第2話 初戦
魔物が跳んだ瞬間、世界は音を失った。
正確には、耳が音を拒んだのだと思う。唸り声も、地面を蹴る衝撃も、村人の叫びも、すべてが遠く、水の底の出来事みたいに薄くなる。残るのは、私の視界に迫る黒い巨体と、胸の奥で脈打つ魔力の熱だけだった。
光の網――封縛の式は、完全に止めるためのものではない。
相手の動きを「遅らせる」ための式だ。
完全拘束は魔力量が足りないし、地形も読めない。辺境の地面は石と根が多く、式の走りが乱れる。だから私は、封縛を「支点」にして次の式を通すつもりだった。
手帳の次の頁。
そこにあるのは、王都で一度も採用されなかった式――《内循環断ち》。
(危険だ、って言われた。効率が悪い、って笑われた)
危険なのは当然だ。相手の魔力循環に干渉する。
循環が止まれば、魔物は倒れる。
ただし、こちらの式が乱れれば、魔力の跳ね返りが術者を焼く。つまり、ミスは許されない。
私は息を吸った。冷たい空気が喉を通り、思考を研ぎ澄ます。
魔物の鱗は物理を弾く。だが鱗の隙間、首の付け根から胸骨へ流れる魔力の筋――そこは、循環の要だ。
「――式名、内循環断ち」
詠唱を口にした途端、封縛の網が淡く反応した。
光が網から地面へ、地面から魔物へ、導線のように走る。私はその導線を、指先の感覚で「掴む」。掴むと言っても、物理ではない。魔力の流れを、手の中に線として感じるだけだ。
魔物は空中で、私に爪を伸ばしていた。
爪先の影が顔に落ちる。
(間に合え)
私は導線を引き絞り、魔力の刃を循環の一点へ叩き込んだ。
――バチン、と。
視界の端で白い火花が弾けた。
それは雷のような派手な光ではない。もっと小さい。けれど確かに、何かが「切れた」音がした。
魔物の動きが、止まった。
空中で止まるはずのない巨体が、まるで糸を切られた人形のように、重力に任せて落ちた。
ドン、と地面が揺れ、土が舞い、枯れ草が跳ねる。
村人たちが一斉に後ずさった。
魔物はまだ生きている。
ただ、立てない。足が空回りするように震え、呼吸が荒くなる。鱗の隙間から黒い唾液が漏れ、喉の奥で咳き込む。循環が乱れた結果だ。
私は逃げなかった。
逃げる必要がないからだ。
内循環断ちは「停止」ではなく「断ち」。回復には時間がかかる。
「今です。頭ではなく、喉元の柔らかいところを」
自分の声が、驚くほど冷静に響いた。
監視役の下級騎士が遅れて反応し、剣を握り直す。彼は一瞬、私を見た。令嬢が指示を出すこと自体が信じられないという顔だったが、次の瞬間には現実に戻った。
「……了解!」
騎士が突っ込む。
村人たちも、農具を握って追いすがる。鍬、斧、槍の代わりの長い棒。
恐怖で足が震えている者もいる。けれど、逃げない。逃げたら次は自分の家だと知っているからだ。
騎士の剣が、鱗のない喉元へ滑り込んだ。
魔物が一度だけ大きく痙攣し、喉の奥から空気が漏れる音を立てた。
――終わった。
村の空気が一斉に緩む。
誰かが膝をつき、誰かが泣き、誰かが笑った。
その全部が、私の胸に刺さる。刺さるのに、嫌じゃない。
私はその場に立ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
指先が、じんと痛い。
内循環断ちの反動だ。掌の内側に小さな火傷のような熱が残っている。だが、致命的ではない。計算通り。
「……すげえ」
小さく漏れた声は、監視役の騎士のものだった。
彼は剣を下ろしながら、私を見ている。
さっきまで私を「移送物」として扱っていた目が、今は「理解できないものを見る目」に変わっていた。
村人たちが、じわじわと私の方へ近づいてくる。
距離の詰め方が、王都の貴族のそれとは違う。遠慮がなく、けれど攻撃性もない。生き物としての距離感だ。
「……リリアーヌ様」
村長が、震える足取りで歩いてきた。
私の前で立ち止まり、深く頭を下げる。
「ありがとうございます。……本当に。あの魔物、ここ数週間で二度目でした。次に来たら、もう……」
村長の声が途切れる。
言葉の続きを、想像するのは簡単だった。死人が出る。家が壊れる。冬が越せない。
辺境では、それは物語ではなく、予定表のように現実だ。
「礼には及びません」
私はそう言いかけて、止めた。
王都で生きていた私の癖が、口を支配しようとしたからだ。
礼には及ばない。
それは、礼を受け取らない言葉だ。
受け取らないということは、相手の気持ちを無効にするということだ。
私は、言い直した。
「……こちらこそ。助けが間に合って良かった」
その瞬間、村人の表情がふっと明るくなる。
言葉一つで、こんなに場の温度が変わるのかと、私は遅れて知った。
「やっぱり英雄様だ!」
「王都の魔術師様は違う!」
「英雄って言ったの、本当だった!」
誰かが叫び、笑いが起きる。
英雄。英雄。英雄。
その言葉が飛び交うたび、私の中の何かがむず痒くなる。
(違う。私は、英雄じゃない)
私はただ、必要な式を組んで、必要な場所に流しただけだ。
王都では、それは「裏方」で、名も残らない仕事だった。
けれどここでは、同じ仕事が「英雄」になる。
――仕事の価値は、場所で変わる。
その事実が、ひどく残酷で、同時に救いでもあった。
「リリアーヌ様、手……!」
年配の女性が私の掌を見て、目を見開いた。
火傷の熱が、外からもわかるほど赤くなっていたらしい。
「平気です」
「平気なわけあるかい。家に来な。薬草ならある。ね、ほら、英雄様を立たせたままにするんじゃないよ」
英雄様、という呼び方に反射的に反論しそうになる。
でも、反論するより先に、彼女の手が私の手首を掴んだ。
強い。迷いがない。生活の手だ。
私は、抵抗しなかった。
抵抗する理由がない。
むしろ、少しだけ――その強引さに救われた。
◆
村の家は、質素だった。
けれど暖かい。
暖かいというのは、炉の火だけの話ではない。人の気配が、生活の音が、空間を満たしている。
年配の女性――マーサと名乗った――は、私を椅子に座らせ、火で炙った布を掌に当ててきた。
薬草の匂いが鼻に刺さる。苦い。
「じっとしてな。あんた、王都の令嬢だろうに、なんでそんな危ない式を使うんだい」
「……必要だったので」
「必要、ねえ。必要なら自分が焼けてもいい、って顔してたよ。そういうの、英雄って言うんだよ」
マーサの声は厳しいのに、手つきは優しかった。
私は視線を落とし、掌の赤みを見つめる。
熱と痛みが、現実を教えてくる。
「……英雄という言葉は、嫌いです」
言ってしまってから、少し後悔した。
村人たちの善意を、切ってしまったかもしれない。
でもマーサは、意外そうに眉を上げただけだった。
「へえ。じゃあ何がいい」
「……ただの、リリアーヌで」
マーサは一拍置いて、鼻で笑った。
「よし。じゃあリリアーヌ。あんた、腹減ってるだろ」
腹、という単語が出た瞬間、私の身体が正直に反応した。
胃が小さく鳴る。
王都からここまでの道中、ほとんど食べていない。緊張で食べる気がしなかったのだ。
マーサは鍋を火にかけ、黒パンを切り、干し肉を放り込む。
簡素なスープの匂いが広がる。
私はその匂いだけで、泣きそうになった。
(……私は、こんなことで)
王都で私は、もっと豪華な食事をしていた。
だがそこには、香りしかなかった。
美味しいかどうかではなく、「正しい順番で食べる」ことが求められる食卓。
誰かに見られるための食事。
ここでは違う。
生きるための匂いがする。
スープを一口飲んだ瞬間、身体の芯がほどけた。
温かさが喉を通り、胸に落ち、指先まで広がっていく。
私は思わず、目を瞬かせた。
「……おいしい」
「当たり前さ。うちのスープが不味かったら、冬越せない」
マーサはそう言って笑い、私の手に包帯を巻く。
包帯の端を結ぶ指が、きびきびしている。
「さて。飯食ったら、次は話だ。あの魔物、また来るよ」
笑いが、ふっと消えた。
マーサの目が、窓の外――森の方を見た。
「……今までだって、追い払って終わりじゃなかった。あれは縄張りを覚える。餌場を覚える。次はもっと大きいのを連れてくるかもしれない」
村長も、同じようなことを言っていた。
私はスープの椀を置き、手帳を開く。
「足跡と、糞と、傷跡。見せてください」
「……は?」
「魔物は、どこから来たか必ず痕跡を残します。巣があるなら、先に潰した方がいい」
マーサは、私の顔をしげしげと見た。
そして、ゆっくり笑った。
「英雄じゃない、って言ったのに。やることは英雄だね」
「……だから、その言い方は」
「わかったわかった。リリアーヌ。あんた、頼りになるよ」
その一言が、胸の奥に落ちた。
頼りになる。
王都では一度も、面と向かって言われたことがない言葉だ。
私は手帳の頁を押さえ、静かに頷いた。
「……私にできることはします。ただし、条件があります」
「条件?」
「この村で私が魔術を使うことを、誰も止めないこと。王都の決まりは、ここでは通用しません。もし監視役の方が止めるなら、私は手を引きます」
言い切った瞬間、部屋の空気が張った。
マーサの顔から、笑いが消える。
私は自分でも驚いた。
こんな交渉をするのは初めてだ。
でも、言わなければいけない。ここで曖昧にすると、王都の鎖がこの村にも伸びる。
マーサは立ち上がり、戸口の方へ声を張った。
「おい! 村長! 騎士様も呼んで来い!」
◆
数刻後、狭い家に村長と監視役の下級騎士が入ってきた。
騎士はまだ落ち着かない様子で、私の包帯を見て目を逸らした。気まずいのだろう。自分が守るべき「追放者」が、自分より先に村を守ったのだから。
村長が、私の前に座る。
「リリアーヌ様、マーサから聞きました。条件の話ですね」
「はい」
騎士が咳払いした。
「……俺の任務は監視です。勝手に危険な魔術を使われるのは――」
「危険なのは、魔物です」
私は遮った。
自分の声が冷たくなったのがわかった。だが、引くわけにはいかない。
「あなたの任務は、私が王都へ戻らないことの監視でしょう。村が襲われるかどうかは、任務範囲ではない。違いますか」
騎士の顔が赤くなる。反論しようとして、言葉が出ない。
村長が低く言った。
「騎士様。今日、村は救われました。あなた一人では難しかったでしょう」
騎士は唇を噛み、拳を握った。
そして、頭を下げる。
「……認めます。俺は、あなたを甘く見ていた。……ですが、もし王都から『令嬢の魔術使用を禁じろ』と命が来たら……」
私は、そこで一つだけ確信した。
王都は、命令を出す。
そしてこの騎士は、それに従う。彼は悪人ではない。ただ組織の歯車だ。
だから、私は組織の外で生きる必要がある。
「命令が来る前に、村の状況を変えます」
「……どういうことですか」
「魔物の脅威を、恒常的に減らす。結界の再設計、見回りの導線、警戒札の配置。村が守れれば、私の魔術使用は『必要』として黙認される」
村長が、ゆっくり頷いた。
マーサが腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
「聞いたかい。英雄――じゃなくて、リリアーヌはこう言ってる」
騎士が、ため息を吐く。
そして、渋々というより、覚悟を決めた顔で頷いた。
「……わかりました。村の安全が第一です。俺も協力します。ただし、危険な式を使うなら、必ず俺に知らせてください。手当てくらいはできます」
私は、少しだけ目を見開いた。
彼が、私を「監視対象」ではなく「共同作業者」として扱い始めている。
「……承知しました」
村長が、深く頭を下げる。
「リリアーヌ様。いえ……リリアーヌさん。どうか、これからも村を助けてください」
その言い方が、妙に嬉しかった。
様付けではなく、さん付け。
貴族でも追放者でもなく、一人の人間として呼ばれた気がした。
外で、子どもの笑い声がした。
窓から覗くと、さっきまで泣いていた子が、友達と走り回っている。
生きている。明日がある。
私は静かに言った。
「……助ける、ではなく。ここで、生きます」
村長が頷き、マーサが満足そうに笑った。
騎士は、まだ戸惑いながらも、私の包帯の手を一度見てから視線を逸らした。
たぶん彼は、私が本当に「危険を引き受けた」ことを理解したのだ。
そしてその瞬間、私は初めて、英雄という言葉の意味を少しだけ理解した。
英雄とは、華やかな舞台に立つ者ではない。
名を刻む者でもない。
ただ――必要なときに、前へ出る者だ。
(……私は、英雄じゃない)
そう思いながらも、胸の奥に残った温かさを否定できなかった。
村の外れ、森の方角から、風が吹いてきた。
冷たい匂いの中に、わずかに獣の臭いが混じる。
まだ終わっていない。今日倒したのは「一体」だ。
私は手帳を閉じ、立ち上がった。
「まず、現場を見に行きます。足跡と、巣の方向を」
村長が杖を握り直す。
「案内します。……リリアーヌさん」
その呼び方が、背中を押した。
私は頷き、戸を開けた。
外は、夕暮れの光が村を斜めに染めていた。
影が長い。
森の影は、もっと長い。
そして私は、その影の中に「次の戦い」が潜んでいることを、確信していた。




