プロローグ:ふたつの月
──お前はもし転生したら何になりたい?
半分以上の照明が落とされて薄暗いフロアに、タイピング音がわびしく響く。
……残業。昨日もおとといも残業、今日も残業。
連日夜遅くまでの残業で、ろくに眠れていない。
今夜もダメそうだな。俺は小さくため息をつきながらマウスを動かす。
寝不足による重怠い眠気も、いつのまにか当たり前のものになっていた。
入社祝いに貰ったネクタイは鎖のように重い。
背伸びをすると、首から下げた社員証が微かな音を立てながらシャツの上を滑る。
何度も辞めてやろうと思ったことか。だがしかし、行動にうつる時間も心の余裕もない。
瞬く間に春が過ぎ、気がつけば冬が目の前にあった。
そうしてブラックな環境からなかなか抜け出せないまま、今日に至る。年末の残業祭りだ。
ふいにコーヒーの香りがして反射的に振り向くと、同僚がそこにいた。
その手には黒い蓋がついた紙カップが握られていた。
彼は同僚であり親友だ。
彼はコーヒーが飲めないので、自分への差し入れだとすぐ分かった。
彼の優しさとコーヒーの香りに自然と頬が緩む。
礼を言いながらそのコーヒーを受け取ると、唐突にあの質問をされた。
コーヒーの熱で指先が温まるのを感じながら、俺は考えた。
もし転生したら何になりたい、か……。
「そうだな……ドラゴンになりたい。まずは寝たいな……飽きるまで眠りたい。そんでたくさん、たくさん食う!ドラゴンは胃袋がでかいから、食いたい物を悩まず全部食えるだろ。メニュー全種類大盛りで注文してみたいな」
それを聞いた親友は腹を抱えて笑った。
──はは、お前ならその食欲で国を滅ぼせそうだな!面白そうだから、お前の転生先がドラゴンになるよう祈っておくよ。なんてな。
「簡単には滅ぼさない。もし飯が美味ければ、その国を守ろう」
…………夢を見ていた。詳細を思い出そうとすればするほど、だんだん記憶が煙のように曖昧になっていく。
……はて、どんな夢を見ていたのだったか。
頭上のはるか高くで、月が二つ輝いていた。
俺はドラゴンという種族らしい。
親の顔も声も知らない。友達もいない。話し相手もいない。物心ついた頃から、1匹だった。
ひたすら本能に従い食べて寝て、の繰り返しだ。
エサはなぜかあちらのほうからいろんな奴がやってくるので、わざわざ狩る必要がない。
生まれたての頃は自慢の爪を振るってそれなりに戦闘を楽しんでいたが、今は強くなりすぎて面白くない。
それから、最近はどうしたことか寝ているだけで相手が勝手に死ぬようになった。
俺は寝ながら戦っているのだろうか?
寝ているだけで勝手にレベルアップして楽なので、ここ最近はほとんど寝て過ごしている。
しかし寝てばかりというのも退屈だ。快適な寝床作りのためにちょっと運動するか。
ここ数日のレベルアップでだいぶ……いやかなり体が大きくなったので、今の寝床だと窮屈だ。
俺は身を起こした。
身を起こすだけで木が揺れ、森の獣たちが騒いで逃げ出す。少々うるさいが仕方がない。
俺の体は隣山と同じくらいの大きさになっていた。
ちょっと前まではそこらの獣と同じくらいの大きさだったのがもう懐かしい。
そうだな、周りに木があると動くのに邪魔だから少し整えておくか。
やや加減して息を吸い込んでドラゴンブレスを放ち、更地にする。
中央がいい具合に凹んで、なかなか上出来だ。
尻尾で木炭を集めてクッション代わりにする。
そこら辺の土だと汚れが目立ってしまうので、この黒い体には木炭がちょうどよい。
これだけだと少し寂しい気がしたので、ちょうど近くにあった遺跡から柱を4つ拝借して四方に立てた。
我ながら素晴らしい出来だ。こうして何かに囲まれていると、自分の領域が守られているようで落ち着く。
……満足したら眠くなってきたな。早速新しい寝床の寝心地を試そうではないか!
おやすみ!!おお……これはなかなかいい感じではないか……
幼いドラゴンは新しい寝床にたいへん満足して目を閉じた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
───── やれやれ、面白いくらい神としての自覚が全く感じられんな。まぁ生まれたばかりじゃから仕方がないが……
光、天国を統べる最高神エウリジ。
闇、破壊の神ベツゴ。
火、智恵と青炎の女神アプロガ。
水、原初と航海の女神ケドナ。
風、天候の神ウォフザィオス。
土、万物と生贄の神マクフ。
この世界は六柱の神によって育まれ、支えられていた。
ゆえに、六神が一柱でも欠けるとマナのバランスが崩れてたちまち世界崩壊に繋がる。
最近、その六柱の一柱、闇を司る破壊神ベツゴが何者かに殺されてしまった。
その真相を探るのも重要だが、まずは世界崩壊を防ぐ必要があった。
最高神エウリジは急いでベツゴの後任を探した。
そしてその後任に選ばれたのが、あのぐうたらなドラゴンだった。
しかし、生まれたてとはいえ、神としての自覚を持ち役割を果たしてもらわなければ困る。
このままずっと寝てばかりでは、世界崩壊の危機にあるのは変わらない。
少しでも自覚を持ってもらうべくエウリジは何度か神託を下したが、本人はまだ覚醒前のため、まだ現実味がないようだった。
いつも途中で寝てしまうか、夢の一言で片付けられてしまっている。
この件についてエウリジはすでに別口で手を打っていた。
今回の神託はいわば可愛い孫の寝顔を見に来たようなものだった。
─────新たなる破壊神よ。今はまだその時ではない。2人とも、よく眠りよく食べ、よく育つんじゃぞ……