第八話 明日を待った
私が城へやってきた報は、その日のうちにステュクス王国の使者へと伝わっていた。
夕方、ステュクス王国の使者は私のもとを訪ねてきて、表敬および肝心な用件の伝達のために、格式ある応接間へと通された。使者はなんと、女性だった。ステュクス神殿の神官長の一人であり、巫女を統括する立場にある。パナギオティスと名乗った黒髪を引っ詰めた中年の女性は、正装である白のローブに錦糸の飾り、手のひらほどもある黄金のステュクスの印を首から下げていた。
「エレーニ・ガラニス姫、こたびの突然の訪問、お許しください。本来であれば数多の贈り物を用意し、我がステュクス王国の威信をかけてお迎えに上がるべきところを、内々のこととなってしまったことはまことに遺憾ではございますが、それもあなたさまを大至急ステュクス王国へお招きするため。どうか、ご寛恕のほどを」
パナギオティスは実に威厳ある、こうした正式な場所での発言に慣れた様子で、私へ頭を下げた。私は戸惑ったけど、姫として扱われているからには、そう扱ってくれた相手に失礼のないよう振る舞うべきだと悟った。
「パナギオティス神官長閣下、こちらこそ遠路はるばるいらっしゃったあなたを歓待する用意がないことを詫びねばなりません。して、本題に入りましょう。時間をかけるような話ではないはずです」
「おっしゃるとおりかと。では、エレーニ姫、すでにお聞きおよびとは存じますが、順を追って説明いたします。我がステュクス王国はオケアニデス教の主神ステュクスを祀り、その神殿たる神域アルケ・ト・アペイロンを所有しております。ゆえに、たびたび主神ステュクスからの神託を得て、王はそれを重視した神聖なる政を行っておりますが、先日、ある神託が預言されました」
パナギオティスの言葉は、私がコーリャ青年から伝え聞いていたことが現実なのだ、と保証するものとなる。
「神託はこうです。ステュクス王国においてもっとも聡明な青年、王子アサナシオス・シプニマス。汝の妻としてウラノス公国に住む清廉なる乙女エレーニ・ガラニスを娶るべし」
神官長らしく厳かに、パナギオティスは明瞭な声で神託の言葉を発する。
聞き間違いはない。神託とあっては内容も疑うことはできず、ここに至って私が確認すべきことは一点だけだ。
「それは、間違いなく私を指しているのでしょうか?」
「はい。ウラノス公国においてエレーニの名を持ち、かつガラニシアの血を引くがゆえのガラニスの姓を冠する乙女は、あなたさま以外におりません。アサナシオス王子殿下はすでに婚姻の準備を済ませております。ステュクス王国ではあなたさまの来訪を両手を挙げて歓迎いたしますとも」
どうやら、逃げられはしないようだ。確かに、私以外に狭いウラノス公国にガラニシア出身の母がいるエレーニはいないだろう。お相手のアサナシオス王子殿下も拒絶していないとなれば、私には断れない。もっとも、修道院に戻ることも気が進まず、また父の手前、私に断るという選択肢はないのだけど。
ところが、パナギオティスは私の返答を聞く前に、話を変えた。
「ところで、エレーニ姫は修道女だと聞いておりますが、何という神に仕えていらっしゃるのでしょう?」
「ああ、それは」
それは、神官長として興味があるところだろう。ましてや神託を受けた王子の結婚相手ともなれば、どんな人物か少しでも確かめておきたいのだ。
嘘を吐く意味もない、私は正直に答える。
「忘却を司る女神レテです。なので、修道院も人里離れた土地にあり、今まで誰からも忘れ去られていました」
冗談混じりに、そう言ってみた。しかし本当のことだ、忘却の女神レテはそれほど信仰されておらず、隠遁者のためにあるような修行を課される。人と交わらず、ただ祈り、瞑想し、俗世のすべてを忘れ去る努力をする。そんな信仰は、私にとってはちょうどよく、人々の記憶から私を消したいウラノス公にとっても都合がよかったのだろう。
ただ、パナギオティスは、それを聞いて深刻そうな顔をしていた。私は何か不快にしてしまっただろうか、と心配して声をかける。
「あの、何か?」
「ああ、いえ、女神レテの名を聞くのは久しぶりで、そうでしたか、なるほど」
パナギオティスは意味深に頷いた。その真意は、私の預かり知るところではない。知ろうと思って知ることのできないことに、興味を持つ必要はなかった。
「通常、修道女が婚姻を結ぶならば還俗の儀が必要ですが、ステュクス王国の王族は皆聖職者としての地位があり、なおかつ主神ステュクスの信仰には信者の結婚を妨げる戒律はございません。無論、差し当たってステュクス神殿に奉仕いただく以上は、その信ずるところを主神ステュクスへと変えていただかねばなりません」
「それは大丈夫だと思います。忘却の女神レテは自由ですから」
「ええ、安心いたしました。それでは、あとの雑事はお任せを。朝一番に、ステュクス王国行きの馬車を手配いたしますので、ご準備をお願いいたします」
私は大きく頷いた。もういつでもウラノス公国を出ていける。それだけで嬉しかった。嫌な記憶は忘れ、新しく示された道を歩むことができるなら、大歓迎だ。
私は客間に戻り、子供のようにわくわくしながら明日を待った。