truth(前編)
街を覆う空がほんのりと日の出を予感させる色に変わる頃、ハッターはベッドから起き上がった。開襟シャツにカーディガン、細身のパンツに着替え、お馴染みのキャスケット帽子を被る。
リビングルームに降りるとソファにアリスの姿があった。ソファで寝ていた彼女は上体だけを起こしてソファの背に左肘を置き、窓の外を眺めている。その横顔はどことなく凛としていて、強い信念のようなものをハッターは感じた。ハッターの視線に気づき、アリスがこちらに向き直る。そして綺麗な唇に笑みを浮かべた。
「おはよう、ハッター」
「おはよう、アリス。ソファで申し訳なかったけど、よく眠れた?」
「ソファが良いって私が言ったのよ。何も申し訳なく思うことないわ。おかげさまでよく眠れたし」
そんなやり取りの合間にマーチヘアとドルマウスも起きてくる。
「俺達これから朝ごはん食べるけど、アリスも食べる?」
「ありがとう。いただきます」
アリスの返事を聞いたハッターはキッチンへと向かい、エプロンを身につけた。
「ちょっと待ってなにこれ美味しい・・・!」
アリスがスプーン片手に口元を手で押さえ、瞳を輝かせながらスープ皿を凝視している。テーブルには厚切りされたバタール、エッグスタンドに乗った半熟卵、新鮮なグリーンサラダ、彩り豊かなクリームシチュー、カットされた苺と林檎が並んでいる。
「うまいだろ?ハッターの作る料理は絶品だからな」
さも自分のことかのように自慢げにマーチヘアが話す。マーチヘアの言葉を聞いてアリスは慌ててハッターを見た。
「え、これ、みんなあなたが作ったの?」
「全部じゃない。バタールはマーチヘア、半熟卵と果物はドルマウス」
当の本人であるハッターはただ淡々と食事を進めている。
「パンだけは俺の方が得意なんだ。ハッターも充分上手いだけどな」
「私は簡単なお手伝いをしているだけです」
マーチヘアとドルマウスがそれぞれ半熟卵とグリーンサラダを口に運ぶ。アリスは高揚した顔のままもう一度クリームシチューに口をつけた。
「ほんっとうに美味しい。他のクリームシチューと何が違うの?」
「隠し味に少し味噌を入れてるんだ」
「そうなの!?だからこんなに深みがあって、甘味と塩気が絶妙なのね」
アリスはクリームシチューだけでなく、バタールも半熟卵もグリーンサラダも果物も一つ一つ味わい深そうに食べている。
「この後俺達は七時から店を開けるんだけど、アリスはどうする?」
「店?この下の?」
「そう、俺達『UNBIRTHDAY』っていう小料理店やってんだよ」
「そうなの。だからこんなに料理上手なのね」
マーチヘアの言葉にしみじみと納得しているアリスにハッターはバタールをちぎりながら視線を向けた。
「午前の部は朝食、ブランチ、昼食だから午後二時まで開店してるんだけど、それまでアリスはここで安静にして待ってる?それとも家に帰る?まだ安静にしていた方が良いから、急いでないなら無理して慌てて帰ることもないかと思うけど・・・」
「そうね。実はこの街での用事もまだ終わってないから、ご迷惑だとは思うけど、もうちょっと甘えさせてもらえると助かる」
「わかった。じゃあまかないはアリスの分も用意する」
ハッターの返事を聞いてアリスは満面の笑みでクリームシチューを頬張った。
「ありがとう!すっごく楽しみだわ」
「お待たせ、アリス」
ハッターが両手にパスタの乗った皿を持って店から二階へ上がってくると、リビングルームのソファに腰かけていたアリスがゆっくりと立ち上がった。
「ううん。ハッターこそおつかれさま」
マーチヘアから暇つぶしにと借りていた本をソファに置いて、アリスは右足を気遣いながらダイニングテーブルへと歩いてくる。アリスが椅子に座るとハッターはアリスの前に皿を置いた。皿の上には鮮やかなトマトソースをたっぷりと絡められたリガトーニパスタと茹でたブロッコリーやにんじん、ソテーしたエビが乗っている。
「美味しそう!」
「そういえば苦手なもの聞いてなかった。マリナーラソースなんだけど、トマトは平気?」
「大っ好きよ、大丈夫」
ハッターの後からマーチヘアとドルマウスもダイニングテーブルに着いた。全員揃ったと同時に食べ始めたアリスは「んー!美味しくてたまらんんんー!」と一通り悶えた後、ハッターに尋ねた。
「そういえば午前の部って言ってたけど、午後の部は何時からなの?」
「午後は六時から九時まで」
アリスの感動にさほど興味を示さずハッターは答えながらパスタを口に運ぶ。
「じゃあお昼ごはん終わったら休憩?」
「そうですね、午後の部の仕込みもしますけど、一時間半くらいは完全に自由だからお互い好きに過ごしてます」
アリスがくるりとドルマウスに向き直ると、彼女は丁寧に答えた。
「そうなんだ。みんな何するの?」
「俺は明日のクロワッサンの仕込み、終わったら読書」
「私も本を読んで、お昼寝します」
「俺はいつも行くところがあるから、そこに」
アリスの質問にマーチヘア、ドルマウス、ハッターの順で答え、アリスは「そっか、わかった」と頷いた。
昼食の後片づけを終え、ハッターは小さな紙袋を片手に抱えて家を出た。そしていつも通りの道を歩いて目的地を目指す。
ふと、ハッターは比較的人通りの少ない道で立ち止まった。そして前を向いたまま、後ろに問いかける。
「なんでついてくるの?」
ハッターの声に、さっきまで微かだった違和感がきちんとした存在感になってハッターの後ろに立った。
「尾行がバレるとは思わなかったわ。捻挫のせいでいつもより動きがぎこちないからかしら?」
「俺が聞いているのはそういうことじゃないんだけど」
ハッターが振り向くと、そこには悪戯っぽく微笑っているアリスが立っていた。
『どうしてついてきているのか』と改めてハッターが問おうと口を開いた瞬間、後ろから声をかけられた。
「ハッター、こんなところで何をしているんだい?」
声だけで誰かは認識できた。ハッターは振り返り、その人物の名を口にする。
「ハンプティ・・・」
そこにはさらさらとした淡い金色の髪と少し吊り上がった目尻に薄い緑色の瞳が印象的な青年が立っていた。
「こんなところで会えるなんてね。ちょっと用事があってでかけてたんだけど、思ったより時間がかかってしまってさ。でも君が来るまでに終わってよかったよ。せっかくだから一緒に行こう。ところで・・・」
整った口から流れるように言葉を紡ぎながらハッターの隣に並んだハンプティは改めてアリスを見た。
「初めて見る顔だけど、ハッターの友達かい?」
「友達じゃないけど、昨日怪我しているところを見つけてそれで・・・」
どちらに尋ねているともわからないハンプティの問いにハッターが答える。
「一時的に君が保護しているということだね。それで、今日は彼女も連れてくのかな?」
「俺はそんなつもりじゃないんだけど・・・」
「私が勝手についてきたことが今バレちゃったところよ」
ハッターとハンプティの会話にアリスがあっけらかんと説明を加える。
「ずいぶん悪びれなく言うんだね」
『面白い』といった表情でハンプティはアリスを一瞥した後、ハッターに笑いかけた。
「いいじゃないか。彼女もお連れしよう」
「ハンプティ?」
突然の提案に戸惑う様子のハッターを気にも留めずハンプティは続ける。
「毎日来てるんだから、たまには練習もいつもより軽め(・・)で(・)いいんじゃないか?」
「ハッターは毎日あなたのところで何か練習しているの?」
「そうだよ。君も来たいなら来るといい」
アリスの疑問に答えた後、ハンプティは笑顔でハッターに向き直った。
「ところで今日は何だい?ハッター」
「・・・ポットパイ」
この展開にいまひとつ納得できないでいるハッターの手から紙袋を受け取り、ハンプティは袋を開けて中から香ってくる食欲をそそる匂いを吸い込んだ。
「いいね。さぁ行こうか、こっちだよ」
アリスに道を示しつつ歩き出したハンプティはハッターにぽつりとつぶやいた。
「変に隠すよりやましくないところをきちんと見てもらっていた方がいいだろう?」
(やましくないところをきちんと、ね。なるほど)
ハンプティの言葉の意味をハッターは理解し、ようやく納得した。
「射撃場?」
ハッターとハンプティについてたどり着いた場所を見てアリスは怪訝そうな顔をした。
「そうだよ。ここは僕の運営する射撃場でね。お国公認の由緒正しい安全な射撃練習場さ」
ハンプティはアリスを後方へ案内しながら紙袋からポットパイを取り出した。どうやらここで食べるようだ。紙袋の中には丁寧にスプーンまで入っている。そんな二人をよそにハッターは一人静かに射撃の準備をしている。
「ハッターは毎日射撃の練習をしているの?」
「うん」
「どうして?」
「話す必要、ないと思う」
射撃の準備から視線を逸らすことなくハッターは答えた。そして準備が整うとハッターは右手で拳銃を構える。
・・・ガシャン!
突然マンターゲットが下から飛び上がってきた。その瞬間ハッターは引き金を引く。
パンパンパンッ!
ガシャン!
パンパパンッ!
目の前に広がる空間のあらゆるところから目にも止まらぬ速さで次々とマンターゲットが現れ、その瞬間にハッターの持つ拳銃は連続して破裂音を放つ。マンターゲットにできる銃痕を見て、アリスは思わずこくりと喉を鳴らした。
「・・・すごい。全部寸分の狂いもなく急所に当たってる。彼、すごく腕が良いのね」
圧倒されているアリスの後ろで椅子に座りポットパイを食べながらハンプティは相槌を打つ。
「そうだろう?悔しいけど拳銃はもう僕よりもうまいんじゃないかな」
「ふぅん。でも、彼の本当の実力はまだまだこんなものじゃないんでしょうね」
「・・・どういう意味かな?」
アリスの意味深な発言に思わず顔を上げたハンプティにアリスは薄く微笑んで言った。
「だって彼、左利きでしょう?」