第8話:ヴァーレンベルク大樹海
──さっきの旅人の様子を見るに、やっぱり普通の人にはドラゴンは刺激が強いかもしれない。今のままでは街に入るのも苦労しそうだ。
……クロって人化できたりする?
何も知らないドラゴンにそんな芸当ができるわけがないだろう!……というわけで、街に行く前に人化の術を習得することが俺の課題になったのだが……
……そもそもそんな術があるのか?
エーギルによると高位の魔物は人を欺くために、人化の術を習得していることが多いのだという。そういう魔物は、魔力と知能が高く人語を話せることが多い。人語を話す俺も同様に人化できるのではと考えたらしい。
ではそのような魔物はどうやって、人化の術を身につけるのだろうか?気合いで人化できないか踏ん張ってみたが、何も起こらなかった。どうやら、自然にできるようなものではないようだ。やはりそういう魔物に教えを乞うのが一番かもしれない。
「とりあえずそういう魔物が出没しそうなところに行ってみようか。」
エーギルが地図を開いた。ヴァーレンベルク大樹海の奥深くに、人の姿をまねて惑わせるアウラウネや妖魔などの魔物がいるらしい。
そのヴァーレンベルク大樹海は、ここから2日ほど歩いたところにある。世界屈指の大樹海でその全貌を把握できないほど広く深く、さまざまな魔物が数多く生息する魔獣区域だ。
そういう所ならドラゴンの俺でも安心して堂々と闊歩できるというわけだ。エーギルと一緒なら大樹海でも迷う心配はないし、何かあれば俺が飛んで脱出すればいい。
エーギルはついでに珍しい薬草や果物を採取するのだと張り切っていた。
大樹海はとにかく広大で一人だと危険が多く、魔物の対処にかなり骨が折れる。そのため、通常はパーティを組まないとそこらへんのダンジョン以上に入るのも難しい所らしい。
なるほどなぁ……いい事を聞いたぞ。
この世界にはダンジョンがあるのか!もし見つけたらエーギルを引っ張って入ってみよう。本当にこの世界は俺の知らないことばかりだな。楽しみがいっぱいだ。
俺たちはヴァーレンベルク大樹海方面に向けて歩を進めた。
なだらかな丘が続く丘陵地帯を抜けると、地平線全てを埋め尽くすほどの緑色の壁が見えてきた。あれがぜんぶ、ヴァーレンベルク大樹海か。
まだ半日くらい離れた距離にあるのに、大樹海がすぐそこあるように見える。それほどまでに大樹海が広漠なのだ。見れば見るほど距離感が狂ってしまったような感覚になる。あれほどまでに大きいとは……。
この時点で入るのをためらう冒険者もいるらしい。巨大な体を持つドラゴンの俺でも驚くほどなのだから、人からすれば大変な衝撃だろう。
日が暮れてきたので、ここで野宿をすることにした。ヴァーレンベルク大樹海に突入するのは明日の朝だな。
俺たちがキャンプ地に選んだのは、ヴァーレンベルク大樹海を一望できる見晴らしのいい崖上だ。ここならば安全で眺めも良い。
月下の崖下に、海の如く果てしなく広がる大森林……まさしく大樹海だ。
今夜もまた、月が綺麗な夜だった。
月が白々と大樹海を照らす。風に吹かれ月光できらめき立つ、木々のさざなみは本当に海のようだ。
眼下の絶景で気分が良くなった俺は、思わず翼を振るわせて咆哮した。咆哮が風を起こし、大樹海がざわざわと波打つ。
翼がむずむずして、無性に飛びたくて飛びたくて仕方がなかった。俺をそうさせるのは、旅の高揚か、絶景か、ドラゴンの習性か……。
遠吠えがうるさかったかもしれないと、我にかえって慌てて振り返るとエーギルと目が合った。
……正直に言うと、昼間に人化の話を提案された時、複雑な気持ちになった自分がいた。今後旅をする上で俺の身を慮ってくれたのものだとわかっていてもだ。
俺の前世は人で、今世はドラゴンだ。
前世の記憶を取り戻したことで、人とドラゴンの生態や感覚の差異に戸惑うことが増えた。そんな俺でも戸惑うことがあるのに、エーギルは今世でも俺と親友でいてくれるだろうか……?
珍しいのは最初だけだ。そもそも種族も大きさも違いすぎるし、いつか自我を失って襲う事だってあるかもしれない。
エーギルが言う、世界に災厄をもたらす黒竜の可能性もある。いつかこいつが俺を怖がって逃げ出しても仕方がない。あの旅人のような反応が普通なのだ。
シュウ──エーギルとは今世でも親友でいたい。なるべく「人」らしくしていた方がいいのだろうか?やはりエーギルの隣に立つ「親友」はヒトの姿をしていた方がよいのか?
俺はずっとそんなもやもやした気持ちを抱えていた。
いま、そのもやもやした気持ちがエーギルと目が合った瞬間に、綺麗さっぱり無くなった。
そのエーギルが、咆哮を上げた俺を見てとても嬉しそうな顔をしていたからだ。その金色の瞳には、恐怖の色はまったくなかった。むしろ俺が楽しんでいることを、自分の事のように喜んでくれている。
その金色はとても綺麗な色だった。ドラゴンとしての俺も受け入れて認めてくれているのだと分かった。あいつは最初から全部、受け入れてくれていた。悩んでいた自分を少し恥じた。
せっかくなので、俺はエーギルを夜空の散歩に誘った。エーギルは喜んで応じてくれた。ドラゴンになったら親友を乗せて飛ぶという、俺の夢が早速ひとつ叶った。
───空から見る夜のヴァーレンベルク大樹海は本当に綺麗で、生まれて初めてドラゴンになってよかったと思った。俺は今夜の事をずっと忘れないだろう。
偵察も兼ねて、大樹海の上を舐めるように飛ぶ。どこを飛んでも鬱蒼としていて詳しい地形はわからなかったが、泉がぽつぽつと点在していた。とりあえず水場の心配はいらなさそうだね、とエーギルが言った。
かなりの距離を飛んでも樹海はどこまでも続き、その広漠さに俺たちは改めて驚いた。全て踏破するのは難しいだろう。エーギルが見た黒竜は、この樹海を焼き尽くしていたというのだから恐ろしい。
飛んでいる間、俺の背の上にいるエーギルは上機嫌で何かを歌っていた。その歌の効果か俺たちの体が淡く光り始め、俺が不思議に思っているとエーギルが教えてくれた。
「さっき旅の幸運を祈る歌を歌ったんだ。そしたらこの樹海の精霊たちがいっぱい祝福をくれたんだ。幸先いいね!」
エルフの歌は凄いな……心なしか翼が軽く、風がいい具合に吹いていてとても飛びやすい。
空の散歩から戻ったあと、俺たちはくっついて眠った。どんな物騒なところでも、俺のスキル「黄金の兜」のおかげで俺もエーギルも安心して眠れるのがとてもありがたい。
俺の懐に入ったエーギルは本当に小さい。エーギルは俺の鱗を珍しそうに触ったり撫でていた。寝ているあいだに間違って潰してしまわないためにも、人化の術を早く習得しようと思った。
──ああ、明日が楽しみだ。今日も楽しかったが、明日もきっと楽しい。
エーギルとなら毎日ずっと楽しい、そんな胸が弾むような予感で胸が満たされたまま瞼を閉じた。