第十六話 祈りの手を
大きな川のほとり。
何だかおかしい。アネモネの花と水仙の花が一緒に咲いている。バラもある。芝生は露に朝の陽光を受けて、木々は赤く染まっている。
私の視界にある、季節を無視した風景に戸惑っていると、声がかけられた。
「ごめーん、ちょっと強引に呼んじゃったー」
振り返ると、白銀の長い髪の女性がいた。古の人々のようなゆったりとしたローブ姿で、不思議な雰囲気を持っている。
その女性は、にぱっと笑った。
「エレーニ、まずはご結婚おめでとう。まあ私がやれって言ったんだけど」
「あなたが?」
「そう、私、ステュクス。あなたがたが崇める神の一柱です」
えへん、とステュクスは胸を張った。ちょっと子供っぽいものの、外見は成人女性だ。そして何より、自己紹介が本当であれば、オケアニデス教の主神となる。
これほど不可思議な風景の中で、突然現れた人物となれば——信じたほうがいいと思う。信仰心のない私でも、さすがに受け入れざるをえない。私は、目の前の女性が主神ステュクスであることを受け入れた。
ステュクスはそれを察したのか、話を続ける。
「こほん。呼んだのは他でもない、大事な用事があるからです。エレーニ、あなたうちの子になるじゃない? レテから宗旨替えして」
「はい、そうなります」
「それで頼みがあるんだけど、私の巫女になってほしいの」
ステュクスは片目を閉じて、私へウインクした。お茶目な女神だ。私が呆然としていると、ステュクスは慌てて説明を付け足す。
「ああ、大丈夫。ちゃんと神殿に神託は降ろしておくから。何で自分が、って思うだろうけど、ちょっと事情があって」
「はあ、どのようなご事情か、伺ってもよろしいでしょうか?」
「私、アサナシオスに一番加護を与えてるのよ。だってあの子イケメンだし、人格者だし、何より善良。王子として文句の付け所はなく、信仰心も厚い。私は人間の国には興味ないけど、あの子がいるなら全力で応援しちゃう」
主神としての威厳よりも自由奔放さが目立つステュクスだけど、女神というのはこういうものだ。一人の人間に入れ込み、まるで英雄譚の主人公のような人間を生み出す。その気まぐれさこそが神であり、ときに戦乱が起ころうとも、それは人間を導く役目を果たす。まあ、私の仕えていたレテはそういうことはしない女神だけど、それは置いておこう。
「そこで、あなたよ。清廉、敬虔なる巫女がアサナシオスの妻となれば、彼の地盤は盤石! いい考えでしょう?」
色々と考えるべきことはあるけど、私はそこには同意する。
「確かに、サナシス様のためならば、主神ステュクスのご加護はぜひとも賜りたく存じます」
「そうそう。あなたがこの国で受け入れられやすくするためでもあるし、何より彼はあなたをちゃんと愛する。それは保証するわ」
そもそも私はそれも含めて神託を降ろしたんだけど、とステュクスはにっこりと上機嫌だ。どうやら、ステュクスは私とサナシスが結ばれることを祝福してくれているらしい。
それはいい。それは、いいのだ。
でも私は、本当は、神を信じていない。いや、神を信じ祈る心を、嫌っている。
だから私は、どうしても聞きたかった。
「主神ステュクス。私は、あなたにお尋ねしたいことがあります」
「なぜあなたの母の祈りを聞き入れなかったのか?」
まるで私の心を読んだかのように、ステュクスは先回りした。
その眼差しが、翳る。先ほどまでの無邪気さは鳴りを潜め、声も落ち着いていた。
「数多の祈りは、願いは、信仰は、何かを求めるでしょう。でも、それらすべてに応えられるほど神々は全知全能ではないし、あなたの父の信じる神とあなたの母の信じる神が争い、あなたの母の信じる神が負けただけのこと。そのだけ、があなたの人生を大きく左右し、苦難を与えたことは知ってる」
ステュクスは淡々と言った。やはり、神なのだ。知りうることは多く、私の父母のことも知っている。私の知りえないことも——そして、他人には分からないであろうことも。ステュクスは、その権能をもって、知っていた。
私は、ステュクスの言葉を信じる。
「つまり……母は、やはり、間接的にでも父に殺されたということですか」
「そういうこと。そこで質問よ、エレーニ。あなたは仇討ちを望む? 望むのであれば、あなたにも加護を与えるわ。私の巫女、私はあなたを特段贔屓する者よ」
悩むことではない。ためらうこともない。ましてや、遠慮さえしない。
私は即答した。
「お願いします。私が受けた苦難はかまいません、でも母が受けた苦痛は、よりにもよって夫たる父から与えられた絶望と死は、許せません」
母のために。祈りの届かなかった母、その母を邪魔して殺したのは父。たとえ二人のそれぞれ信じる神の争いの結果だとしても、父は母を死に追いやったのだ。
許せない。なぜ守るべき妻を殺した。なぜ私の母を死なせた。なぜのうのうと生きている。
その気持ちは、私の心の奥底から、溢れ出す。今まで忘れようと努めていた気持ちが、記憶が、噴き出す。目の前に復讐の手段を差し出された人間というのは、ここまで躊躇なくそれを受け取るのか。私は、そのことを当然であると実感していた。忘却の女神レテでさえも、私の気持ちと記憶は忘れ去らせられなかったようだ。
復讐が成るのなら、ステュクスの巫女にだって何にだってなる。その決意を、ステュクスは鷹揚に頷き、承諾した。
「分かった。ちょっと加減はできないけど、あなたには祝福を、あなたの敵には神罰を!」
私は、目を閉じた。指を重ね、祈りの手を、ステュクスへ捧げる。
高揚感に包まれ、私はまた意識を手放した。




