第二話 幼いころのことは、捨てた
世界は今日も美しい。
もう半年以上、誰とも接していないから、私はそう思える。
ずっと昔、私はウラノス公のお城で暮らしていた。滅多に会わないけど父はそれなりに優しく、いつも一緒にいた母は世間知らずながらも公妃らしい優雅な方だった。
敬虔な母は、お城にあった礼拝堂で祈ることを欠かさなかった。幼い私には退屈だったけど、必ずついていった。そして、祈りが終わった母にこう質問した。
「お母様、祈ったって神様は何にもしてくれないわ。このあいだだって、みんなが祈って止めたかった戦争は、始まってしまったじゃない。なのに、祈ることをやめないの?」
「ええ、私はそれでも祈りますよ。いつか、もしそれが叶わなくても、祈ることは無駄でも、無意味でもないのですから」
「ふうん。騙されてない?」
「エレーニ、もし騙されていたとしたら、何もかもは無駄だったことになるのかしら? そうだとすれば、とても悲しいことですね。だから、悲しい世界ではなくするために、私たちは祈るのです」
「よく分かんない。祈らなかったら、悲しくもならないのに」
「ええ、そうですね。祈らなくてもいい世の中なら、どれほどよかったか」
そう答えた母は、どこか遠くを見ていた。はるか山の向こう、故郷を見ていたのかもしれない。戦火に巻き込まれたであろうガラニシアは、今はどうなっているか、と心配していたことだろうから。
母は常に祈り、心が離れていく父を見送り、私を守ろうとした、そのはずだった。
だけど、ガラニシアが滅亡したその日。母はお城の城壁から身を投げ、命を絶った。
母の心は折れたのだ。祈りで繋いでいた心は、一人娘の私を守ろうとしていた心は、故郷が滅んだことで、絶望へ突き落とされた。
私は知っている。母が故郷ガラニシアを守ってくれと再三父に頼み、父はそれを拒絶したことを。そのときは何もかも分からなかったけど、後になって知ったのは、ウラノス公国の安全のために、父はガラニシアを見捨てたのだということ。自国のために、妃の故郷を盾としたのだ。
どれほど母が苦心して、故郷を見捨てないでくれと懇願しただろう。どれほど母は、故郷のために祈りを捧げたことだろう。
祈りは、届かなかった。父は、私を見限った。
父の命令で、私は禁忌を破った母の不名誉な行いを償うためと称して、辺境の修道院へと送られた。不義理をして見捨てた以上、ガラニシアと関係する者は、近くに置いておきたくなかったのだろう。さりとて殺すこともできず、人目につかない場所へ送り込んだ。そんなところだ。
うら寂しい土地で、幼かった私は泣き叫んだ。どうしてこんなところにいなければならないのか、母を返してくれ、毎日そう嘆いていた。修道院に一人だけいた、指導役の老修道女ヨルギアは、そんな私を厳しく育てた。泣き言を言えば折檻し、祈りを怠れば食事を抜き、ひどいときには森の修行用の小屋に置き去りにされたこともあった。
それでも、ヨルギアは私を見捨てなかった。修道女として育て、勉学さえも身につけさせた。それは死の間際になって、ヨルギアが私へ、いつどこでも生きていけるように教えた、と言っていたからだ。
「これから先は、修道院に留まるもよし、逃げて遠い土地に行くもよし。好きに生きなさい。あなたにはそれができるのだから」
私は、ヨルギアを看取り、修道院の小さな墓地に埋葬した。通りすがった旅人たちが助けてくれたおかげで埋葬は無事行えて、私はたまにはいいこともあるものだ、と思ったものだ。
でも、それから先は、何にもいいことはない。誰も来なくなった修道院で、蓄えていた食糧が尽きるまで篭もりっきり。蓄えがなくなれば人里に向かい、教会に依頼してお金をもらい、食糧を運んでまた修道院に篭もる。
きっと、私もヨルギアのように老いて死ぬまで、修道院で暮らしていくのだろう。
私を煩わせる人間は誰も来ない、何も喜びも悲しみもない、無意味な祈りとともに、終わりを迎えるまでの命を繋いでいくだけの人生だ。
公女であったころの記憶は、役に立たないどころか、足手まといだ。私は幼いころのことは、捨てた。
私はただの辺境の地の修道女。二度と私はエレーニ・ウラノ・ガラニスとして生きることはない。そう思っていた。
大陸最大の宗教国家、ステュクス王国。
主神ステュクスの神殿の最奥、神域アルケ・ト・アペイロン。
そこから出てきた神官長が、神託の預言をステュクス国王へ告げた。
「ステュクス王国においてもっとも聡明な青年、王子アサナシオス・シプニマス。汝の妻としてウラノス公国に住む清廉なる乙女エレーニ・ガラニスを娶るべし」
この神託を受け、信心深いステュクス国王はすぐさまウラノス公国へ使者を派遣し、アサナシオス王子の妻とすべくエレーニ・ガラニスなる女を捜索した。当然ながら使者はウラノス公のもとにもやってきた。もちろん、ウラノス公は心当たりがある。十年前に捨てた娘の名前だからだ。
並の一公国が、宗教国家として絶大な権威を持ち、その勢力は大陸随一であるステュクス王国に逆らえるはずもない。しかし、見方を変えればウラノス公家の血筋の者が、望むべくもない大陸有数の尊い血を持つステュクス王家へ嫁ぎ、繋がりが生まれるということだ。あわよくば未来のステュクス王には、ウラノス公家の血が流れているかもしれない。
この機会を逃す手はない。ウラノス公は使者を留め置き、急ぎ辺境の修道院からエレーニを呼び戻した。