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Under Wonderland  作者: 朝日奈 侑
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Hello, world!(前編)

 白壁とレンガ造りの建物が美しい街・メルベイユシティ。国の首都を担うその街は大きさもさることながら、全てが活気で満ち溢れていた。その中心部に近い一角、八百屋や肉屋、パン屋や花屋に仕立て屋がにぎやかに軒を連ね、多くの人や馬車、たまにガソリン自動車が行き交う大通りから枝のように伸びる細い路地の先にその店はある。濃淡様々なレンガに覆われ、木製の扉と窓枠は建物の古さを物語るものの、手入れは隅々にまで行き届いている。扉の上には『UNBIRTHDAY』と書かれた看板があり、あたりには明け方の爽やかな空気の中で食欲をそそる香りがほのかに漂っていた。

 ふと、ある初老男性が『UNBIRTHDAY』の扉の前に立った。上品な焦げ茶色のフランネル生地で作られたスーツに身を包み、同じ生地であしらわれたソフトハットの下には小さな丸眼鏡と豊かな口髭が見える。男性が扉を開けると小さなベルが控えめに鳴った。店内で他の客に食事を運んでいた青年がその音に気づき、にこやかに声を上げる。

「いらっしゃいませ。ようこそ『UNBIRTHDAY』へ」

食事を運び終えた青年は入り口に立つ男性のもとへ向かう。栗色の無造作なベリーショートの下に人懐っこい目が印象的である快活そうな青年だ。男性は帽子をとって青年に話しかけた。

「おはよう、マーチヘア。今日のスープは何かな?」

「おはようございます、マクドナルド教授。今日のスープはミネストローネです」

マーチヘアと呼ばれた青年はマクドナルド教授を扉から一番近い席へと案内しながら答えた。他の席はもうすでに他の客で埋め尽くされている。

「マフィンも焼いたので、エッグベネディクトも用意できますよ。それともいつものようにクロックムッシュにしますか?」

マーチヘアの返事にマクドナルド教授は楽しそうに悩む声を出しながら席につく。

「エッグベネディクトか、うまそうだな。クロックムッシュも捨てがたいが・・・よし、今日はそれをもらおう。ミネストローネもね。飲み物はいつも通りで」

「わかりました」

注文を承るとマーチヘアはきびきびと厨房へ向かった。途中別の席の客から追加注文の声があり、それにも笑顔で応じた後、厨房を覗き込む。そこには青年と少女が一人ずつ立って各々作業をしていた。

「ハッター、エッグベネディクト一つとパンケーキ一つ頼む」

厨房で忙しなく手を動かしていた青年が一瞬視線をマーチヘアに送り、再び手元に視線を戻して無表情のまま一言「わかった」と答えた。ハッターと呼ばれたその青年は薄いグレーのキャスケット帽を被り、白い開襟シャツと黒いエプロンを身に着けていた。帽子の下の髪は亜麻色で、その隙間に見える瞳は帽子の鍔が作る影でよく見えないが、それでも彼が眉目秀麗であることはうかがえた。

 ハッターに注文を通した後、マーチヘアは厨房に立つもう一人の人物に向き直った。前髪も含めて髪を顎のあたりで切りそろえたボブヘアの少女だ。髪の色も目の色もマーチヘアと同じである。

「ドルマウス、ミネストローネを二つよそってくれ」

「わかった」

ドルマウスと呼ばれた少女はさっそくスープの椀を手に取り、ミネストローネスープの入った大鍋の蓋を開ける。それを見てマーチヘアはマクドナルド教授のためにコーヒー豆をミルに入れた。



 時計は夜の十時を示していた。空には左側が少し欠けた月が浮かび、漂う雲の合間には星が輝いている。

「よし、じゃあちょっと行ってくるから。いつも言ってるけど、絶対誰か来ても開けるんじゃないぞ」

『CLOSED』のプレートを下げた扉から顔を出すドルマウスにマーチヘアはしっかりと言い聞かせていた。

「兄さん、いつも聞いてるから、よくわかってるわ」

マーチヘアの言葉に辟易している様子でドルマウスは頷いた。そのやりとりをマーチヘアの横で見ていたハッターが口を開く。

「マーチヘア、何度も言っているけど見回りには俺一人で行くよ。もともと俺の用事で見回りをしているんだから、大事な妹を置いてまで毎晩つきあってくれる必要ない」

淡々と言うハッターをマーチヘアは強い意志を宿した瞳で振り返った。

「あのな、俺は妹だけじゃなくておまえの心配もしてるんだよ。店には電話があるから万が一があれば警察に電話もできるけど、外にいるおまえは何かあっても連絡手段がないだろ」

「俺なら大丈夫だから、マーチヘアは家でドルマウスと待っていて」

「ハッター」

ふいにドルマウスがハッターの名を呼ぶ。

「私も大丈夫だよ。だから、兄さんと一緒に行ってきて」

「と、いうわけだから行こう。さっさと見回ろうぜ」

ハッターは何かを言いかけるように口を開いたが、すぐに諦めたようにため息をつき、改めてドルマウスを見た。

「気をつけて待ってて」

「うん。明日の仕込みをしておくわ」

「ありがとう。いってきます」

ドルマウスが扉の鍵を閉めた音を確認し、ハッターとマーチヘアは歩きだした。

 夜十時になるとほとんどの店は閉まっており、街灯と住宅の窓からの明かりだけになる。昼間と違って人通りも少ない。その中をハッターとマーチヘアは進む。

 ハッターは店を閉めると毎晩こうして街の見回りをしている。街でそういう当番や担当があるからというわけではなく、ハッターの個人的なある目的を持って見回りをしているのだ。しかし、夕方までは治安の良さを誇る街でも夜は男性といえ一人で出歩くには十分に用心が必要である。よってマーチヘアは遠慮するハッターに半ば強制的に同行しているのだ。

「本当に俺一人で大丈夫なのに」

ハッターは歩く先に目線を定めたまま小さくこぼした。それが耳に入ったマーチヘアは眉間に皺を寄せる。

「昨日まで大丈夫だったから今日も明日も大丈夫なんて保証はないだろ」

「そう思うならなおさらドルマウスの傍にいてやりなよ」

ハッターの言葉にマーチヘアはじれったそうに何かを言おうとしたが、思い止まって口を噤んだ。そしてハッター同様歩く方向に顔を戻す。ハッターはマーチヘアが何を言おうとしていたのか察したが、結局何も言われなかったのでそのままにした。

―――――だったらおまえも危ないから見回りやめろよ

彼が自分に言おうとしたことを頭の中で文字にする。そしてその言葉が正しいこともわかっていた。けれど、ハッターがある目的のために見回りをしていることをマーチヘアは知っている。そのため見回りをやめるよう強く言えない彼の優しさにハッターは都合良く鈍感なふりをしているだけなのだ。

(俺ってずるいな)

けれど、やめるわけにはいかない。この見回りが結果的に目的とは無関係だったと後でわかったとしても、少しでも何かをせずにはいられないのだ。



 しばらくあたりに注意を払いながら歩いていると、ふいに誰かの小さなうめき声と殴るような鈍い音がした。耳を澄ませるとどうやら少し先の狭い路地裏からのようである。ハッターとマーチヘアが足音を忍ばせつつ急いで向かうと、そこには大柄な男が足元にうずくまる誰かを棒のようなもので殴っているのが見えた。「この野郎!おまえのせいで!」というような罵声と痛々しい悲鳴が聞こえる。

 男が次に棒を大きく振り上げた時だった。ハッターは瞬時に男の背後に回り、男の持つ棒を右手で掴んだ。振り下ろそうとしたのに腕がビクとも動かないことに気づいた男は顔だけで後ろを振り返る。

「なんだおまえは?」

男はよほど怒りを持て余しているのか、誰もが怯みそうな形相だ。しかしハッターは特に表情を変えることなく男を見据える。

「あなたこそ何をしている?」

「あぁ?おまえには関係ねぇだろ」

棒を握る男の腕の血管が浮き上がる。それほど強く棒を握り、ハッターの手から放そうとしているのだろうが、棒はハッターに掴まれたまま微動だにしない。ハッターは淡々としたままだ。

「ただのよくある喧嘩ならわざわざ口出ししない。でもこれはもはや一方的な暴力だ。見過ごせない」

「うるっせぇな!じゃあおまえも消えろ!」

男はそう怒鳴ると棒を持っていない方の手でハッターに殴りかかろうとした。ハッターは一瞬の間に棒を放し、素早く身を屈めると右足で男の足を払った。ハッターを殴ろうとしていた勢いもあって男は派手に転ぶ。怒りのあまり言葉にならない声を口から吐き出しながら男はすぐさま立ち上がろうとしたが、次の瞬間目を見開いてピタリと動かなくなった。なぜならすでにハッターが男に跨ぐようにして立ち、男に拳銃を向けていたからだ。

「ちょっと聞きたいんだけど」

さっきまでの威勢が一変、冷や汗を流しながら青ざめているのが暗がりでもわかる男に向かってハッターは静かに尋ねた。

「『ジャバウォック』を知っている?」

「ジャ・・・なんだ?そんなの知らねぇよ!」

自分に拳銃を突きつけているハッターに恐れるあまり涙目で震えながら男は頭を横に振る。男の答えを聞いたハッターは目を伏せた。

「そう・・・じゃああなたも『はずれ』だね」

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