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第40話:語られなかった神

 はるか上からさらさらと流れる砂。

 ハリム・ザカリアはそれを見て、砂時計のようだと思った。

 

 ふいに、遠い日の記憶が脳裏を掠めた。

 黒く煤けた蝋燭の跡を、じっと見つめていたときのことだ。


 耳に蘇るのは、おばあさまの声。


「われわれの先祖は代々続く神官の家系だった。そして、われわれの故郷はここではない。とても遠いところにある」


「故郷……おばあさま、それはどこにあるのですか?どうして僕たちは、そこから離れてしまったのですか?」


 

 ──故郷。幼い僕にとって、それは夢物語のように遠い存在だった。

 われわれ一家は、どこへ行っても迫害された。

 ずっと、村から村へと渡り歩いてきた。

 あるときは荒野をさまよい、またあるときは路地裏で身を潜めて暮らしてきた。

 そんな毎日に、僕たちはただ静かに耐えていた。

 吹雪の中、厚い雪の下で小さく根を張る植物のように。


 なぜ迫害されなければならないのか。

 それは僕たちがトカゲ獣人──ルドバキ族だからだ。


 そんな僕たちに、故郷があるなんて。

 おばあさまは嘘をつくような方ではない。気を紛らわせるための作り話とも思えなかった。

 なによりおばあさまは嘘をつけない。神様との約束だからだ。


 「故郷はとても高いところにあるそうだが……われわれはそこから追放された一族なのだ」

 「追放?そんな……何か悪いことをしてしまったのですか?だから僕たちはどこに行っても……」


 「そうではない。そうではないのだ、ハリムよ。われわれは、何も悪いことはしていない」

 おばあさまの手が、やさしく僕の頬を包む。その瞳には、揺るぎない誠実さが宿っていた。


 「なら、なぜ……」


 おばあさまは決して、「僕たち」や「私たち」とは言わない。

 いつも、必ず「われわれ」と言った。その言葉は少し古い響きと、静かな信念が込められていた。


 「おまえは賢い子だが、まだ幼い。だからわからないだろうが……考え方の違いでそうなることもあるのだ。それに、われわれはただ追放されただけではない。同時に、経典を守るためにも故郷を出たのさ」


 「経典、ですか」


 「ああ。今はもう手元にないけれど……われわれの心にはまだあるよ」


 「僕た……いえ、われわれの故郷はどんなところでしたか」


 「赤ん坊の頃に出たからわからない。……けれど高いところにあるのだから、きっと青空がとても綺麗だろうね」

祖母はそう言って、空を見上げていた。




 ──“われわれ”は、すでに“われわれ”ではない。

 

 数百年の歳月と幾度もの戦争が、僕たちと先祖との間に深い溝をもたらした。

 その深い溝が、“われわれ”ではなく“彼ら”へと変えてしまった。

 夢物語のように遠い存在に。


 それでも、“彼ら”が“われわれ”の祖先であるということだけは変わらない。



 おばあさまは、よく言っていた。

 悪いのはルドバキ族でも、教えそのものでもない──もっと別のものだ、と。



 

 時が流れ、僕は学者になった。

 失われた経典を探し出し、われわれの故郷がどこにあったのかを知るために。

 ……そして本当のルドバキ族の歴史を知るために。


 おばあさまは、いつも悲しそうに何度も言っていた。

 「われわれが信仰していたベツゴ様は、世間で言われているような悪神ではない。あれは、われわれではない。違うのだよ。本当の教えは……」


 その先を、おばあさまが死ぬまで語ることはなかった。



 けれど幼い僕は、その沈黙から察していた。

 今この世に残る教えは、おばあさまが語りたがらないくらいに、ひどい内容に変えられてしまったものなのだと。


 学者になってあらゆる資料を読み漁って、その確信は強まった。

 記述の端々に滲む、歪められた教えの過激さと驕り。

 

 あの温厚なおばあさまが信仰するには、あまりにも野蛮で好戦的すぎる。

 

 おばあさまが「今の教え」を頑なに僕に教えようとしなかった理由が、ようやく理解できた。

 そして知っているはずの本来の教えをほんのわずかしか語らなかったのも、きっと僕を守るためだったのだろう。


 まちがいなく教えは歪められている。

 ……だが経典が失われたいま、それを証明する術がない。


 それでもせめて、おばあさまの心の拠り所である故郷を見つけてあげたいと思った。


 おばあさまの歌声を思い出すたびに、いつも寂しそうな背中が目に浮かぶのだ。

 そのたびに、胸の奥が締めつけられるように痛む。

 

 トカゲ獣人はみな背中が丸いが、おばあさまは特に丸かった。

 誰よりもお祈りの時間が長いのだろう。

 膝の鱗が擦り切れて琥珀のようにつやつやと輝いていた。

 黒く煤けた蝋燭の跡を見ると、それをいつも思い出す。



 どうにかして故郷に辿り着きたいと強く思った。

 故郷への果てしない憧れや、遠くに流れる神官の血がそうさせるのだろうか。


 救われると信じたからこそ、人は神を信仰した。

 ならば、その信仰は救われなければならない。

 経典の改ざんは、神と信徒の心を踏みにじる行為だ。

 ──決して、許されることではない。




 ハリムは強く目を閉じた。

 だから、僕は今この砂漠にいるのだ。

 

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