第35話:朝の幕開け
レストランを出る間際、クロは店長から袋いっぱいのドーナツをお礼にもらった。
揚げたてのドーナツを頬張りながら、クロは店長や観客たちに無邪気に手を振る。
ヨナはギルドの仕事があるということで、クロとエーギルはひと足先にリネン邸へ戻ることになった。
「喧嘩してたのはびっくりしたけど、怪我がなくて本当に良かったよ」
「お前は本当に心配性だな。あんなチンピラに俺が負けるわけないだろ?」
クロはドーナツを一口で頬張る。
エーギルは少しだけ複雑な表情を浮かべた。
「まぁね。でもこれからは、もう少し気をつけてほしいかな」
「面倒なことになるからか?」
それもあるけど……と、エーギルは軽く首を振る。
「クロは旅に出るまでは、あの下級天使たちに追われていたんでしょ?」
「ああ。最近まったく来ないのが、むしろ不気味だけどな」
土神マクフの紋様を持つ下級天使たち。
クロがあの森を抜けて以来、彼らに一度も遭遇していない。
なぜ自分を追っていたのか、その理由はいまだ掴めないままだ。
エーギルの胸が、かすかにざわつく。
彼らは、誰の命令で動いていたのだろうか。
彼らは、クロの持つ力を恐れていたのかもしれない。
あるいは、その力を利用しようとしていたのかもしれない。
「クロの鱗が弱体化したことは、なるべく彼らに知られないほうがいい」
エーギルの声は静かで、切実だった。
──いつでも俺がそばにいられるとは限らないからね。
「確かに……気をつけておく」
クロは頷いた。
人化スキルを得た代償として、鱗は変質し、ユニークスキル《黄金の兜》を失った。
そのスキルは、彼の鱗を常に強化し、あらゆる攻撃から身を守る最強の盾だった。
今までは不死身とさえ言えたが、今はそうではない。
これまでと同じ感覚で戦えば、命を落とすだろう。
「うん。彼らがクロを見失ったのか、諦めたのか……。どちらにせよ用心するに越したことはないよ」
夜風が頬を撫でた。
エーギルは、何かを思い出したように空を見上げる。
──もしかしたら、君の探している黒竜は神かもしれないよ。
ふいに、エーギルの耳に、ある友人の言葉が蘇った。
彼は突拍子もない切り口から会話を始めることがある。
まるで神託を受けたかのように。
ドラゴン──それは最も強大な力を持ち、すべての食物連鎖の頂点に立つ生物。
すなわち、この世界では最も神に近い存在。
神が遣わした使者だと信じる部族もいる。
だが、ドラゴンはあくまでも魔物であり、神と呼ばれるものはいなかった。
突拍子もない話題を、まるで神託のように口にする男──ハリム・ザカリア。
それは、クロと出会う数年前のことだった。
黒竜討伐のために世界を巡っていたエーギルは、情報収集の限界を痛感していた。
そのとき、快く協力してくれたのがハリムだった。
モノクルの奥で静かに輝く、無機質な灰色の瞳。
最初こそ距離を感じたが、いつしか彼とは奇妙な友情で結ばれていた。
「どうして黒竜が神だと思うんだい?」
問いかけるエーギルに、ハリムは淡々と答えた。
「まだ解読されていない石板があった。最近、それを読み解いたんだ。」
ハリムは若手ながら、神学と古代語の双方に通じた権威だった。
誰にも読めないと思われていた神世の古代文字を、彼だけが解き明かすことができた。
「へぇ……どんな内容だったんだい?」
「──創世神話さ」
ハリムは分厚い手帳を開き、静かに朗読を始めた。
闇夜に包まれ、万物未形。
光神エウリジ、輝き放ち天地照らす。
土神マクフ、万物生み出し大地築き給う。
水神ケドナ、海を創り出すも、世界寒く生命息なし。
火神アプロガ、地底に炎巡らせ世界を温め給う。
風神ウォフザィオス、空を駆け巡り、雨を降らし生命を育む。
死と夜を司る闇神ベツゴ、黒き翼を闇夜に広げ、その影を世界に落とす。
万物を眠らせ、世界の均衡を保つ。
朗読を終えたハリムの表情は、いつになく険しかった。
顔にはほとんど感情が出ないぶん、その目だけが鋭く光っている。
「確かに言葉は古いけど、内容は今の神話と変わらないように思う。一体、何が気になるんだ?」
「……“黒き翼”さ。これは比喩ではなく、文字通りドラゴンの翼ではないかとね」
ハリムはその石板を解読したとき、エーギルが語っていた“災厄の予知夢”を思い出したのだという。
「あの夢か……」
エーギルは“神託によって黒竜の予知夢を見た”ということにしていた。
真実──それが“回帰の記憶”であることは、誰にも言えなかった。
話したところで、誰も信じはしないだろう。
天を覆うほどの黒き影。
世界を滅ぼす闇の巨竜。
それは、彼が見た災厄の光景と一致していた。
「……もしそうなら、俺は神話の英雄になってしまうな」
冗談めかして笑ったエーギルに、ハリムはわずかに目を細めた。
「英雄神話の始まりは、いつも平凡な場面から始まるものさ」
その瞳の奥に、エーギルは未来を見透かされたような感覚を覚えた。
……そのハリムが、砂漠で行方不明になるとは。
彼が向かった遺跡は、闇神ベツゴの信仰圏にあったはずだ。
体力のない彼が、なぜ過酷な砂漠を目指したのか。
いったい何を見つけようとしていたのか。
「……実は砂漠で行方不明の学者、ハリムとは友達なんだ」
「えっ!?」
思わぬ一言に、クロはドーナツを落としそうになった。
◇◇◇◇◇◇
──蒼月の砂漠へ出発する当日の朝。
クロはひとり、リネン邸を出てレストランへ向かっていた。
赤と黄が溶け合うように染まった山肌を背に、朝日がデリッツダム中央都市を照らす。
朝早くにもかかわらず、市場や鍛冶屋街はすでに活気で満ちている。
爽やかな秋風が吹き抜け、どこからか焼きたてのパンの香ばしい匂いを運んできた。
クロは深呼吸して、その香りを胸いっぱいに吸い込む。
──この香りも、朝食のメニューのひとつにするのもアリだな。
クロは朝からご機嫌だった。
これから、昨日お世話になったレストラン『黄金のフライパン亭』で朝食をとる。
ヨナから下された食い溜め命令は、まだ続いていたのだ。
「まぁ、食べられるならなんでもいいけどな。今日もご馳走になるぞ!」
クロは扉を押し開けた。
ベルが軽やかに鳴り、香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐる。
「いらっしゃい!待っていたよ」
ちょうど料理をテーブルに運んでいた店主夫婦が出迎える。
クロが座るテーブルは、すでに大盛りの料理で埋め尽くされていた。
クロが席につくと、昨日のチンピラ達がエプロン姿で追加の料理を運び込んできた。
「あ、昨日の……」
「昨日はすんませんでした!」
昨日の様子とは打って変わってチンピラ達は明るい目をしていた。
冒険者業を休んで、住み込みで働くことになったらしい。
店主夫婦の人柄に心打たれ、改心したのだという。
「兄貴って呼ばせてもらってもいいスか?」
「すげーうまいもん持ってきたら舎弟にしていいぜ。あ、これとこれとこれ、おかわりな。巨人盛りだ」
スープを飲みながら適当に返すクロ。
「ありがとうございやす!いつか絶対クロ兄貴のためにうめぇもん狩ってきます!」
元気よく返事をするチンピラ達。
その間もひっきりなしに入店ベルが鳴る。
慌ただしくホールを駆け回るチンピラ達を横目に、料理を再び頬張った。
「あいつら頑張ってんなぁ……」
おかわりを待つクロの目に、ふと隣のテーブルが映った。
そこには細身の黒衣の男が座っていた。
青みを帯びた鉄錆色の肌。瞳は深い井戸の底のように暗い。
胸ほどまである黒髪は蛇の鱗のような質感をしており、朝日に鈍く光っている。
そしてその皿には、マヨネーズが山のように盛られたフライドポテトがあった。
(うお……すげえな。あいつ一人であれを食うのか?流石の俺でもキツいぞ)
クロはひそかに眉を顰めた。
その時、ばちりと彼と目が合った。
「ああ、君は昨日の……!昨日の食べっぷりは実に見事だった!一目ですっかりファンになったよ。君の名前は?」
まるで役者のように大仰な身振り手振り。
「昨日のお客さんか?どうも。俺はクロだ」
あの場にいた客の顔はまったく覚えていないが、クロはとりあえず話を合わせる。
ちょうどおかわりが来たので、クロの意識は完全に料理へ向かっていた。
「君の食べ方はいいねえ。実に……生きている。」
男は感動したように言う。
「よかったらこちらもどうだい?」
男は自分の皿──山盛りのフライドポテトを差し出したが、クロは断った。
「いや、遠慮しておく。もうそろそろ出なきゃいけないしな」
「ごちそうさまでした!」
朝の光が差し込む店内で、クロは静かに食事を終え、退店した。
残された皿の上では、山盛りのマヨネーズが朝の光を鈍く照り返していた。
その前に腰を下ろす男は、まるで芝居の幕間を楽しむ観客のように笑っている。
「……ああ、やはり興味深い。神を喰らうために生まれた竜。なんと美しい舞台だろうか」
彼──ペセカトルは、目を細めた。
遠くでは隊商の鐘が鳴り、出立の支度を告げている。
「舞台は整った。役者も揃った。あとは──」
唇が、ゆっくりと歪む。
空気が止まり、通りの喧噪が遠のく。
すべての音が、幕の裏へ引いていく。
「我は微笑み、神々は微睡む。そして世界は、黄昏る。」
呟いた瞬間、周囲の光がわずかに褪せた。
影が長く伸び、空の青が一瞬だけ赤銅に染まる。
「さあ──始めようじゃないか、勇者ども。私の愛しい“舞台”を」
彼は残りのポテトを一口食べ、笑いながらゆっくりと立ち上がった。
その笑みは、観客席のない劇場で幕を上げる役者のものだった。
「おやおや、食べ残しがあるじゃないか。もったいないなあ」
男はマヨネーズの中からゆっくりとポテトを持ち上げながら、チンピラ達へと視線を向ける。
マヨネーズが白く滴り、朝陽の下で血のように見えた。




