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第三十一話 食堂へ足を踏み入れる

 快晴の空に、たくさんの洗濯物が舞っている。


 王城の城下町は、目抜き通りがまっすぐ北に伸び、そこから坂道となって各路地が下がっていく。主神ステュクスの他、各神々の神殿もそこかしこにあって、例外なく清潔さを求めるからか公衆浴場もたくさんある。そこで使うタオルが毎日たくさん洗われて、風にはためいている。巡礼者を受け入れる旅籠やホテルも揃っていて、大陸全土からやってくる人々を出迎えるために毎日がお祭り騒ぎだ。


 人が途絶えることはなく、隅から隅まで陽光と活気に満ち溢れた清浄都市、ステュクス王国王都アラクノサラムスは世界一の大都市だった。


 そんなところに、私は一人で出歩けたりしない。無理だ。絶対、迷子になって、王城へ帰ってこられなくなる。


 だが、今日は助っ人がいる。というより、私を上手く釣って、王城の外に出させた張本人ニキータだ。


「こちらです」


 王城の通用門を難なく出て、私はニキータと二人並んで路地裏を歩く。これでよかったのかな、と疑問がぐるぐる渦巻くけど、今更帰るわけにはいかない。王城は遠ざかっていく。


「ふっふっふ、女性と外を歩くのは久々ですね」

「いえその、私を女性と言っていいのかどうか」

「ご謙遜を。ああ、わざわざ連れ出したのですから、そうですね、話でもしながらまいりますか」


 私はまだニキータを警戒していた。ここまで来て、とも思うけど、やはりどうしても信用するには何もかもが足りない。


 それでも、私は自分の意思でニキータについてきた。サナシスの好物であるカラマラキア・ティガニタが何であるか興味があるから、という理由が第一だけど、ひょっとすると私は退屈なのかもしれない。よくない話だ。サナシスに迷惑をかけるかもしれないのに、私は今、王城から飛び出してしまっている。


 疑問も不安もまだまだたくさんある。ただ、ニキータの話に耳を傾けていると、その語り口はやれやれ、といった具合で懐古を楽しんでいるようだった。


「アサナシオス王子殿下、親しい者はサナシス様と呼んでおりますが……まあ、子供のころはとてもやんちゃで。王城を抜け出すのは当たり前、兵士たちが王都中を駆けずり回って捕獲して、そのくせ各種授業の時間には完璧に問答をこなして大人を圧倒するものですから、主神ステュクスの寵愛を受けた神童と畏れられていました。畏れられているのは今でも、ですがね」


 どうやら、サナシスは子供のころ、ものすごくわんぱくだったらしい。


 あの美貌と頭脳を兼ね備えた王子が、そんなふうな子供時代を過ごしていた。私にとっては、新鮮な話だ。


「片や、私は少々出来が悪く、また拗ねた性分から国王陛下の覚えも悪かった。王城にいるよりも賭場にいる時間のほうが多いころもあり」

「と、賭場?」

「ええ、賭け事を嗜んでおりました。ですから私は、今でも知恵と賭博の神ヘルメスの信徒です」


 ニキータは意味深に笑う。賭場という単語を初めて聞いた私は、賭け事をする場だと理解はできたけど、それ以上のことはまったく想像できない。それにニキータが王族なのに主神ステュクスではなくヘルメスを信仰していることも、よく分からなかった。後になって、ニキータがステュクス神殿の聖職者としての職を追われていたことを知るけど——それでも、やっぱりよく分からない。


 どことなくサナシスと似ている美貌のニキータは、ちょっと笑い方に陰があって、今まで私が出会ったどの人よりも底知れない感じがした。経歴や話を聞いても、私はきっとニキータを理解し切ることはできないだろう。それでも、話をすることは決して不可能ではないし、少しずつ私はニキータの話を面白く感じてきていた。


「それはともかく。サナシス様は何かと賭場にいる私のところに来て、天賦の才と豪運で賭けに勝つものですから、私は身包みを剥がされました」

「まあ」

「ついでに、私の今後の人生と忠誠まで賭けに勝ってもぎ取っていかれましたよ。それ以来、私は我らが聡明なる王子に仕えている、というわけです」


 正直に言えば、ニキータの話の半分も私は理解しているとは思わない。だって、あまりにも知らない世界のことばかりだからだ。つい先日まで城と修道院が世界のすべてだった私には、城下町や賭場のことなんて想像の埒外だ。それでも私は興味を惹かれる。頑張って、理解しようと努める。


 路地裏に、食欲をそそる香りが漂ってきた。嗅いだことのないしょっぱい香りや刺激的なスパイス臭が鼻をつく。無意識のうちに、口の中に涎が増えていた。


 何だろう。どんな料理の匂いなのだろう。すれ違う人々が、路地に樽と椅子をいくつも並べた店に入っていく。昼食にとやってきて、樽の上にある香ばしい揚げ物や見たこともない白いソース、ほんのりとアルコールの入った飲み物を美味しそうにいただいている。


 私の視線は釘付けだった。ニキータは旅行ガイドのように手で店を指し示す。


「そういうわけで、昔はよくそこの食堂(タベルナ)でカラマラキア・ティガニタを買ってくるよう言いつけられておりまして、今も時折土産に持っていきます。あなたの夫君の好物ですので、よく憶えておいてください」


 食堂(タベルナ)。名前だけは聞いたことがある。調理した食べ物を供するお店。


 そういう店は、実は私は——行ったことがない。


 行ってみたい、ちょっとだけ、心が躍っていた。だって、いい匂いがするもの。でもお金もない、どうやって頼むのだろう。


 種々葛藤を乗り越えて、私は、思い切ってニキータに尋ねた。


「あの、ニキータ様。教えていただきたいことがあります」

「何でしょう?」

「恥ずかしながら、私、食堂(タベルナ)に入ったことがございません。買い物はできるのですが、いつも小麦や塩を注文するくらいで、食べに行ったり、買い食いすることなんて、したことが……その、注文の仕方など、教えていただければ、とても助かります……はい」


 お金がないから今日買って帰れなくても、次の機会には買って帰れるように。


 私はそんな藁にも縋る気持ちで、ニキータを見上げた。


 すると、ニキータはとても柔和な表情で、自分の服のポケットから硬貨を取り出して、私の手のひらに乗せた。


「これがステュクス王国で使われているオボルス硬貨です。城下町ではドラクマ硬貨より頻繁に使いますので、とりあえず十枚ほど差し上げます」

「ありがとうございます!」

「では、中へ」


 私はニキータに誘われて、生まれて初めて食堂(タベルナ)へ足を踏み入れる。


 そこでは、思いがけない人物が、肉を頬張っていた。


「え……エレーニ様!?」

「コーリャ? どうしてここに?」

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