第26話:地下倉庫へ続く階段
「地下倉庫って、確か魔導器や呪物の保管庫になっているところだよね?気になるなぁ」
エーギルは少し興味深そうに身を乗り出して言った。
まもなく深夜3時になろうとしている。明らかに眠そうなクロとヨナとは対照的に、竜殺しのエーギルはこの時間でも元気だった。ドラゴンとの戦いは五日間続くこともあり、夜通しになるのも珍しくない。間違いなくこの場にいる誰よりも彼が一番元気だ。
それに続いてルーカスも頷き、考え込むように顎に手を当てた。
「私も少々気になりますね。地下倉庫は特殊な鍵で厳重に施錠されています。その鍵は副ギルドマスターのヨナ様とギルドマスターのお二人が管理されている上、開錠にはギルドマスターの許可が必要です。そのため、外部からの侵入は考えにくいと思われます」
ギルド職員が頷く。
「はい、侵入者の形跡も一切ありませんでした。念のため警備の強化もしましたが、依然として音は聞こえます」
「──つまり幽霊、というわけか?」
そう言って、ヨナはため息を軽くついた。
依然として乗り気ではなさそうな様子に、ギルド職員は不安げな表情を見せた。
しかし、ギルド職員の健康を守るのも副ギルドマスターの勤めだ。これを解決しなければ、悪夢で眠れず体調を崩す職員が出てくるだろう。ただでさえ人員不足気味なのだ。
「それは……断言はできません。しかし状況的には動物の鳴き声や自然現象とは考えにくいのです。どうか副ギルドマスターご自身で一度、あの音をお確かめいただけないでしょうか?王都へ出発される前に……」
「一応見てみようよ、ヨナ。俺もついていくからさ!」
エーギルのその言葉には、地下倉庫に入りたいという気持ちが明らかに滲み出ている。限られた者しか入れない地下倉庫に以前からとても興味を持っていて、いつか自分も入ってみたいと密かに思っていた。きっとそのチャンスを逃したくないのだろう。
「あのなあ……こっちはもう寝たいんだが?……まあいい。俺とルーカスが見てくるから、お前たちは帰れ。これはギルドの問題だ」
ヨナが顎で示す先には、ベンチで丸まってすっかり眠り込んでいるクロの姿があった。
エーギルはそれを見て、大袈裟に肩をすくめた。クロの頬をつついても全く起きる気配がない。
「ふふふ……最高に可愛い寝顔だねぇ。うちの従魔がこれじゃあ仕方ないな。ほら起きて、帰るよクロ」
エーギルが何度揺さぶってもクロは一向に起きなかったので、仕方がなくおんぶして宿に戻ることになった。
宿に戻っていくエーギルとクロを見送ると、ヨナとルーカスは地下倉庫へ向かう。
そして、静まり返った深夜のギルドの最奥、地下に続く階段の前で二人は立ち止まった。
◇◇◇◇◇◇
───懐かしい香りがした。シェステーネの花の、甘く柔らかな香り。それは、母上が好きだった花。
ヨナが目を開くと、そこは見覚えのあるクローゼットの中だった。暗闇の中で身じろぎすると、吊るされていた数着の子供服の柔らかな袖が、まるで心配ないとでもいうように頼りなく揺れてヨナの頬を擦る。
その時、遠くから複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。やがて何か言い争うような、ざわめきを含んだ声に変わる。
ヨナは息を呑んだ。いったい何が起こっているのだろうか?
得体の知れない恐怖で心臓が胸奥まで縮み上がり、頭の芯が痺れるような感覚。肌がひりひりとして、体が強張ってくる。どうにか震える手をおさえようと拳を握ると、自分の手がまだ幼い子供のものであることに気づく。
ヨナは慄然とした。
ばらばらと大石が地面を叩き割るような荒々しい足音と、あちこちから響き渡る悲鳴が重なり合う。
震える小さな手でヨナは身をかき抱いた。
──ああ、俺はこれを知っている!これからどうなるのかも、すべて覚えている!
「血は捧げられた、我らは満たされる!」
その太く低い叫びを合図に、すぐ近くで轟音が爆ぜた。クローゼットの中の衣服が衝撃で揺れた。
その揺れが幼いヨナの恐怖を深めていく。
ごうごうと何かが燃える音がする。バキバキ、メリメリと建物が崩れ落ちる音が聞こえた。
ヨナはその崩落音とともに、自分の大切な何かが一緒に崩れていくような気がした。胸とこめかみが痛くてたまらない。気がつけば大粒の涙が頬を伝っていた。ぽたぽたと落ちる涙が、光沢のある深い深緑の布地を静かに濡らしていく。
ヨナが今着ているこの服は、「とてもヨナによく似合っている」と母上が言ってくれたお気に入りの一着だ。
……母上や父上は無事だろうか。そう思った瞬間、ヨナのその心配を絶望で容赦無く塗りつぶすように、再び、重く響く爆発音が何度も聞こえた。誰のものかわからない断末魔のような悲鳴や怒号が、遠く近く、絶え間なく押し寄せてくる。
この騒ぎではもう誰も助からないだろう、という諦めが幼いヨナの胸中で広がっていく。
いつもならば転んだだけでも慌てて駆け寄ってくる、侍従武官のアルノーも来る気配がない。
バン!
突然、ドアが勢いよく開かれる気配がした。クローゼットの中のヨナは驚いて顔を上げる。
慌ただしく重い足音が近づいてきたかと思うと、大きな悲鳴が上がり、その直後にドスン!と重い衝撃音が響いた。しばらくして、複数人の低い声と共に足音が遠下がっていった。会話の内容はよく聞き取れなかったが、ヨナはクローゼットから飛び出してはならないと、本能的に思った。
やがてクローゼットの扉の隙間から見えたのは、白大理石の上でゆっくりと広がっていく血の海だった。
それは、外で燃え盛る炎を反射してきらきらと輝いていた。
…………ああ、まったく嫌な夢を見た。
ヨナが目を覚ますと、見慣れた天井があった。寝巻きは嫌な汗でじっとりと濡れている。
カーテンを閉め切ったままの寝室は薄暗い。隙間からわずかに差し込む光がいつもより眩しく感じられた。
少し寝過ぎたかもしれないな、とぼんやりとした頭でヨナは思った。
汗で張り付いた髪が鬱陶しい。まとわりつく悪夢の残滓を振り払うように、ヨナは長い髪を乱暴にかき上げた。母親譲りの美しい黄金色の髪が、朝日を浴びたようにさらりと寝台を滑り落ちる。
ふいに、記憶の奥底で眠っていたシェステーネの花の芳香が鼻をかすめた。ヨナは眉間に皺を寄せた。思った以上に、悪夢の爪痕は深い。重く息を吐く。シェステーネの花は、あの戦火でほとんど絶滅した。ここにあるはずがないのだ。もう数百年も見ていない。
やがて、寝室の扉を叩く音がした。ヨナは思わず肩を震わせたが、すぐに彼だと気づいて力を抜いた。
「……ルーカスか。入れ」
ルーカスが無口な男でよかった、とヨナは思う。そもそも、彼が足音を立てて歩く姿など見たことがない。もし足音が響いていたら、悪夢の余韻がもっと長引いていたかもしれない。
「ヨナ様、おはようございます。お加減はいかがでしょうか?……そのお顔を見る限り、夢見はあまり良くなかったようですね」
普段は感情を表に出さないルーカスの顔がどこか暗い。彼の瑠璃色の髪と相まって、真珠のような白い肌がひときわ白く見えた。
「お前も悪夢を見たのか?」とヨナが尋ねると、彼は珍しく苦い表情を浮かべて静かに頷いた。
「……ええ。昔の夢を少し見ました」
ルーカスはそれきり黙り込み、何気ない仕草で窓の方へ向かうと、カーテンに手をかけた。
差し込んできた朝のおだやかな光が、静かに寝室を満たしていく。
ようやく長い夜が明け、ちゃんと朝を迎えられたような心地がした。
ヨナは目を細めながら、その光をただ見つめた。
◇◇◇◇◇◇
「あ〜やっぱりどうしても気になる!」
ホテルの一室で、エーギルはいてもたってもいられず叫んだ。
「朝から元気だなぁ、エーギルは」
そんなエーギルの様子をクロはまるで他人事のように眺めている。ベッドの上でクッションに埋もれながら、昨日プロド村でもらったリンゴを次々と貪る姿は、まさに“怠惰”を体現していた。とてもじゃないが、このぐうたらな青年の正体が巨大で禍々しい邪竜だとは思えない姿だ。
「そういうクロこそ、朝からいっぱい食べるねぇ」
「当然だ、俺はドラゴンだからな。気になるってのは例の地下倉庫か?」
クロは麻袋から五つ目のリンゴを取り出し、かじりながら言った。
「そう!夜聞こえる謎の泣き声って、めちゃくちゃ気になるじゃない?」
「俺はどうでもいいがなあ……そんなに気になるんだったら、見にいけばいいだろ。中に入れなくても、わかることはあるんじゃないか?」
「だよね!よしっ!今から行こう!」
エーギルは勢いよく立ち上がり、パンと手を叩くと、シュバッと指を立てて決意表明した。思い立ったら即行動。それがエーギルという男である。一瞬で外出準備が整った。きっと彼が旅立った日もこんなふうに唐突だったろうな、とクロはなんとなく思った。
「おっ、マジで今から行くのか?俺はここでダラダラしてるから、お土産よろしくな」
クロの声には、微塵も動く気配がない。まさに“動かざること山の如し”。
エーギルが外に出て美味しいものを買ってきてくれたら、それでいいのだ。
「え〜〜一緒に行こうよ!!」
どうにか引っ張って行こうとするエーギルに、クロは一応抵抗する。しかし、その腰の重さに「抵抗するのも面倒」とでも言いたげな態度を見て、エーギルは痺れを切らした。
「従魔なら、主人についていくものだろう? 歩くのが面倒なら抱っこして行くよ」
お姫様に声をかけるような、爽やかな笑顔でエーギルが言う。クロはぐうの音も出ない。形式的な主従関係とはいえ、それを持ち出されると弱い。しぶしぶ、クロはベッドから立ち上がる準備を始めた。
「帰りに何か美味しいもの買ってあげるからさ」とエーギルのダメ押しが入る。
「本当だな? 約束だぞ」
クロの足腰にようやく力がこもった。いつも何かしら食べ物を買ってもらっている気がするが、それはそれ、これはこれ。ドラゴンを動かしたいなら、いつだって生贄が必要なのだ。
そして、秋らしく澄み渡った青空の下、二人はギルドへと向かった。
ギルドの扉を開けると、特に変わった様子はなく、いつも通りのにぎやかな雰囲気が漂っている。
エーギルとクロに気づいた職員が、ヨナのいる執務室へ案内してくれた。
「よぉギル、早速来たか。例の地下倉庫の件だろ?」
エーギルが口を開く前に、執務机に座るヨナが先に言い当てた。
ヨナの顔色を見て、エーギルは彼があまり眠れていないことに気付いた。
(あの地下室の音を聞くと悪夢を見る、という話は本当かもしれないな)
エルフにはある程度の呪い耐性があり、相当呪いが強くない限り無効化できる。
そのヨナが眠れなかったということは、あの地下倉庫には何か相当なものがある、ということだ。
「ねえヨナ。やっぱりどうしても気になるから、地下倉庫を見に行ってもいいかい?中に入れなくても構わない」
「ああ、見るだけならな。ただし規定上、俺も立ち会う」
ヨナが合図すると、ルーカスがエーギルに申請書を差し出した。
「ありがとう。……昨夜、地下倉庫の中はどうだった?」
申請書に目を通しながら尋ねるエーギル。ペンを持つ手は迷いなく署名欄へ進んでいく。
ちなみにクロは従魔なので、サインは不要だ。
「いや、中には入ってねェ。確認したのは扉と周辺だけだ。中に入るには、ギルドマスターの許可が要る」
エーギルから申請書を受け取ると、ヨナもサインをして書類箱へしまった。
「かなり厳重なんだな……」とクロが驚いたように呟く。
「当然だ。あそこにあるのは貴重品だけじゃねェ。他ギルドから預かった危険物や、戦争用の魔導兵器も保管してある。盗まれたら洒落にならん」
それを聞いてクロは思わず顔を顰めた。
「おいエーギル、かなり危ないところらしいぞ。それでも入るのか?」
「もちろん知ってるさ。面白そうだろう?あそこにどんなものが入ってるのか、昔からずっと気になっていたんだ」
興味を隠せない様子のエーギルに、クロは肩をすくめた。
──こうして、エーギル、クロ、ヨナ、ルーカスの四人で地下倉庫へと向かうことになった。
「さっきの話の続きだけど。昨夜見に行ったとき、例の“泣き声”は聞こえたのかい?」
「……ああ。人の泣き声のような音が、確かに中から聞こえた」
その言葉にルーカスが頷き、やや神妙な面持ちで言った。
「ただ、不可解な点がありまして……さきほど倉庫内の目録をヨナ様と確認しましたが、あのような音を発するものは一つも登録されていませんでした」
「へぇ……じゃあ、やっぱり幽霊かな?」
エーギルはますます興味をそそられた様子だ。
「……正直、それも考えにくいのです。倉庫には、王族の国宝庫と同等の魔術的・物理的なセキュリティが施されています。魔除けも強力なもので、ゴーストの類が入り込むことは基本的に不可能です」
「つまり、幽霊すらも入れない地下倉庫から声がするってことか?」クロは困惑した。
「──だから、ますます分からねェんだよ。今日中にギルドマスターに開錠申請を出すつもりだ」
ヨナがため息混じりに言った。
「まあ……ともかく、見るなら今だ。夜より昼のほうがいい」
ヨナが静かに言う。
あの泣き声を聞いた職員たちは、悪夢でろくに眠れない日々が続いている。おそらくこの問題を解決しない限り、悪夢を見続けるだろう。だからこそ、エーギルたちにはなるべくあの音を聞かせるべきではない。
「どうしたの、クロ?」
「……なんか、変な匂いがするぞエーギル。いや、匂いというより──気配か?」
「俺たちには分からないけど、それってどこから?」
「あっちの方だ」
クロが指差した通路の先には、件の地下倉庫へと続く階段があった。
ヨナが眉をひそめる。
一行は警戒しながら地下へと階段を下りていった。
倉庫の前にたどり着くと、クロは犬のように扉の周囲を嗅ぎ回り、ある一点で立ち止まった。
「扉そのものは大丈夫そうだぞ。……でもこの辺、何か妙だ。ここから嫌な何かが漏れてる」
ぱっと見では何の異変もなかったが、魔力の流れに敏感なエーギルはすぐにそれを察知した。
「……結界の一部がちょっとだけ歪んでいるね。ドラゴンの嗅覚は凄いなぁ。クロがいなかったら見落としていたかもしれない。さすがクロ!」
「それは……つまり、結界が壊れかけてるってことか?」
ヨナの声には、倉庫の管理者としての責任の重さからくる焦りが滲んでいた。
エーギルは難しい顔で扉をしばらく観察したあと、ゆっくり首を振った。
「ううん、ちょっと違う。結界そのものには問題ないよ。ただ、ここだけが不自然に歪んでいる。なんていうか……小さな毛糸の網目が一箇所だけ広がっているみたいな感じだ。内側から無理やりこじ開けようとした跡かな?経年劣化なら、こうはならない」
エーギルはそう言いながら、右手を軽く持ち上げた。手の甲に刻まれた聖痕が、普段よりも強く光を放ち、脈打っている。
「ここから漏れてるもの……あまりいいものではなさそうだよ。おそらく中で何かが起こっている」
光の勇者としての直感か──それとも、聖痕が何かを察知しているのか。エーギルのその声には、確かな確信があった。




