第十三話 恥じらう暇はなかった
恥じらう暇はなかった。
大浴場前の更衣室でアサナシオス王子とメイドに囲まれ、私は身ぐるみを剥がされ、湯浴み用のチュニック一枚になった。ちなみにアサナシオス王子はパンツ一枚、鍛えてはいないようだけど均整の取れたすらりとした体つきをしている。
ウラノス公国では風呂に入る習慣はなかった。素肌を他人の目に晒すこともなければ、そもそも私は人里離れた修道院にいた身だ。ただただ、もはや恥ずかしいと思っている場合ではなかった。
「うぅ、どうしてこんなことに」
私の口から、弱音が漏れた。それをアサナシオス王子は聞き逃さなかった。
「どうもこうも、これから神殿に行くんだ。風呂に入るのは当たり前だろう」
「そ、そうなのですか」
「そうだ。慣れていないだろうから、手伝ってやる」
「王子御自ら、ですか? それはあまりにも畏れ多く」
「何を言う。妻の裸を余人に見せられるか」
アサナシオス王子は堂々と、そう言った。
どうやら、アサナシオス王子の中では、すでに私は妻であるようだった。
嬉しいやら、恥ずかしいやら、などと思っていると手を引かれて大浴場へ入っていく。王城でも高い位置にあるらしく、遮るもののない突き抜けた空が頭上に広がる。湯気が立ち上り、雲と混ざる。足元には部屋ほどの大きさもある湯船に、並々と湯が張られていた。
まず、入り口側にある洗浄のための小さな湯船に、私は足を浸けた。常に新しいお湯が循環し、温かく清潔に保たれる仕組みに感動さえする。縁に腰掛け、後ろでアサナシオス王子が床に膝を突いた。
「髪を洗うからじっとしていろ」
私は無言で頷いた。しかし、随分と髪は伸びていた。腰ほどもある。放ったらかしにしていたし、それほど栄養のあるものを食べていたわけではないから、アサナシオス王子が触るたびに軋む。
「エレーニ、今まで髪の手入れをしたことはあるのか?」
「申し訳ございません、そのような贅沢は許されておりませんでした」
「女が髪を整えることが贅沢? ああそうか、お前は修道女だったか」
「はい。忘却の女神レテに仕える修道女です、まだ」
修道院は通常、質素倹約を旨とするけど、その中でも女神レテに仕える修道院は特に倹約を極める。というよりも、極力他人と接触せず、限られた衣食住で生活を賄い、修行に邁進するものだから、そんな環境で成長期を迎えた私がきちんと発育するはずもない。
髪はぼさぼさ、肌は荒れてはいないが青白く、痩せぎすで女性らしい曲線はどこにもない。男性が触れたって楽しくないだろう。私だって楽しくない。でも、どうしようもなかったのだ。
「せっかくの金の髪が台無しだな。これからはきちんと手入れをしろ」
「はい……かしこまりました」
「お前はいくつだ?」
「十六でございます」
「十六? これで?」
「はい」
「十二、三歳かと思ったぞ……ちゃんと食事を摂っているのか? ああ、うん、そうだったな。これからいくらでも食べるといい」
「恐れ入ります」
そんな会話をしているうちに、髪が泡立てられ、花の香りが下りてくる。アサナシオス王子の指先がちょうど頭皮をもみほぐしてくれるものだから、湯で温められているせいもあって、何だか気持ちがよくなってきた。少なくとも、体が強張るほどの緊張はない。心は別として。
「エレーニ、かゆいところはないか?」
「ございません。とても気持ちがいいです」
「そうか。体は自分で洗えるか? 背中くらいは洗ってやるが」
「そこまでしていただかなくとも」
「嫌か? 俺がやりたいのだが」
「で、であれば、背中はお願いしてもよろしいでしょうか」
「うん、承知した。何、お前があまりにも痩せているから、自分で上手く洗えないのではないかと心配になる」
湯浴みのチュニックの上からでも、男性に体を触られるというのは初めての経験だ。ただ、アサナシオス王子はごく丁寧な手つきでスポンジを動かす。私は必死で、メレンゲほどもある石鹸の泡でスポンジを使って自分の体を擦る。普段は水に浸した布で拭くだけだから勝手が分からず、アサナシオス王子の真似をして、汚れを落とすように洗っていく。
とはいえ、だ。
「遅い。もういい、こちらを向け」
「えっ」
「大丈夫だ。どうせ泡で触ったかどうかも分からない」
痺れを切らしたアサナシオス王子は、有無を言わさず器用に私をくるくる回して、全身磨くように洗い上げていった。肝心な部分には触れなかったので、そこは何とか死守できた。
アサナシオス王子に全身くまなく洗い上げられて、髪を軽く結い上げられ、私は巨大な浴槽へ放り込まれ、お湯に肩まで浸かる。湯浴み用のチュニックに入った大きな気泡を出したりと手間取っているうちに、アサナシオス王子は少し離れたところにいた。
「俺も洗ってくるから待っていろ。熱くなりすぎたら出るように」
「はい」
そう命じられて、私はやっと一息ついて、空を見上げた。
外には、さらに高みにあるステュクス神殿だけが遠くに見える。まるで、天空の中にいるようだ。湯煙は高く舞い、時折入ってくる風は涼しい。つい先日まで、この透き通る青空の向こうにいたことなど、すっかり記憶の彼方だ。
花の蜜のような、石鹸のいい匂いが髪から香ってきた。こんな匂いを嗅ぐことも、今までなかった。遠い昔に母が香水をつけていたことを思い出す。そのくらいだ。朧げで、忘れようとしている記憶。何もかも、私は忘れてしまいたかった。忘却の女神レテは、どれほど祈っても完全に忘れさせてはくれなかったようだ。
ああ、世界は醜い。俗世は嫌いだ。私は誰とも接したくはなかった。
しかし、今この場は、天国のようだ。丁寧に磨かれ、丁寧に扱われ、アサナシオス王子は強引だけど私を妻として、少なくとも慣れていない風呂に入れるくらいの世話はしてくれている。
それだけでもういいのではないだろうか。このままここで暮らして、一宿一飯の恩義とばかりに、アサナシオス王子の妻役をする。別に本物の妻でなくともかまわない、アサナシオス王子は私を粗雑には扱わないだろうから、安心できる。
うん、そうしよう。それなら、私にもできそうだ。忘却の女神レテよ、私はあなたへの信仰など本当はなかったけど、ここですべて綺麗さっぱり失くします。あしからず。
そんなことを考えていると、私の隣にアサナシオス王子が来た。浴槽に浸かり、私の顔とごくごく近いところに、アサナシオス王子の美しい横顔がある。
「気分はどうだ。熱くはないか?」
「いえ、ちょうどいいです」
「主神ステュクスは綺麗好きだ、信者は毎日入浴することが推奨されている。とりあえず、神殿に行く際には必ず入浴するように」
「はい、かしこまりました。あの、アサナシオス王子殿下は」
「サナシスでいい。殿下も必要ない」
「では……サナシス様は」
私は、不安で溢れ出す心の中を、少しだけ吐き出す。
「私などと、結婚したくなかったのではありませんか」
聞くだけ無駄だと分かっていた。誰だって嫌だ、好きでもない人間と結婚するなどどうかしている。王侯貴族だって、契約結婚は同じ身分のある程度共通認識のある相手とする。それが、公女とはいえ修道女と、大国の王子だ。当然に、サナシスに私と結婚したいなどという気持ちがあるはずがないのだ。
それでも、私は不安を押し殺しきれなかった。口に出さずにはいられなかった。そのとおりだ、と否定されたかったのかもしれない。そう言ってもらったほうが楽だから、その言葉を待っていたのかもしれない。
しかし、サナシスはそんな言葉を使わなかった。
「お前は昨日まで顔も名前も知らない赤の他人と、今日いきなり夫婦になれと言われて納得するか?」
「いえ」
「そういうことだ。まず、知らなければ何も始まらない。お前を嫌うことも、お前を好きになることも、何もかもだ」
私はサナシスを見た。美しい横顔、空を見上げる明るい茶色の瞳、それは決して、今、不機嫌ではないようだった。
私を嫌っても好きでもない、そう言ってもらえて、私はどれだけ安心したことか。
ただサナシスは思い出したように、私へ向き直り、注文をつけた。
「あとお前は肉をしっかり食べろ。血色が悪すぎる」
「は、はい」
「毎日髪と肌の手入れをして、しっかり休め。結婚や妻がどうとか、そういう話はそれから考えろ。俺は少女趣味だと言われるつもりはないからな」
つまり、とサナシスはこう言う。
「ちゃんと淑女に育て。いいな?」
サナシスの目から見て、私はやはり、ちゃんと十六歳の淑女として育っていないらしい。
私は消え入りそうな声で、はい、と答えることしかできなかった。




