男の状態じゃダメか?」
じっと、雨に濡れた子犬のような目で、うるうると僕のことを見つめていた。おい、やめろよ。……僕が悪いみたいじゃないか。いや、こいつも、有なのか? なんなんだ、この状況は……。
気軽に性転換しやがって、僕の情緒はぐちゃぐちゃだ。
「……。頬までなら」
最大限、僕は譲歩した。
唇はともかく、頬までなら、許容してやろう。
そう思って宇都宮を見ると、期待に頬を染めていた。
「いいんだな!?」
大声。
注目が、集まる
僕は再び、そいつの頭をぺしっと叩く。
「……公共の場であることは弁えろ。いいな……?」
というか、この程度のこと、普段のお前ならできるだろうに。
「ごめん。でもさぁ、月野も悪いよ」
「ああ?」
「月野がぁ、なんだかんだ俺に甘いからさぁ」
「は? 甘い?」
「ほら、セックスの時だって――」
僕は無理やり口を防いだ。もちろん唇なんかじゃない。手だ。手で思いっきり封じ込めた。喋るな、と言う意思を全力で込めて、睨んだ。申し訳なさが瞳から伝わって来たので、放してやる。
「……」
それから、露骨に宇都宮は黙り始めたので、僕は仕方なく、嘆息をして、バックの中からスマホを取り出した。
『チャットでしゃべるぞ』
とラインをしてみる。
『いいのか!!??!??』
『いいよ』
『やった!!!!!』
と、宇都宮は無言でガッツポーズ。なんだこいつ。それが奇妙で、面白かった。隣にいるのに、喋らずにチャットなんて、馬鹿みたいだ。「なぁ、二人で意外と仲いいん?」
関西弁の女子生徒が声をかけてきた。
宇都宮はスマホから視線を外して、お団子頭の女子生徒を見ると、にんまりと笑った。そして、笑顔で肩を組む。
「そうそう! 俺たちって仲良しでさぁ!」
「おい……」
「いいだろこれくらい!」
「まぁ……」
肩を組むくらいなら、許容してやってもいいのかもしれない。
「えぇ、意外やわ。今まで宇都宮くんから一方的なアプローチやったのに。月野くん、どういう心変わり? なんかあったん?」
「なんかあったと言えば、まぁあったかなぁ……」
殺人現場を目撃したり。
分身と殺し合ったり。
服従させたかと思ったら頭に爆弾を仕掛けられたり。
……まぁ色々。
「ほーん。意外やわぁ。月野くんって宇都宮くんのことめっちゃ嫌ってたやん? やから、きっかけ一つでそんな変われんのは、羨ましいなぁ」
関西弁の女子は、けらけらと笑う。
そういえばこいつ、名前何だっけ……?
「な、宮古。俺たちの仲は内緒な?」
宮古っていうのか。宇都宮は、肩を組んだまま、空いた方の手で人差し指を立てて、しーってやっている。
「内緒もなんもないと思うわぁ。あんたらが仲良さげなのもう察してるやつら何人かいるし、そんな隠す気ないやろ、宇都宮くん」
「まぁね」
宇都宮は軽い調子で笑った。
「『内緒』の関係って言って、月野くんに意識してもらおうとしてるだけやろ。意外と乙女なんやねぇ……」
宮古と言う女子生徒は、赤い目で宇都宮を見た後、それからしっかり僕をとらえて「ほーん」と呟いた。
「ま、ほどほどになぁ」
そう言って、宮古はバスの後部座席に去っていった。
「な、チャットの続きしようぜ! 続き!」
そう言ってはやし立てる宇都宮を、いったい、この場のだれが、どうやったら化け物だと疑えるのだろうか。スプラッタな想像だが、こいつが本気を出せば、バスの中の奴ら全員皆殺しだ。
そういう怪物で、そういう戦闘力を持っているのだ。
『そういえば、本体の有はお前に嫉妬しないのか?』
チャットで聞いてみると、宇都宮は乾いた笑みを漏らす。
『ちょっとある』
『あるのかよ。分身間なのに?』
『んー。もう一回合体すれば今の俺の感情もあいつのモノになるけど、まだ先の話だしな』
へへへ、とチャットから漏れ出したのは、宇都宮の笑いだった。
『この夏期講習の間だけは、俺自身が宇都宮有なんだよ』
それは……どういう意味なんだろうか。
そもそも、分身は、本体に対して、どんな感情を抱くんだろうか。
分身にとっての本体は何で、本体にとっての分身は何なんだろう。
『本体に取り込まれたら、お前って消えるのか、
打ち込んで、送信しようとして、やめた。
聞くべきじゃない、精神衛生に悪いと思った。
ああ、――クソッ。
僕って、なんだ。
何を目的に動いてる?
そりゃあ、自分の限界は試したい。《異星体》とかいう宇宙人がいるとして、僕の好奇心は留まることを知らない。何もかもを知りたい、何もかもを体験してみたい。――何もかもを、手に入れたい。
欲しい。何もかもが欲しいなら、こんな、くだらない感情なんて捨てるべきなのに。
『は、ha、は、っ、は、haha、はっ、あ、はははははは――』
廃工場。とどめを刺した、あの宇都宮のことを思い出す。
あの宇都宮は、死んだのだろうか。それとも、隣の宇都宮が、その宇都宮自身なのだろうか? 自己同一性の話になる。僕にはよくわからないけれど、……違うんじゃないか、とだけ、思った。
僕は隣、宇都宮の空いている腕に、腕を絡めた。
強く、強く絡めて、掌に掌を重ね合わせた。
この胸に占める感情が何なのか分からない。
二度とは会えないと思っていた戦友に対して、僕はいったい何を思っただろう。
「月野……?」
宇都宮有は、僕の隣にもいる。
宇都宮と、有がいる。宇都宮有は、僕にとって二人の人物だ。
宇都宮と言う少年と、有と言う少女。
宇都宮有は、二人いる。
これはもう、僕の身勝手な感情の話なのだけれど。
宇都宮も有も、これ以上増えなくていいし、
――減らないでほしい。
隣にいるこいつと、この街を守ってるあいつで、十分だ。
「宇都宮」
名前を呼ぶと、ドキッとしたような顔をした。
「ど、どうした?」
「お前さぁ、取り込まれるのやめろよ」
「えっ」
「有の説得は手伝ってやるから。お前は宇都宮として生きろ」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔、とはまさにこのことだった。
彼は大きく目を見開き、パチクリと数回瞬きをした。
ぱちくり、と。
僕の言葉の意味を咀嚼するように唇を噛んだ。やがて、その表情が、驚愕から戸惑いへ、そしてゆっくりと、泣き出しそうなほどの歓喜へと変わっていった。
普段の生意気で不敵な態度はどこへやら。今の彼は、まるで迷子だった子供が親を見つけたときのような、心細さと安堵がないまぜになった顔をしていた。
頬が微かに朱に染まり、黒曜石のような瞳が潤む。
「……月野、お前……マジで……?」
震える声。いつの間にかこいつの掌は汗ばんでいた。
「お前、やばいって。……俺も《オレ》になっちゃうって……」
「……は?」
「安心しろ。今本体と《交信》してるから」
「は、なんだそれ、」
「許可が取れた」
「早すぎるっ、つーか何の許可だっ!?」
「ふふふ……♡」
その変化は劇的で、そして冒涜的ですらあった。
整った少年の顔立ちが、内側から滲み出る熱でドロドロに融解していくようだった。骨格や造作が変わったわけではない。それなのに、僕を見つめるその瞳は、完全に《雌》のそれだった。
潤んだ黒目はとろりと濁り、長い睫毛が震えるたびに、情欲が撒き散らされる。頬は熟れた桃のように染まり、半開きの唇からは、あえぐような熱い吐息が漏れていた。
「学生の宇都宮として振舞う許可と、お前のメスになる許可だよ」
宇都宮は笑って、僕の手を胸に誘導してきた。
「は……?」
男だと思っていたはずなのに、ある。
硬いカッターシャツの生地越しに、指先が沈み込む感触があった。だが、それは有が持つような、暴力的な豊満さではない。
慎ましく、しかし確実に掌に収まる、なだらかな膨らみ。
「おまっ……え?」
男物の制服の下に、未発達な果実のような甘やかな柔らかさがある。「俺は男装キャラで行こうと思うんだ」
「だ、男装……?」
「そう。前から疑問だったんだよな。ほら、よくありがちだろ、男だと思ったら女だったってパターン。普通、先に気づくだろって」
くすくす、と小悪魔みたいに宇都宮は笑った。
「でも男から女になるなら、問題ないよな。あ、でも男装キャラって感じで行かないとだけどさぁ」
「まだ理解が追い付いてないんだが……?」
「ああ、だから、俺はお前のメスその②だって……」
宇都宮は僕の耳に口を近づけて、こっそりと囁いた。
「――俺もお前のメスになる許可をもらったの♡」
その囁きは、甘い毒薬のように僕の鼓膜を震わせ、脳髄を直撃した
ゾクッ――と。
背筋を駆け上がったのは、恐怖とも違う、得体の知れない熱狂だ。
僕が《個》として認め、人間として生きることを肯定しただけで、増えた。男装の美少年。貧乳。そして、僕だけのメス――その②。
……嘘だろ。
理性では理解が追い付かない。だが、僕の奥底に眠る、醜くも純粋な征服欲と好奇心が、歓喜の産声を上げていた。
はぁ、
吐息が漏れる。
抗いがたい昂ぶりで、掌に汗が滲んだ。
「……マジかよ」
「マジだよ♡」
よく見れば、宇都宮の顔はさっきより女に近づいてきたように見える。
「調整中なんだ。男にも女に見えるバランス……♡」
彼――いや、もう彼女は、宇都宮は恋する乙女のように笑った。
「当然ブラはないからさ、今は貧乳路線で行くしかないよなぁ」
「いや、お前、夜の入浴とか……」
「女であることを隠しながら一緒に入ろうぜ♡」
マジかよ。
――想像する。
白い湯気の向こう、全裸の男子生徒たちの中に、宇都宮が混ざる光景が脳裏を過る。一見すれば美少年。だが、タオル一枚の下には、女の証が隠されているのだ。
もし、タオルが落ちたら?
誰かがその柔らかな曲線に違和感を抱いたら?
そんな綱渡りのような緊張感の中で、こいつはきっと、僕に見せつけるように艶かしく肌を晒すのだろう。
衆人環視の中での秘密の共有。男湯という男の園で繰り広げられる、背徳的な遊戯。
……ダメだ。想像しただけで、理性が蒸発しそうだ。心臓が早鐘を打ち、喉が乾く。
やばい。
『キスするか?』
そんなメッセージが送られてくる。
僕は周囲の目を気にしながら、無言で自分の唇を指さす。
僕が許可を出すや否や、宇都宮は猛禽類のような速度で飛びかかってきた。周囲の目? バスの座席? そんなものは宇都宮の視界には入っていない。
「んむっ……♡」
柔らかく、熱い感触が唇を塞ぐ。
甘い吐息と、微かに香るシャンプーの匂い。宇都宮は楽しそうに舌先で僕の唇をなぞり、貪るように味わっている。数秒で離そうとした。だが、数十秒は離れなかった。
この馬鹿、早く離れないと――。
「――ぶっ!?」
バスの後方から誰かがジュースを噴き出す音が聞こえた。
続いて、ざわめきが波紋のように広がる。
……終わった。
僕の高校生活が、そして普通の男子高校生としての日常が、今ここで、ガラガラと。そんな音を立てて崩れ去った気がした。
この夏期講習、勉強どころじゃないかもしれない。
宇都宮とはいえ、本体と同じ気質を持つ彼女は、すぐに面白そうにニヤリと笑った。
「楽しいな、月野♡」
僕はすぐに目を逸らして、窓の外を眺めなた。
もうやめろ。
しっしっ、と一旦宇都宮を手で追い払った。
相変わらず肩に手は添えられているが、もういい。
シートに深く身を沈めた。
もう寝よう。どうせ着くまでに数時間はかかる。
寝る。
決めた。
めんどくさいことは後に考える。
バスのエンジンが重く唸り、夏期講習の地へと出発する。
そんな音が、子守歌の代わりに聞こえた。




