プロローグ的なもの
「主よ、この静かな夜に切なる我が願いをどうかお聞き届け下さい」
王都にある荘厳な大聖堂の祭壇前で、一人の青年騎士が跪いて両手の指を組む。
敬虔に熱心に祈る様は絵になり、単に纏う装備からだけではなく彼が日々礼拝を欠かさない「聖」騎士なのだと見る者にはわかるだろう。
因みに聖騎士は清い身とされている。聖女と同じく。
そうでなければ聖なる魔法が使えないと言われているためだ。
しかし、いくら毎日聖騎士宿舎から足繁く礼拝に通うにしても、わざわざ深夜に来る必要はない。
しかも一人で。
二十一歳の彼――ユリウス・エバーグリーンには一人きりで集中して祈りたい、人には言えない悩みがあるようだった。
「主よ、このままだと俺は、俺は――聖騎士では居られなくなるかもしれません」
本当に何やら相当深刻な問題を抱えているようだ。
「人々のためにこの力を役立てられなくなるかもしれないのです。しかし迷える子羊を突き放せるわけもなく……一体どうしたらいいのですか主よ。どうかそのご慈悲でこの愚かな信徒をお導き下さい!」
その時だ。
夜の大聖堂に駆け寄る足音がしたかと思えば、
「ああっ良かったここでしたか聖騎士様っ、お願いしますっ、はあっはあっ、また魅了の呪いのせいで……っ、ううっもうやだっ、はあっ浄化っ、してえぇんっ……!」
「――っ、レイリー嬢!?」
驚き絶句する青年ユリウスへと入口から真っすぐダダダッと走り寄ったのは、どこかの舞踏会から抜け出してきたのか華やかなドレス姿の娘――ライラック・レイリー伯爵令嬢、十九歳だ。
彼女はそのままユリウスの前に躊躇もなく膝を突くと彼の手を両手で握って激しく上気しているその顔を上げた。
普段は身長差のあるのがほぼ同じ高さで視線が絡む。
「――なっ何を、レイリー嬢!」
思い切り動じたのは聖騎士ユリウスだ。どれ程大きな魔物を前にしても眉一つ動かさず討伐さえする彼は、今だけは別人のように硬直すらした。
一方令嬢ライラックは自分に一杯一杯で彼の様子には少しも気付いていない。
「はあっ、いつものようにお願いしますっ、はあっ、早く、この煩悩の浄化を……っ」
目の前で彼女が激しく悶えて初めてユリウスはハッと我に返ると、彼女から伝染したように赤くなっていた顔を俯けた。
「お願いします聖騎士様ぁっ」
とうとう叫び目を潤ませる相手を密かに上目で一瞥して、彼は頭を振るとぎゅっと無言で耐えるように唇を引き結んだ。握られていた手を握り返す。
「浄化魔法を発動するから少し落ち着くんだ!」
「は、い、あああん、ああっ……あぁ、――ふうう……」
みるみるうちに彼女の様子は落ち着いて、最後に一つ息を吐いた時にはもう上気した頬の赤味はすっかり引いていた。
ユリウスとは対照的だ。
ライラックは安堵したようにほっと息をつくと、感謝を込めて彼を見つめた。
「今日もまたありがとうございました聖騎士様! 本当に助かりました。本気で今夜はもうダメかと……」
目尻に涙を煌めかせて満面で笑む彼女を、彼は一時ぼおーっとなって見つめると苦しげに胸を押さえた。
「聖騎士様どうされたんですか!? 大丈夫ですか!?」
何度も声を掛けられて、ようやく彼は握ったままだった彼女の手をぎゅっと強く握りしめ、何を思ったかその手の甲に唇を押し当てる。
「あ、あの、聖騎士様?」
相手の戸惑いにハッと我に返ったユリウスは慌てて手を離すと満ちた苦悩に耐えるような声を絞り出す。
「でっではレイリー嬢、これで失礼する……っ」
言うや彼は勢い良く立ち上がり、脱兎の如く大聖堂を走り出て行った。
「……聖騎士、様?」
ぽつねんと取り残され、ライラックはポカンとなる。彼のあんな反応は初めてだった。
「照れていたみたいだったけど……?」
可愛い面もあるのねと考えた途端、トクン、と彼女の胸が高鳴った。
「えっうそまた!? いやいやいやこれは何かの間違いよ。確かに彼も夢みたいな美形だけど、登場キャラじゃない相手は呪いの対象外でしょ! よりにもよって唯一の救い手に魅了されちゃったらお先真っ暗よ!」
煩悩を浄化してもらっても彼が目の前にいたら元の木阿弥、またむくむくと煩悩が育ってしまう。堂々巡りだ。そうなればいつかは彼も無駄な労力と浄化を拒むだろう。そうなれば必然彼女の人生は詰む。
「そんなのゴメンよ。彼だけはナシッ、絶対に違うんだから!」
少し冷却期間が必要だろうと、彼女はユリウスに会うのを極力控えようと決意した。
依然過剰にドキドキとする胸を押さえ、しばらくは彼に出会う以前の環境に戻るだろう苦しさを、ライラックは覚悟するのだった。
他方、全力疾走中の聖騎士ユリウスは少しでも夜風が火照った体を冷やしてくれれば幸いと、体を動かしていては無駄な気がしないでもない事を願い大聖堂から、いやライラックから逃げていた。
いつからだったのかは彼自身でもわからない。
彼女と偶然ばったり出会い、これは気の毒と思い浄化したのがきっかけで、以来彼女からの懇願もあり必要時に彼女を浄化するようになったのだ。
最初は単に困っている者を救うと言う聖騎士としての使命感からそうしていたのが、気付けばこうだ。
――ライラック・レイリーに懸想している。
「くっ、聖騎士ともあろう俺が何たる体たらくだよ……!」
何度も誤魔化し誤魔化し誤魔化し態度に出ないようにしていたのに、今夜はとうとう限界だった。自身に認めるほかなかった。
否定してもライラックを見ると鼓動が跳ねるのだからどうしようもない。果ては抑え切れず手に口付けていた。
舞踏会でもするような気障な挨拶と受け取ってくれていればいいと願った。
「はあ、次どんな顔をして会えばいいんだよ」
それでも彼女の浄化が必要なら自分がしてやらねばならないのだ。どうにかこうにか堪えるしかない。
彼女の「呪い」はまだ二人だけの秘密で、そもそも他の聖騎士に浄化できるかも不明だ。
試してみようかと言う話がライラックから出た事はあったが、ユリウスが同僚には向かないと渋ってそれからその話は出ていない。浄化もできる聖騎士は数が少ないのもあり、直接の知人でもなかったと言うのも理由の一つだったが、最たるものは彼個人の我が儘だ。
ライラック・レイリーの浄化は自分がしてやりたい、と。
その責任感はいつしかこう変わった。
自分だけが彼女の秘密を知り、自分だけが彼女の際どい姿を知るべきで、他の男は知る必要はない、と。
酷い執着だと自覚している。聖騎士にあるまじき醜い感情だとも。
「よし、滝行しよう!」
彼は一転爪先の方向を変えると山中の修行の滝へと向かいそこで一晩滝に打たれるのだった。