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第十五話 階段を昇っていく

 私は風呂から上がって、またメイドたちに取り囲まれてタオルで全身を拭かれた。足のつま先から頭のてっぺんまで、あっという間に乾いてしまった。新品の下着をつけて、綿のブラウスとキュロット、薄絹の巻きスカートに、金の装飾がついた亜麻の白いローブを羽織る。いつの間にか用意されていたものだが、どれも大人の女性用で、私には大きかった。身長も肩幅もウエストも合わない。メイドが慌ててベルトを持ってきて、ウエストのサイズと巻きスカートの長さは解決した。


 すでに着替え終わっていたサナシスは、私を見てこう言った。


「いいかエレーニ、今日は主神ステュクスの前で婚約を宣誓し、書類上は夫婦となる。挙式はまた後日だ、そのときが正式に夫婦になる日だと考えていい」

「では、私はその日までにレテ神殿へ向かって、主神ステュクスへの誓いの報告をいたします」

「ああ、そうしろ。分かっていると思うが、お前の扱いは俺の妻、王子の妃だ。決して、その身分に恥じぬ行動を心がけろ」


 そうまで言われては、私も頷くほかない。サナシスの怒りを買わぬよう、行動には気をつけなければならない。


 緊張してきた。これから婚約に向かうというのも、緊張をより増幅させる。


 すると、私の目の前に、サナシスの手が差し伸べられた。


「行くぞ。迷わないよう、いや、夫婦らしく手でも繋ぐぞ」

「……は、はい」


 私は、サナシスの手を取った。綺麗な手、そう思っていたら、人差し指と手のひらにペンダコがあった。地味に、政務に励んできた証がそこにある。そういえば、私を育ててくれた老修道女ヨルギアの手にもあった。若いころたくさん写本を作って、修道院で読むための本を溜めたと言っていたのを思い出す。


 サナシスの左手と私の右手が握られて、まだほんのり温かい手がくっついて、なんだか恥ずかしい。思っていたよりもずっと、サナシスは私のことを妻として扱ってくれている。多分、本来は、男性は妻となる女性を優しく扱うものだと思うけど——私が今まで見た夫である男性は、そんなことをしなかった。


 そう考えると、私は結婚というものをよく知らない。今まで見てきた夫婦というものは、どうやら普通ではないようだから、なおのことだ。


 うーん、と私が悩んでいると、いつの間にか王城とステュクス神殿の間の渡り廊下に辿り着いていた。天空にかかる、浮遊する広い石の階段。雲が真下に望める。すでにとても高いところで、ステュクス神殿、さらに天空に浮かぶ神殿の最奥、神域アルケ・ト・アペイロンへとずっと階段が続いている。何十段、何百段あるだろう。


 これを徒歩で昇るのか、と私が呆気に取られていると、サナシスは私の心を読んだかのようにこう言った。


「やってみれば分かるが、階段はそれほど昇らないぞ」

「え?」

「これがある」


 サナシスは懐から、黄金のステュクスの印を取り出した。


「ステュクス王族と神官長と巫女だけが持てる、階段をショートカットできる聖祭具だ」

「ああ、パナギオティス神官長も首から下げておられました」

「今日は俺しか持っていないから、手を繋いでいくぞ」


 そうして、私はサナシスに手を引かれ、一段一段、階段を昇っていく。


 そのはずだった。


「あ、あれ?」


 三段目を踏み出したとき、右足が段を踏まなかった。


 そのまま石畳に右足が着地する。サナシスに導かれて、そのまま進もうと顔を上げると、そこにはさっきとまるで違う景色が広がっていた。


 視界いっぱいの、芝生。しかし地面は球状で、空であるはずの天井の芝生にも人が歩いている。私のいる場所と天井の芝生の間には、白い光を発する小さな太陽のようなものがあり、その周囲を水が何筋も巡っている。


 幻想的で、不思議な光景だった。私はまたしても呆気に取られ、じっと上を向いていた。


 サナシスが笑う。


「初めて来たときは、そのような反応をするものだ。俺もそうだった」


 こちらだ、とサナシスは手を繋いだまま、私を先に見える石造りの建物へと導く。


 いくつもの柱とその周囲を巡る水路、奥には祭壇が見えた。簡素な作りだ、ただ大理石が横たわって、上に一枚の金細工の敷物と杯があるだけだ。主神ステュクスは飾り物を喜ばない、大河の女神は誓いと不死の水を与え、人間の魂を冥界へ送り届ける。人の恐れる死と密接に関わるがゆえに、様々な解釈がなされてきた。


「主神ステュクスは本来、人間の営みなどという些事に捉われない。だが、彼女の三千人もいる妹たち、八人の子供たちは人間に関わるあらゆるものを司る。だから、それらを統べるステュクスは主神とされているわけだ」

「はい、その話は聞いたことがあります。忘却の女神レテは極端ですが、オケアニデス教ではもっとも主神ステュクスに近い質素倹約を旨とする傾向にありますので」

「うん、まあやりすぎはよくないが」


 サナシスは何か言いたそうにしていたけど、咳払いを一つして、話題を変える。


「何が言いたいかというと、別に主神ステュクスは面倒な儀式を好まないから、祭壇の前で夫婦になると宣言するだけでいい。それで済む」

「簡単明瞭でいいと思います」

「俺もそう思う。好みは合うようで何よりだ」


 サナシスは嬉しそうだ、私も嬉しい。二人の間に、ほんの少しの共通点を見つけた。それが喜ばしいのだ。


 祭壇の前まで、私たちを遮るものはない。柱の間に立つ巫女たちが頭を下げて、年老いた女性の神官長が祭壇の横にいたくらいだ。


 サナシスは神官長に声をかける。


「婚約の宣誓に来た。すぐに済ませる」

「かしこまりました。では、どうぞ」

「ああ」


 すう、と息を吸って、祭壇へ向け、サナシスははっきりと誓いの言葉を口にする。


「主神ステュクス、神託のとおり、俺はエレーニを妻とする。以上だ」


 サナシスが私へ視線を送ってくる。同じようにしろ、ということだろう。私はサナシスの口上をそのまま真似た。


「主神ステュクス、神託のとおり、私はサナシスを夫といたします」


 何が起きるわけでもなく、天頂の白い太陽は輝く。幾筋もの水の流れは変わらない。


 これでいい。サナシスが隣で踵を返した。私もそれに続こうとする。


 そのとき、私はさあっと血の気が引いて、意識を失った。

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