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第十話 善良さ

 ところ変わって、ステュクス王国。


 空に浮かぶステュクスの神殿の最奥、神域アルケ・ト・アペイロンを見上げる地上でもっとも高い建物、一つの山ほどの面積と大きさのあるステュクス王城の一室で、叱責の声が飛んでいた。


「遅い。貴公は戦場でもそのようにしているのか? それともここをどこであるか心得た上でのことか?」


 立ち尽くし赤面する一人の若い将軍に対し、さらに椅子に座った若い一人の青年が叱りつける。若いながらもいくつもの勲章をつけた軍服を着た将軍に対し、青年は白を基調とした詰襟の服に金の飾りと房のついたマントを羽織っている。青年の立場と権威を示す服装以上に、青年の怜悧な眼差しと凍りつかせたかのような美貌は、相対する者の肝を冷やさせる。


「スタヴロス将軍、貴公が調停したヘメラポリスとアンフィトリテの戦は終わっていないようだな?」

「はっ、面目次第もなく」

「まったくだ。貴公に任せた私の責任である」

「……まことに申し訳なく存じます、アサナシオス王子殿下」


 スタヴロスという将軍は、決して無能ではない。だが、結果を出せなければ、その職責を果たせなければ、何の意味があるというのか。アサナシオスと呼ばれた青年は怒りを滲ませる。


「両国の戦争は、あまりにも広く、長く続いてしまっている。だからこその和平調停の絶好の好機だったのだ。両国が少しでも調停のテーブルに着く気を起こしたその瞬間に、成果を上げられなかったとなれば……今後、大陸全土にどれほどの影響を及ぼすか。貴公ならば、ステュクス王国の名誉よりも、実利を掴み取ることができると信じたのだがな」


 アサナシオスの失望は、スタヴロスには十分すぎるほどに伝わっていた。スタヴロスとて比較的若く将軍の地位に就き、戦の天才として名を馳せてきた。しかし、上には上がいる。このステュクス王国の外交と政務を司る執政官として、アサナシオスは弱冠二十歳と若いながらも絶対的な手腕を発揮している。大陸各国の動きでさえ、彼は把握しているだろう。その上で手を打った、だがスタヴロスの失策までは見抜けなかった。


 となれば、アサナシオスはスタヴロスに責任を取らせるか? いや、そんなことはしない。


「下がっていい。貴公は次の任地へ向かう準備をしておけ。すぐに出ることとなるぞ」

「はっ……しかし、殿下、どうか私に挽回の機会をお与えいただけませんか」

「ああ、与えよう。当然だ、貴公はそれを望むからこそ、その地位にあるのだ」

「とおっしゃいますと?」

「何、若い将軍に野心がない、とは言わせないさ。次は調停などという退屈な仕事ではない、その才を存分に発揮できる戦場だ。存分に誉を掴み取ってくるがいい」


 アサナシオスはそう言ってスタヴロスへ発破をかける。先ほどまでの冷徹な顔はどこへやら、口角を上げて好戦的な顔つきになっていた。


 スタヴロスはその意図を汲み取り、胸に手を当てて一礼する。


「はっ! 必ずや、目覚ましい戦果を挙げてまいります!」


 分かりやすく、スタヴロスは汚名返上の機会に飛びついた。勢いよくアサナシオスの執務室から出ていく。


 隣室に控えていた、アサナシオスの秘書官イオエルがやってくる。アサナシオスとそう歳の変わらない青年イオエルは、メガネを押し上げて、スタヴロスの出ていった扉を見る。


「スタヴロス将軍は、もう少し政治というものを真面目に学ばれたほうがよろしいですね」

「そうだな。しかし、向いていないからといつまでもあてがわないわけにはいかない。今回のことは必要経費だったとしておこう」

「分かりました。後任にはどなたを選出しましょうか」

「ソフォクレス将軍を当てる。かの賢人ならきちんと後始末をしてくれるさ」

「承知いたしました。では、さっそく召喚状を出します」


 イオエルは手元のメモ帳に用件を書き入れ、踵を返そうとする。


 そこへ、思い出したようにアサナシオスがつぶやく。


「そういえば、あの神託の件はどうなった。結局、エレーニという娘は見つかったのか?」


 イオエルは振り向く。


「パナギオティス神官長御自らウラノス公国へ向かっています。やはり、気になりますか?」

「当然だ。俺だって形式上のことでも気に入らない女と結婚したくはない。見定める機会さえ与えられないというのは癪だ、いかにステュクスの神託であろうとな」


 ステュクス王国にとって、アサナシオスにとっては、神託で妻を決められるといういきなり降って湧いた話だ。まだ結婚を考えていなかったアサナシオスはできれば先延ばしにしたかったが、もたもたしているとややこしい話になりかねないから、さっさと神官長を派遣してまでエレーニの身柄を確保しようとしている。たとえば、神託の話を聞いた某国の貴族が先にエレーニに手を出したり、無理やり養子縁組をして人質のようにしてステュクス王国に何かをせびることだって考えられる。そうなれば戦争の火種ともなりかねないから、エレーニの身柄の確保と身の回りの警護体制の確立を急いでいるのだ。


「そもそも、俺はステュクスの神託は信じても、神官や巫女を信じているわけではない。やつらの偉そうな態度を改めさせたいところだが、神託の件でより増長しかねないだろう。だから成功させたくはない」

「とはいえ、振り回されるエレーニという娘も、かわいそうなものですね」

「……そうだな。俺ばかりではないか」


 アサナシオスはしゅんと、気炎を吐いていた口を閉じる。自分のことばかりを考えていた醜さを恥じていた。


 神託に振り回される、と怒っていても、始まらない。


「せめて、歓迎の用意をしなくてはな」

「では、そちらも手配を。お任せください」

「ああ、頼む。俺は女が喜ぶものが思いつかないから、何とかしておいてくれ」


 アサナシオスはイオエルにすべてを押し付け、政務に戻った。エレーニに対して、期待はしていないし不安もあるが、邪険にするという発想はなかった。それが王族らしくはない、この青年の善良さ、というものだろう。

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