第四十三話 パックス・ステュクサーナ
主神ステュクスの神託、もといエレーニへの憑依があった当日、夜。
サナシスは執務室にニキータを呼び出した。重要な、ステュクス王国としての方針を決めるときは、必ず助言役としてニキータを呼ぶ。サナシス一人でも大抵のことは決定できるが、より可能性を模索し、ある程度の保証を得るためだ。
サナシスは昼間の騒動をニキータへ伝え、問いかける。
「ニキータ、どう思う?」
今日の主神ステュクスの神託について、と言わなくてもニキータは意を汲み取った。
「まず、私は別に主神ステュクスの信徒ではないよ。その上で言うのであれば、神域アルケ・ト・アペイロンにいた全員が集団幻覚を見ていたのではないか、と思う」
「いや、あれはそんなことで説明できはしない。第一、エレーニが俺の幼いころのことを知っているはずがない」
「まあ……それは確かに。教えるような人間は、私しかいないだろうね。だが、誓って我が君が散々ボロ儲けしたことは教えていない。負かされた私にもプライドというものがある」
「教えなくていい。それで」
サナシスは本題、神託による核心に迫る。
「この大陸の、貴族制度を全廃させることができるかどうか。可能性はある、と俺は見ている」
それがエレーニの復讐を完遂するために必要、と言いたくはなかったが、ニキータにだけは伝えてある。
ニキータは反対しないだろう。それどころか、サナシスの予想が正しければ、むしろ推進する立場を取る。
案の定、ニキータはそのために必要な大前提、この世界の状況とその目的に関する情報を提示した。
「少し、未来の話をしよう。ステュクス王国は特殊な体制であるからして、このままでも大丈夫だろう。だが、他国はそうはいかない。旧カイルス王国および周辺国での反乱と市民たちによる国家樹立、政治体制の刷新は、もはや決定事項だ。その流れが他国へ移る、これもまた確定だろう。となれば……他国は、王侯貴族は断固として反対する。自分たちの既得権益が侵害され、旧ハイペリオン帝国や旧ミナーヴァ王国の王侯貴族のように処刑されるのではないか、と恐れるからだ」
サナシスは頷く。ニキータはそれを確認して、次の話に移る。
「だが、遅かれ早かれ、市民による王侯貴族に対する大規模な反乱は起きていただろう。予定調和とさえ言える。奇跡的に成功し、いや大成功してしまい、世界は大きく変わることになった。であれば、ステュクス王国としては、その流れに乗るべきだ。戦争ばかりしてまつろわぬ王侯貴族よりも、敬虔なる市民たちを支持するのは、何らおかしくはない」
「いずれ俺たちが王侯貴族の代わりに批判の的になり、処刑されるとしても?」
「そのときは、この大陸に信仰が必要なくなったときだ。永遠に続くものなどない、ステュクス王国の役割は終わることもあるだろう。しかしだ、すぐにではないし、今後数百年は生き延びるだろう。その後も安泰に過ごしたければ、その間に子孫たちに努力してもらいたいね」
なるほど、そのとおりだ。
主神ステュクスを信奉する王族や聖職者、市民であればそのような言葉は出てこないだろう。永遠に続く平和、主神ステュクスによる加護、それらを無邪気に信じる人々は、ステュクス王国の終焉を忌避する。だが、ニキータの言ったとおり、いずれステュクス王国も終わるときが来る。今できるのは、それをできるだけ引き伸ばすことだ。またはさらなる栄耀栄華を得ることでもいいだろう。そのために時代の流れを読み、的確に行動を決定していく。現代に生きるサナシスにできることは、実のところそのくらいだ。
「おかしな点があればご指摘を、我らが聡明なる王子よ」
「いや、何もない。俺も同意見だ。よし、すべき話をしよう。反乱を起こした市民たちとの接触はどうだ?」
「主導的役割を果たした幾人かと交渉し、組織化を急がせている。軍人および組織立ち上げの経験のある人材をすでに送った、まもなく商人組合から選抜された商会がいくつか向かい、資金面での協力を協議する。今後目指すべき国としての大枠については伝えてある、大筋合意できた。詳細は詰めていくとして、それほど時間はかからないだろう」
「完璧だ、問題ない」
「私は我が君の指示に従っただけだがね」
「それをこなせる人材が少なすぎる。さて、へメラポリスとアンフィトリテはどうだ? ソフォクレス将軍が現地にいると思うが」
「支援のために軍の精鋭を送るべきだ。道中の護衛だとでも称してね」
「また何かあったな」
「周辺国の混乱の中でも、両国の貴族たちは騒がしく、開戦が近いと思っていい。ならば、へメラポリスの元老院へ急襲を仕掛け、止めさせなければならない」
「気は進まないが、戦争よりはマシだな」
「無論、十分な練度の部隊を送る必要はあるが」
「軍のほうに指示を出しておこう。あとのことはソフォクレス将軍に任せよう」
サナシスはふと、ニキータを見た。
何やら、不気味な笑いを浮かべている。
「何だ、気味が悪い笑い方だな。何が気に入らない?」
「いや、失敬。むしろ、気に入っているからだ」
サナシスは首を傾げる。何かニキータを喜ばせるようなことがあっただろうか。
とはいえ、それはすぐに察せられた。ニキータは、サナシスに一大目的ができたことを喜んで笑っているのだ。呆れるしかない。
「野望というものは、実に心躍る。そう思わないか?」
「できれば思いたくなかった」
「はっはっは! 我が君は謙虚だな! 妻のために世界に変革を起こそうというのに!」
その言葉——妻のため、という言われ慣れていない単語——を聞いて、サナシスは憮然とした表情を浮かべる。
「面と向かって言われると恥ずかしいからやめろ」
「これは失敬」
ニキータはまったく反省していない。だが、改めさせるのも面倒だ。サナシスは放っておくことにした。
何にせよ、これらの策謀はエレーニのためだ。そう思えばこそ、いくらでも力は入る。
世界くらい、変えてやろう。それでエレーニの秘めた復讐の炎が鎮まり、気が済むのなら。
ステュクス王国の誇る聡明なる王子は、それが覇道に至る道とは、まだ知らない。後世ではこののち三百年の時代を表す『ステュクス王国による平和』という言葉が作られることとなる。




