告白と誘い
水飛沫と落水音が響いた夜の王宮池の前で、男三人は蒼白になっていた。
彼らは何が起きたのか理解したが故に足が竦んでしまっていた。これまで彼らの前でこんな形で逃げ出し拒絶を示した相手はいなかったのも大きい。
設定故に彼らは恵まれた環境で生きてきたからだ。
だから、直前のライラックのいつもと異なる眼差しが、どこか泣きそうに堪えた刹那の表情が印象的で、初めてまともに本当の彼女自身を見つけたような気さえしてしまい、何故か妙に胸が高鳴ったりもした。……奇しくも三人共に。
自分はそこまで想われていたのかと思えば、高鳴りが継続した。……奇しくも三人共に。
この池の水深はそう深くはない。だがライラックが顔を覗かせる気配はなかった。空気の泡だけがぶくぶくぶくと水面に生まれては消える。
初めに我に返ったのは彼らのうちの誰だったのか。池に駆け寄って各々上着を脱いだ。これは一大事だと。
三人が三人泡の下の水中に彼女は沈んでいるのだと当たりを付けて飛び込もうとした矢先だ。
「――レイリー嬢!」
まるで矢のように彼らの横を駆け抜けた一人の青年が池に飛び込んだではないか。疾走速度からして随分手前から全力疾走してきたようだった。
すぐに池からはその青年とライラックの顔が現れて、ライラックに至っては酷く咳き込んだ。
意識はあるので大事はないだろうと三人は安堵した。
青年はライラックを横抱きにして立っているので、案の定水深は深くなく彼女でも足が着くだろう深さだ。胸までは水がくるだろうがそれでも普通であれば溺れはしなかったはずだ。
ざぶざぶと岸に上がってきた青年の顔に見覚えのある王太子アントンが慌てて彼を呼び止める。
「まっ待てエバーグリーン、彼女は――」
我知らず、アントンは押し黙っていた。ユリウスの初めて目にした眼差しに圧されたと言っていい。
いつも表情をほとんど変えず冷然と魔物を狩る聖騎士の神聖さとはまた違い、聖騎士もまた人間の男なのだと実感させるには十分だった。誰しも大切な者を害されたらこんな目で犯人を見据えるだろう。
しかしそれも幻かのように瞬きの後にはそんな不敬な眼差しも掻き消えていた。ロイとパーシーは気にならなかったのか、ライラックへと案じる目を向けている。
アントンは着替えや介抱なら王宮でと言おうとしたが、ようやく呼吸が落ち着いて顔を上げたライラックは、アントン達三人の姿を認めると強張った面持ちでユリウスの首元にぎゅっとしがみ付いて顔を伏せてしまった。
「レイリー嬢、大丈夫だから」
ユリウスはそんな彼女を優しい眼差しで見下ろして気遣う。彼女は彼からそんな目で見られているのに気が付いてはいなかったが、小さく首を頷かせる様子には彼への信頼が見えた。
「殿下方、心配なさらずとも彼女の面倒は俺が見ますので。これで失礼します」
ユリウスは慇懃に一礼して颯爽と去って行く。女性とは言え人一人を抱えているようには到底思えない軽やかな足取りだった。
見る者によっては彼が珍しくも浮かれているとわかっただろう。
盛装をしていても逞しいとわかる背中を何もできずに見送るだけの三人は、ライラックから一度もされた経験のなかった明らかな拒絶を受けてショックで立ち竦んでいた。結局最後まで誰も制止の声を掛けられなかった。
池に飛び込んだ判断は決して間違っていなかったと、私は断言する。
ただタイミング悪くも足が攣るだなんて不運が起きただけでね。
うそ、こんな水深でうっかり溺れ死ぬのーって焦ったわ。
幸いまだ息の続くうちに誰かが助けてくれたから事なきを得たわけだけど。
正直ね、あーマジ最悪どうせあの三人のうちの誰かよねー、感謝は感謝だけどわざわざお礼を言ってやらないとならないのかーって憂鬱にさえなった。
咳き込みつつもそんな恩人の顔を拝見した私は、一瞬キョトーンよ。心から驚いた。
会いに行こうって思っていた相手、聖騎士ユリウスだったんだもの。
初めは幻覚かって信じられなかった。
舞踏会会場で彼に呼ばれたような気がしたのは気のせいじゃなかったみたい。
ありがとうも言えないうちに彼に抱えられたまま私は岸に上がったけど、嬉しかった。
直後、例の三人がまだ池の傍にいるのを悟って震えたわ。
一時薄れた魅了は確かにまた強くなって、私はもう嫌だと聖騎士に抱き着いて彼らから顔を背けた。たとえ不敬罪だと断罪されようとも仕方ないと腹を括る。だってもうギリギリだった。
唯一私の事情を知っている聖騎士が気を利かせてくれて早々とその場を辞してくれたからこそ、私は庭園と舞踏会会場の中間辺りまで運ばれてようやく胸を撫で下ろせた。
二人でずぶ濡れで歩きながら、その間彼は私を責めるでも何かを聞いてくるでもなく静かに口を閉じていた。私が自分で気持ちの折り合いをつけて落ち着くのを待っていてくれたんだわ。この人はそういう人だから。
私は最後にふう、と一息入れた。
「あの、聖騎士様、先程は助けて頂きありがとうございました」
まずは最初に言うべき事を言えた。
「痛みや息苦しさはないか?」
「ありません。おかげさまで。彼らをやり過ごそうとしたんですけど、不意に足が攣ってしまって……」
冷静に思い返したら何だか余計に目頭が熱くなった。
ほろりはらはらと両の眼から水が溢れる。
彼の腕の中で自分が本当にやっと安心できたのだと感じたせい。
先は、極度の緊張と限界の虚勢の中にたった一人で臨んでいた。多分その反動ね。
「レイリー嬢」
聖騎士がやや慌てたような声を出す。それがちょっと可笑しかった。私が彼をあたふたさせているだなんて、こんなのまるで、彼が私を……なんて都合の良い勝手な思い込みよね。
「あの、討伐遠征から戻られていたのですね」
「ああ、昨日。早く戻りたくて急いでぶった斬ってきたから」
え、ぶった斬……? よくわからないけど、この人でも乱暴な言葉を使うのね。彼の飾らない姿に和んでしまいふふっと思わず笑ってしまった。
「早いお戻りで何よりです。聖騎士様、実は私、明日あなたに会いに行こうって決めていたんです。明日いなければ明後日、明後日いなければその次の日にって。なのでこうして一日でも早く会えて私はとても幸運なんです。ただ、今夜は折角の服を濡らしてしまって申し訳ありません」
「服の事は気にしないでくれ。でも俺に会いに? ……避けていたのに?」
美声の拗ねた響き。
「さっ避けていたわけじゃっ」
「本当に? 欠片も偽りなくそう言える?」
ずいっと顔を近付けて凄まれて、決して怖くはなかったけど気まずい。
「う、えーと、すす少しだけ……頭を冷やしたくて……」
「頭を冷やす?」
何故と彼は疑問を浮かべた。それはそうだ。
彼は私が彼にキュンキュンしているだなんて微塵も思っていないだろうから。
でも、誤魔化したくなかった。現実にこうして面と向かってみて思ったの、この先浄化を断られたとしてもこの気持ちに嘘はつきたくないって。彼に不誠実でいたくないって。
「はい。強制魅了じゃなく、あなたにドキドキするんです。あなたを好きになってしまったんです。あなたは清らかを美徳とする聖騎士ですし、こんな私の邪な気持ちを一方的に向けられても困るだけだとは思いますけど……」
上手くそれ以上の言葉を続けられなかった。彼から穴が開くんじゃないのってくらいに凝視されちゃったんだもの。
やっぱり不愉快に受け取ったわよね。
って言うか目を逸らせない。こんな状況なのに私馬鹿よね~っ、より一層好きになっちゃう~っ、心臓が煩い~っ。
どうにもできず涙で潤んだままの目で見つめていると、先にスッと視線を外したのは向こうだった。
きっと嬉しくないんだわ。拒絶されて胸がズキッとした。
「ごめんなさい、いきなりで困りましたよね。これ以上あなたの迷惑になったり嫌な気分にさせたりしたくはありません。どうか今言った事は忘れて下さい。これまで通りに――」
「レイリー嬢、この格好で会場に戻るとご両親も心配されるだろう」
「へ? あ、ええ。きっと」
話題の転換に戸惑った。両親は悪い両親じゃないんだけど、腐っても伯爵夫妻。私の行き遅れを特に心配しているのよね。ただでさえ近頃の私の評判に心を痛めているのに、こんな濡れ鼠で戻ったら卒倒するかもしれないわ。
「一度俺の屋敷に来ないか? きちんと身なりを整えてから伯爵家に帰れるように手配するよ」
「聖騎士様のお屋敷、ですか? 大聖堂の宿舎ではなくて?」
「ああ。俺の屋敷」
前に実家は遠方の貴族だとは聞いたけど、この王都にも屋敷持ちなのは意外だった。
「ですが、このようななりでお邪魔しても宜しいのですか?」
「全然構わないよ。むしろ大歓迎だ」
「はい?」
「いや、こほん。なら決まりだな。早いとこ行こう。風邪を引く前に」
「へっ? ひゃああ!?」
彼は私を抱えたまま駆け出した。どこか嬉しそうで晴れやかな顔付きで。
私の好き、が嫌なわけじゃない……?
すぐにでも真意を聞きたかったけど、とりあえず私は馬車まで舌を噛まないように努めた。