第1話 断罪と追放、そして優しい村
婚約破棄は、音がしない。
あるのは、空気が薄くなる感覚だけだ。
息を吸っても胸の奥に届かない。なのに、人々の視線だけが刺さってくる。
「――リリアーヌ・ヴァルフォード。貴様との婚約を、ここに破棄する」
王城の大広間。祝宴のために吊るされた絹の幕と、燭台の光と、香の匂い。
それらが、私にとっては逆に残酷だった。豪奢であればあるほど、ここが私の居場所ではないと告げられているようで。
王太子エドワード殿下は、淡々と宣言した。
淡々と――そう、彼の声には揺れがない。まるで台本を読んでいるだけだ。
そして周囲もまた、同じ台本を待っていたかのように頷く。
「殿下、証人は揃っております」
「うむ。では、罪状を読み上げよ」
貴族院の司会役を務める老侯が、巻物を広げる音だけが妙に大きかった。
「リリアーヌ・ヴァルフォード。貴様は、聖女候補セシリア嬢に対し――嫌がらせ、誹謗中傷、ならびに魔術を用いた危害を加えた疑いがある」
疑い、という言葉が含まれているのに、皆の顔は「確定」と言っていた。
それが可笑しくて、笑いそうになった。唇の端が震えたのは、笑いなのか、寒さなのか。
私は一歩も動かなかった。
動けば「図星で狼狽した」とされる。
黙れば「反省がない」とされる。
つまり、何をしてももう結果は決まっている。
「……セシリア嬢に、危害など加えておりません」
声が思ったより落ち着いていたのは、私がこの光景を、何度も頭の中で反芻していたからだ。
これは、予感ではない。準備だった。
王太子の視線が、私の目を避ける。そこに答えがある。
私は理解した。
彼は、私を裁くのが嫌なのではない。
私を救えない自分が嫌なのだ。
――救う気など、最初から無いくせに。
「リリアーヌ様……っ」
震える声がした。
セシリアだ。聖女候補。純白のドレス。涙の粒が頬を滑り落ちる様は、絵画のように美しい。
ああ、これが勝者の涙か。勝者は、泣くことも許される。
「私……本当は、こんなこと望んでなくて……でも、怖かったんです。リリアーヌ様が、私を――」
そこまで言って、彼女は嗚咽に切り替えた。
嗚咽は便利だ。言葉の曖昧さを情緒で補強してくれる。
貴族たちがざわめき、私を見る。
「悪役令嬢」の看板を掲げた女を見る目だ。
「もうよい」
王太子が手を上げると、老侯が次の巻物を読み上げた。
「よって、リリアーヌ・ヴァルフォードは王都追放。爵位は維持するが、当面の王都出入りは禁止。
加えて、魔術師団への出入りも禁ずる。監視のため、王国辺境のローヴェ村へ移送する」
移送、という言葉が、私を物として扱っていた。
身体の中心が、すうっと冷える。
魔術師団への出入り禁止――それは私にとって、息の根を止める宣告に等しい。
ヴァルフォード家は、魔術を家業とする。
私の価値もまた、魔術師団での実績にしかない。
その価値を奪ったうえで、爵位だけ残す。
つまり、家に帰っても「役に立たない名ばかりの娘」として、飼い殺しにできる。
よくできた脚本だ。
私の人生を、全員で分割して、綺麗に処理している。
「異議は?」
王太子が、形式だけの確認をした。
私は静かに首を振った。
「……ありません」
異議を唱えても、ここは裁判ではなく、儀式だ。
儀式に異議を唱えれば、私はただの滑稽な道化になる。
だから私は、最後の礼儀として頭を下げた。
それが、彼らにとっての「敗者らしい振る舞い」なら、与えてやればいい。
次の瞬間、近衛兵が私の腕を取った。
強くはない。けれど迷いもない。人を連れて行く手だ。
大広間を出る直前、私は一度だけ振り返った。
王太子はまだ、私を見ていなかった。
セシリアだけが、涙の奥で私を見返していた。
――その目は、泣く女の目ではなかった。
勝ちを確信した者の、冷たい光だった。
私は、ようやく笑った。
声を出さない笑いだ。
この国で私が悪役であるなら、せめて最後まで悪役らしく。
だが、その笑いは、私の胸の奥でひどく乾いていた。
◆
追放は、拍子抜けするほど簡単だった。
荷物は一つの木箱。
着替えと、最低限の化粧道具と、筆記具。
そして、私がどうしても手放せなかったもの――小さな革装丁の手帳。
手帳の中身は、魔術式の走り書きと、計算式と、魔力の流れの観察記録。
誰にも理解されないもの。だからこそ、私の全てだった。
馬車は質素で、窓から風が入った。
王都の石畳を離れるほど、振動が大きくなる。
私は膝の上の手を組み、景色が変わっていくのを見た。
城壁が遠ざかり、屋敷が減り、畑が増え、森が濃くなる。
こうして世界は、中心から外側へ向かうにつれて「静か」になるのだと知った。
「……ローヴェ村、でしたか」
同乗した監視役の下級騎士が、驚いたように私を見た。
令嬢が自分から話しかけると思わなかったのだろう。
「え、ええ。辺境です。魔物も出ますし、道も……まあ」
「そう」
私はそれ以上聞かなかった。
聞けば、相手は気を良くして余計な情報を漏らすかもしれない。
だが私は、彼らの親切に頼る気がなかった。
頼れば、いつかそれを取り上げられる。
私はただ、考える。
なぜ、ローヴェ村なのか。
「監視のため」と言いながら、都合よく辺境へ。
都から離れ、影響力を削ぎ、何かあっても届かない場所。
――つまり、私を消す準備だ。
そう思った瞬間、心が奇妙に落ち着いた。
怖いのは「予測できないこと」だ。
予測できるなら、対策ができる。
私は手帳を開いた。
紙の匂いが、私を現実へ引き戻す。
(……生き残るために必要なのは、食料、水、住居、そして――魔力の扱い)
魔術師団への出入りは禁止。
けれど、私から魔力を奪うことはできない。
私は私の内側に、いつも魔力を感じていた。
息をするように、血が巡るように。
それを使って生きる。
それだけだ。
◆
ローヴェ村は、想像していたよりも――小さかった。
山の裾にしがみつくように建つ家々。
石と木で作られた素朴な建物。
冬に備えて積まれた薪。
畑は痩せているが、手入れは行き届いている。
馬車が止まると、村人たちが様子を見に集まってきた。
私は思わず背筋を伸ばした。
ここでも私は「追放された悪役令嬢」だ。歓迎されるはずがない。
――そう思っていた。
「おお……来たぞ」
「本当に、王都から……?」
「おい、礼儀を……!」
囁き合う声。だがそれは、怯えというより――ざわめく期待に近い。
監視役の騎士が私の前に立ち、村長らしき老人に書状を渡した。
老人はそれを読み、深々と頭を下げた。
「リリアーヌ様、ようこそローヴェ村へ。長旅、お疲れでしょう。どうか我らの粗末な村ですが……」
私は固まった。
頭を下げられる理由が、分からない。
「……村長、私は追放者です。丁重に扱う必要は――」
「追放者? いえいえ、そんな。王都の事情はわかりませんが、我らにとっては――」
村長は言葉を切り、周りの村人たちを見回した。
そして皆が、頷いた。
まるで「言っていい」と許可するみたいに。
「……我らにとっては、あなたは“英雄”です」
英雄。
その言葉が、耳の奥で反響した。
「は……?」
「ほら、聞いてないのかい。王都は知らせないか……」
後ろから、年配の女性が割って入ってきた。手にはバケツ。腕は逞しい。生活の強さがある。
「三年前の“黒疫”のときだよ。あのとき、薬が届かなくて、この村は……」
黒疫。
王都でも騒ぎになった流行病。
私は思い出した。魔術師団が疫病対策の式を組んだが、辺境への配布が遅れ――。
「……あのとき、村に“結界札”が届いたんだ。王都の魔術師様が、辺境用に作ったって。あれで病が止まった」
「そうそう。あれに書いてあった名がね――」
村人の一人が、私をまっすぐ見た。
「リリアーヌ・ヴァルフォード、って。はっきり」
私は言葉を失った。
結界札。確かに私は、疫病対策の補助札を大量に設計した。
しかしそれは、私の名ではなく魔術師団の名義で――。
いや。
私は、あのとき最後の欄に、こっそり自分の名を入れた。
誰も見ないと思ったから。
自分が作った証を、残したかったから。
それが、ここでは「命を救った名前」になっていた。
「……なぜ、それを」
「忘れるわけないだろう。うちの孫が助かったんだ」
「冬の魔物避けの杭も、あんたの式だって聞いた」
「川の氾濫を止めた護岸の札も……」
次々に出てくる。
私が王都で「当たり前にやっていたこと」。
評価されなかった仕事。
功績として記録されなかった仕事。
それが、ここでは――人の顔と名前と、生活の実感に結びついている。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
痛いのに、呼吸が楽になる。
こんな感覚、知らない。
村長が私の前に立ち、静かに言った。
「この村は貧しい。ですが、恩を忘れない。
リリアーヌ様。どうか、ここで……生きてください」
生きてください。
それは、王都で誰も言わなかった言葉だ。
私は、何かを言おうとして、言葉が出なかった。
代わりに、唇が震えた。
その瞬間だった。
村の外れ、森の方角から、低い唸り声が響いた。
地面が、わずかに揺れる。
村人たちの顔色が変わり、誰かが叫ぶ。
「魔物だ! また来たぞ、あの熊もどき!」
熊もどき。
獣の体に、黒い硬質な鱗が混じった魔物――辺境に出る、と聞いたことがある。
村人たちは武器を取ろうと散った。
だが動きが遅い。農具しかない。
そして監視役の騎士は、私の前で焦ったように剣に手をかけたが――
「くっ……俺一人じゃ……!」
騎士一人では足りない。
村人は弱い。
ここは王都ではない。助けはすぐ来ない。
私の頭の中が、妙に冷静になった。
恐怖よりも先に、計算が走る。
(魔物の鱗は物理耐性。なら、内部の魔力循環を――)
私は手帳を開き、紙の端に指を滑らせた。
魔術師団では禁止された即興式。
でも、ここでは禁止する者はいない。
村長が、私を庇うように前に出る。
「リリアーヌ様、下がって!」
私は、首を振った。
「……下がりません」
言って、自分でも驚いた。
私は今まで、誰かを守るために前に出たことなど無い。
前に出ても、評価されないと知っていたから。
けれど今――この村は、私を英雄と呼んだ。
私がやったことを、覚えていた。
森の影から、黒い巨体が姿を現す。
鱗に覆われた熊もどき。唾液が糸を引き、鼻息が白い。
村人たちが硬直する。
私は一歩前に出た。
そして、指先に魔力を集める。
「――式名、封縛」
空気が、きしんだ。
次の瞬間、魔物の足元の地面に薄い光の網が走った。
……うまくいくかは、分からない。
だが、失敗してもいい。
ここで死ぬなら、それは「役に立たないまま消される死」ではない。
魔物が吠え、網が軋む。
村人の誰かが、息を呑む音がした。
私は、静かに言った。
「――大丈夫。私が止めます」
その言葉が、私自身の背中を押した。
そして、魔物の目が私を捉えた。
(――来る)
次の瞬間、光の網が弾ける寸前まで引き絞られ――。
私は、手帳の次のページを開いた。
そこに書いてある式は、王都で一度も使えなかった。
危険だから。効率が悪いから。上が嫌がるから。
でも私は、これが辺境に必要だと知っている。
――私の、本当の仕事はここかもしれない。
魔物が跳んだ。
私は、息を吸って、次の詠唱を口にした。




