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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

化かし、化かされ


夜霧が森を覆い、月光が木々の隙間を縫って地面に銀の模様を刻む。深い森の奥では、風が葉をそよがせ、遠くで夜鳥の声が響く。この森は、まるで時間が止まったような静寂に包まれていたが、その静けさの中に、奇妙で賑やかな物語が動き始めていた。


化かし合いの始まり


森の奥、苔むした岩の上で、赤毛の狐が長い尾を優雅に揺らしていた。名はコン子。彼女の琥珀色の目は、まるで夜の闇を切り裂くように鋭く輝き、唇には狡猾な笑みが浮かんでいる。コン子は化かすことに生きがいを見出す狐だ。この森の住人たちを翻弄し、驚かせ、笑いものにするのが彼女の楽しみだった。彼女の幻術は巧妙で、時には鳥を、時には美しい娘を、時には木の枝にさえ化けて、森の生き物たちをからかってきた。


対するは、狸のタヌ吉。ずんぐりとした体に、黒い目がキラリと光る。彼はコン子とは古くからのライバルで、化かし合いの勝負では決して引かない。タヌ吉の化け術はコン子ほど繊細ではないが、豪快でユーモラスだ。彼の得意技は腹鼓を打ち鳴らし、相手を驚かせること。コン子が狡猾なら、タヌ吉は大胆不敵。互いに一歩も譲らず、森の住人たちは二匹の化かし合いを遠巻きに見守るのが常だった。


この夜、二匹は森の中央にある古い鳥居の前で再び対峙していた。鳥居は苔に覆われ、長い年月を経たその姿は、まるで森の守護神のように静かに佇んでいる。月光が鳥居の朱を淡く照らし、コン子の赤毛とタヌ吉の茶色の毛並みを浮かび上がらせた。


「タヌ吉、今回はどんな手で来る? またあのつまらん腹鼓か?」コン子が嘲るように言う。彼女の声は甘く、まるで蜜のように滑らかだが、その裏には鋭い毒が潜んでいる。


「ふん、コン子、お前こそ毎度同じ幻術じゃねえか。今日は俺が一枚上手だぜ!」タヌ吉はニヤリと笑い、ずんぐりした体を揺らして一瞬で姿を消した。次の瞬間、彼はコン子の背後に現れ、彼女の長い尾を軽く踏んだ。


「きゃっ!」コン子が飛び上がり、振り返る。「このド狸! 姑息な真似を!」彼女は一瞬で姿を変え、美しい人間の娘に化けた。長い黒髪が夜風に揺れ、赤い着物を纏った姿は、まるで古い絵巻物から抜け出したようだ。手に持つ扇子を優雅に振ると、彼女はタヌ吉に微笑みかけた。「これでどうだ?」


タヌ吉は目を丸くしたが、すぐに笑い出した。「おお、いいねえ! でもよ、俺だって負けねえ!」彼もまた姿を変え、今度は若々しい旅の若者に化けた。背には竹の杖、頭には笠。まるで旅芸人のような出で立ちで、コン子に近づく。「どうだ、コン子。この俺の姿、惚れたか?」


コン子はくすくすと笑い、扇子で口元を隠した。「ふん、悪くないけど、ちょっと垢抜けないね。もっと磨きなよ、タヌ吉!」彼女は再び姿を変え、今度は白い鳥に化けて空に舞い上がった。翼を広げ、月光を浴びながらくるりと旋回し、タヌ吉の頭上を飛び回る。


「ちっ、ずるいぞ!」タヌ吉は慌てて岩に化け、地面にどっしりと構えた。コン子が鳥の姿で降りてきた瞬間、岩がふっと動き出し、彼女を驚かせた。「化かされてやんの!」


「きゃあ! この狸!」コン子はすぐに元の姿に戻り、尾をぷんぷん振って怒ったふりをした。だが、彼女の目には笑いが宿っていた。二匹は互いに化け合い、笑い合い、森を舞台に騒々しい遊戯を繰り広げた。鳥は驚いて飛び立ち、風は木々を揺らし、夜はさらに深まる。森の生き物たちは、二匹の騒ぎに慣れっこになりながらも、遠くからその様子を見守っていた。


化かし合いの日々


化かし合いは一夜では終わらなかった。コン子とタヌ吉は、夜ごとに新たな手で互いを驚かせ、森を騒がせた。ある夜、コン子は川の流れに化け、タヌ吉を水の中に引きずり込もうとした。タヌ吉は負けじと巨大な熊に化け、コン子を追い回して大笑いした。また別の夜、コン子は美しい歌声を持つ娘に化け、森中に響く歌でタヌ吉を惑わした。タヌ吉はそれに対抗し、笛を吹く老人の姿で現れ、コン子をうっとりとさせた。


二匹の化かし合いは、まるで森の祭りのようだった。月は彼らの舞台を照らし、星は彼らの笑い声に合わせて瞬いた。だが、化かし合いの裏には、互いへの敬意と親しみが育ち始めていた。コン子はタヌ吉の豪快さに、タヌ吉はコン子の機知に、いつしか心のどこかで惹かれ始めていたのだ。


ある夕暮れ、コン子はタヌ吉を驚かせるため、森の奥の池に美しい水仙の花に化けて浮かんだ。月光が池の水面を照らし、水仙の白い花弁がきらめく。タヌ吉が池の畔にやってくると、その美しさに目を奪われた。「おお…こりゃなんだ、こんな綺麗な花、初めて見たぜ…」彼はそっと水面に手を伸ばした。


その瞬間、水仙がふっと消え、コン子が水しぶきを上げて現れた。「化かされてやんの! タヌ吉、顔真っ赤だぞ!」彼女は笑いながら水をかけた。


「て、てめえ! ずるいぞ!」タヌ吉はびしょ濡れになりながらも、笑い返した。「お前、ほんとずるいな! でもよ、綺麗だったぜ、あの花…」彼の言葉には、いつもの調子とは異なる素直さが混じっていた。


コン子は一瞬、目を丸くしたが、すぐに笑って誤魔化した。「ふん、褒めたって何も出ねえよ!」だが、彼女の尾が少しだけ揺れ、頬がほんのり赤らんだ。


恋の芽生え


化かし合いは日を跨ぎ、数夜にわたって続いた。コン子は鳥に化け、タヌ吉を追い回し、タヌ吉は岩に化けてコン子を驚かせた。だが、いつしか二匹の化かし合いには、ただの競争を超えた何かが混じり始めていた。それは、互いへの想いだった。


ある夜、コン子は月下で白いドレスを纏った貴婦人に化けた。彼女はタヌ吉の前に立ち、微笑みを浮かべた。月の光が彼女のドレスを銀色に輝かせ、琥珀色の目が優しく揺れる。「タヌ吉、こんな姿はどうだ? 心、動いたか?」


タヌ吉は一瞬、言葉を失った。コン子の姿はあまりにも美しく、まるでこの世のものとは思えなかった。彼女の微笑みは、いつもの狡猾さとは異なり、どこか温かみがあった。タヌ吉の胸は高鳴り、喉が詰まった。「お、おお…コン子、すげえな…」彼は照れ隠しに笑ったが、声は震えていた。


「ふふ、動揺してやんの!」コン子は笑ったが、彼女自身もどこか落ち着かない様子だった。彼女はタヌ吉の無骨な笑顔に、いつもとは違う熱を感じていた。


タヌ吉はすぐに我に返り、「お前だって負けねえぜ!」と叫ぶと、王子様のような姿に化けた。金色の髪、青いマント、堂々とした立ち姿。コン子に近づき、わざと大仰に手を差し伸べた。「お嬢さん、一曲踊っていただけますかな?」


コン子はくすくすと笑い、ドレスの裾を軽く持ち上げて一礼した。「いいでしょう、若様。ただし、足を踏まないでくださいね!」二匹は月光の下で、まるで舞踏会のようにくるくると踊った。森の木々がざわめき、風が彼らの笑い声を運んだ。


この夜、二匹は互いの姿に見とれ、化かし合いがいつしか互いを意識する時間へと変わっていった。コン子はタヌ吉の真っ直ぐな眼差しに、タヌ吉はコン子の鋭くも優しい微笑みに、胸の奥で何か熱いものが動くのを感じていた。彼らの化かし合いは、競争から絆へと変わりつつあった。


化かされてやんの


ある夜、コン子は大胆な一手を打った。彼女はタヌ吉の前に、子狐の姿で現れた。ふわふわの赤い毛並み、つぶらな瞳、コン子とは思えない無垢な姿だ。彼女は小さな声で震えながら言った。「タヌ吉、助けてくれ…! 悪い人間に追われてるんだ…!」彼女の目には涙が浮かび、尻尾が心細げに揺れている。


タヌ吉は一瞬で動揺した。「お、おい、大丈夫か!? どこだ、そいつらは!」彼は子狐をそっと抱き上げ、辺りを見回した。コン子の小さな体は、タヌ吉の腕の中で震えているように見えた。彼の心臓はドキドキと高鳴り、彼女を守らねばという思いが胸を満たした。


だが、次の瞬間、子狐がくすくすと笑い、ふっと姿を元に戻した。コン子はいつもの狡猾な笑みを浮かべ、タヌ吉の鼻先に指を突きつけた。「化かされてやんの! タヌ吉、顔真っ赤だぞ!」


「て、てめえ! ずるいぞ、コン子!」タヌ吉は怒ったふりをしたが、彼の耳は真っ赤だった。コン子はそんなタヌ吉を見て、ますます笑った。だが、その笑顔には、いつもの嘲りとは異なる優しさが混じっていた。彼女はタヌ吉の動揺した顔を見て、なぜか胸が温かくなるのを感じていた。


「ふん、情けない顔してんな、タヌ吉。もうちょっと修行しな!」コン子はそう言いながら、尾を振って歩き出した。だが、タヌ吉は彼女の後ろ姿を見ながら、ふと呟いた。「お前…ほんと、ずるいよな…」


この夜、二匹は初めて、化かし合いを忘れて語り合った。コン子は自分の過去を語った。かつて人間に騙され、森に逃げ込んできたこと。化かすことで自分を守ってきたこと。タヌ吉はそれに耳を傾け、静かに頷いた。彼もまた、自分の夢を語った。森の外の世界を見てみたい、でもこの森が大好きだと。月は静かに二人を照らし、森はまるで彼らのために静寂を保った。


コン子はタヌ吉の話を聞きながら、彼の純朴さに心を動かされていた。タヌ吉はコン子の強さに、どこか憧れを抱いていた。二匹の間に、言葉を超えた何かが生まれつつあった。


森の異変


時は流れ、コン子とタヌ吉の関係は変わっていった。化かし合いは減り、代わりに二匹は共に過ごす時間が増えた。夜の森を歩きながら、星を見上げ、互いの話をした。コン子はタヌ吉のそばにいることで、初めて心の安らぎを感じていた。タヌ吉はコン子の笑顔を見るたび、胸が温かくなるのを感じていた。


だが、ある日、森に異変が起きた。人間たちが森に侵入し、木々を切り倒し始めたのだ。古い鳥居も壊され、森の静寂は斧の音と人間の叫び声に乱された。コン子とタヌ吉は、この森を守るため、協力することを決めた。


「タヌ吉、今回は本気だ。人間どもを化かして、森から追い出そう!」コン子は目を光らせ、尾を高く上げた。


「おう、コン子! お前と一緒なら、どんな奴だってやっつけられるぜ!」タヌ吉は拳を握り、ニヤリと笑った。


二匹は力を合わせ、巧妙な計画を立てた。コン子は美しい娘に化け、甘い声で人間たちを森の奥へと誘い込んだ。タヌ吉は老僧の姿に化け、厳かな声で人間たちに警告を発した。「この森は神聖な地。立ち入る者は祟られるぞ!」彼の声は森中に響き、人間たちの心に恐怖を植え付けた。


コン子は霧に化け、人間たちを迷わせ、タヌ吉は巨大な獣の姿で彼らを追い散らした。二匹の連携は見事で、人間たちは次々と森から逃げ出した。だが、その戦いのさなか、コン子は油断して人間の罠にかかってしまった。鉄の網が彼女を絡め取り、鋭い刃が彼女の体を切り裂いた。


「コン子!」タヌ吉は叫び、彼女のもとに駆け寄った。だが、コン子は赤い血を流しながら、弱々しく微笑んだ。「タヌ吉…逃げろ…」彼女の声は途切れ、琥珀色の目がゆっくりと閉じた。


タヌ吉は慟哭した。「コン子! やめろ、死ぬな! お前がいなきゃ…俺…!」彼は全ての力を振り絞り、巨大な狸の姿に化けた。雷鳴のような咆哮とともに、人間たちを森から追い払った。だが、コン子はもう動かなかった。彼女の赤い毛並みは、月光の下で静かに冷たくなっていた。


化けて出てくれ


タヌ吉はコン子の亡魂を呼び戻そうと、毎夜、鳥居の前で腹鼓を打った。ドンドンと響くその音は、森の静寂を破り、月すら悲しげに輝いた。「コン子、化けて出てくれ…! 俺を化かしてくれよ…!」彼の声は森にこだまし、涙が地面に落ちた。


夜ごと、タヌ吉は鳥居の前でコン子を呼び続けた。だが、彼女の姿は現れない。森は静かで、月だけがタヌ吉の孤独を見下ろしていた。彼はコン子との化かし合いの日々を思い出し、彼女の笑顔、彼女の声、彼女の鋭い眼差しを胸に刻んだ。「お前がいなきゃ、化かし合いも意味ねえよ…」タヌ吉は呟き、夜霧の中に佇んだ。


狐の嫁入り


ある夜、月が特に明るく輝く夜、タヌ吉はいつものように鳥居の前で腹鼓を打っていた。ドンドンという音が森に響き、霧がゆっくりと立ち込める。すると、どこからともなく提灯の灯りが揺らめき、森の奥から幻想的な行列が現れた。赤い着物を纏ったコン子の魂が、まるで花嫁のように輝き、その後ろには無数の小さな狐火が揺らめく。それはまるで「狐の嫁入り」の儀式のようだった。


コン子は半透明の姿でタヌ吉の前に立ち、微笑んだ。「タヌ吉…化かされてやんの」


タヌ吉は目を疑い、涙を流しながら笑った。「コン子…! お前…! ほんとに化けて出てきやがった!」彼は彼女に駆け寄り、そっとその手を握った。コン子の手は冷たく、しかし温かな光に満ちていた。


「タヌ吉、一緒に来るか? 化かし合いは、まだまだこれからだろう?」コン子は琥珀色の目で彼を見つめ、いたずらっぽく笑った。


「お前となら、どこまでだって化かし合ってやるぜ!」タヌ吉は目を輝かせ、コン子の手を強く握った。二匹の魂は、提灯の灯りに導かれ、森の奥へと消えていった。狐火が揺れ、夜霧が舞い、まるで二匹の絆を祝福するかのように、森は静かに歌い始めた。


コン子とタヌ吉の「狐の嫁入り」は、この森の新たな伝説となった。月光の下、鳥居は静かに佇み、二匹の物語を永遠に刻んだ。森は再び静寂を取り戻したが、その中には、コン子とタヌ吉の笑い声が、かすかに響いているようだった。


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