葛藤
何かが焼ける臭いと雪音さんの荒い息遣い。そして、抱きしめられたままの僕。
雪音さんがナニかから身を挺して僕を守ってくれたのだと理解した。
焦って大声が出る。
「雪音さん! 雪音さん大丈夫ですか!?」
「はい…なんとか」
痛みに顔を引き攣らせながらも、なんとか返事をしてくれた。その事に安堵するも、言葉とは裏腹にかなり無理していそうだった。
「翔太くんこそ怪我はないですか?」
「はい…」
「そうですか。良かった」
泣きそうになった。
自分の方がよっぽど怪我をしてるというのに、こんな時まで僕の心配をして…
雪音さんは優しすぎる。その優しさ故、僕を物の怪から庇う度に自分自身が傷ついていって。雪音さんの体はもう…
『ミヅケダァァァァァァァァ』
突如として、地をも揺るがす咆哮が辺り一帯に響き渡った。
鼓膜が破れそうな爆音に体が強張り、全身に鳥肌が立つ。雪音さんがそれから守るように僕を少し強く抱き寄せた。
数秒間続いた咆哮は山彦を伴って徐々に小さくなり、辺りは再び静寂に戻る。
その後、雪音さんは直ぐに抱擁を解き、刀を引き抜いて僕の前に庇うようにして立った。その背中は服が大きく破れていて、赤く痛々しくなった肌が露わになっていた。
だが、それよりも目を引くものが僕の瞳に映り込んでいるのだ。
化け物
そう表現するにふさわしい二足歩行の醜悪な獸。まるで巨大な狼男のようだ。大きな顎に鉤爪、2メートル以上ある大きな体躯。今までの従属獸とは格が違った。そのギラギラした瞳に晒され、昨夜の感覚が蘇る。
「翔太くん、私が食い止めます! だから、その間に逃げてください」
「でも…」
「『でも』じゃ無いんです! ここで翔太くんを死なせる訳には行かないんです! 分かってください!」
「……」
「私も後から追いかけます。必ず合流しましょう! さぁ、早く!」
拳を強く強く握りしめる。
分かっている。逃げることが正しいのだと。ここで逃げなければ雪音さんのこれまでの行為そのものが無駄になってしまうのだと。分かっているからこそ何も言い返せない。本当は雪音さんだけ残して逃げたくない。でも、それを肯定できるだけの理由が見つからないし、僕がここに残っても足手纏いにしかならない事は自明の理。
だけど…だけど…
『ヴォォォォオオオオオオ』
再び獸が轟音のような咆哮を撒き散らす。
次の瞬間、僕は目を疑った。
空間が歪んでいくのだ。
獣をを中心として衝撃波のように高速で広がっていく。
「うわっ」
歪みが僕を通り過ぎる時だけふわっとした感覚に襲われ、すぐに元に戻った。目に映る景色も特段とした変化は見られない。一体何が起きたの?
「ま、魔結界…」
ポロッと呟いく雪音さん。手に持つ刀が微かに震えている。
「そんな…私は…私はなんの為に……」
雪音さんの言葉に何となく状況は察することが出来た。僕が考えあぐねている間に逃げられなくなってしまったのだと。そして何より、今まで弱音一つ吐かなかった雪音さんが動揺しているのだ。つまり、雪音さんですら対処できない事態という事…
まさに絶望的状況。その筈なのに、逃げられないと知ってホッとした自分が心の奥底にいるのだ……雪音さんが絶望に打ち拉がれているにも関わらず。
『オマエ コロス。オマエ コロス。オマエ コロス…』
獸は叫んだ後から呪詛のようにブツブツと同じ言葉を繰り返す…僕に向けて。
雪音さん自身も未だにショックから立ち直れていない。
その中で妙に客観的な自分が存在していた。
"僕が殺されればいい"
そんな歪んだ考えが先程から脳裏にチラつくのだ。
雪音さんは物の怪の標的は僕だと言っていた。つまり、標的である僕が物の怪に殺されればこの騒動は幕を閉じる。その上、雪音さんもこれ以上傷つかなくてすむ。どうせ逃げられないのなら、僕が死んでこの悲劇を終わらせる方が何千倍もマシだ。雪音さんが生きれるなら尚更。
だから、僕が死ねばいい。僕が死ねばいい。死ぬんだ。死ねる理由はある。なら、後は死ぬだけ。
目の前が霞んで行く。その中で獣だけはくっきりとしていた。
死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ……死ね タヒね、シネ、しね、氵ネ しね ネシ…
頭の中で起こり始めるゲシュタルト崩壊。
世界から生きることを否定されているかのように思考が黒一色に染まっていく。
そして、無意識に足が動こうとする。
だが、僕が歩くことはなかった。
歩こうと下瞬間、振り向いた雪音さんの泣き顔が僕の目に映ったのだ。
今度は頭が真っ白になった。
そして…
「翔太くん……ごめんなさい」
僕の肩を掴んで一言だけそう言い、僕を後ろに突き飛ばした。
僕の体が雪音さんから徐々に離れていく。
妙に動きがゆっくりだった。その刹那の時間の中で雪音さんの泣き顔だけが鮮明に脳へと焼きついていく。
ダメだ。
そう思い手を伸ばすも雪音さんに届かず、突き飛ばされた勢いのままたたらを踏むだけ。
『 オマエヲコロスゥゥーー 』
気づいた時には三度目の咆哮が響き渡り、僕の周囲には厚い氷の壁が覆っていた。
氷越しには、こちらに向かってくる二足歩行の獸。
それと…
「ダメです、そんなのダメです。出して、雪音さん。お願いします。出して。雪音さん」
氷の壁を叩いて必死に叫ぶ。だけど、それも虚しく雪音さんは立ち向かって行った。
誤字脱字、表現の誤り、矛盾点等がありましたら報告よろしくお願いします。
また次のお話でお会いしましょう。




