無垢な邪悪
実際に会ってみてから考える。一種の思考停止と取れなくもない選択だが、実際にあの子供が原因という根拠はない。だから現状とは一際関係のない残思かもしれない可能性がまだ残っている。
一際関係ない残思であれば協力関係を結べれば上々。仮にこの騒動の元凶だとしてもあちらから来いと言っているのだ。問答無用で何かされることはほぼないと和寛は考える。
理由として、最初のあれは逃げてきた生徒が連れてきてしまったというだけの話であり、最初から何かをするつもりであれば物量にものを言わせた人海戦術で簡単に終わっていたわけだから、少なくともあちらに敵対的な意思はないと、和寛はそう信じたかったのだ。勿論今のところは、と付くのだが。
さて、それで放送室へ行くことが和寛の中で決まったわけなのだが、早速一つ、問題が浮上した。二階廊下にはもう誰も居ないということは、チラリと和寛が顔を覗かせて確認済みではあるのだが、階段下から響くように聴こえるその歌声が両手では足りない数となっているのだ。
「放送室って。あっ、先輩さっきので誰か助けを待ってる人が居るとか思ったりしたんですか」
「助け、まぁそういうことになるかも……だな」
昂は放送室に救助を待つ誰かが居ると考えたのだろう。だが言っていることに間違いはない。和寛の行動が結果的に助けとなるかもしれないからだ。
残思をどうにかして、それで歌っている彼等が助かる保証はない。恐らく思考は元に戻るかもしれないが目は潰れたままだろう。もしかしたら何も変わらず彼等は彼等として在り続けるのかもしれない。そうなればどうすればいいだろうかと。あの少女に助けを求めるのが一番手っ取り早いのかもしれない。だが素直に助けてくれるとは和寛には到底思えない。何かしら要求されることだろう。
一言で言ってしまえば今の和寛の思考は暗いものに捕らわれていた。ネガティブな、後ろ向きな考え方。堅実な安全策を探している、念には念を、耳障りの良い言葉は探せばいくらだって見つかるだろう。だが事実を言ってしまえば怖いのだ。こうなるかもと知ってはいた。けれど覚悟が未だに固まらない。
「なぁ山下君、例えばの話だ」
だからだろうか、何も知らない年下の彼に和寛はこんな話をする。
「子供が君を殺そうとする。殺さなければ殺される状況、周りは誰も、何も咎めることはない」
「なんですかその特殊すぎる状況っ!?」
「例えばだって。……それで君はどうする?」
「どうって」
「その子供を殺すか、その子供に殺されるか」
一つの、これから起きるかもしれない可能性。いくつもの枝分かれした未来にはそうならない現実があるのかもしれない。けれどだからこそ今の和寛は他人からの意見を聞きたかった。
「そりゃあ殺しますよ。死にたくありませんし」
なんてことないような顔で、当然のように彼はそう答えた。つい先程までの静寂とは違う空気が辺りを包む。きっとそれに耐えられなかったのだろう。すぐさま昂は捕捉するように付け加える。
「って言ってもあれですよ? 殺さないと死ぬような状況だったらそうするってだけで好きで殺したいわけじゃないですからね! そこ勘違いしないでくださいよ!」
つまりできる限りお互いが生存する努力はする。駄目だったら仕方ない。ということらしい。自分の考えがずれているのか彼の考えがおかしいのか悩む和寛ではあったが、不思議と覚悟は決まってきた。
両方が助かる努力をする。死ぬかもしれない綱渡りではあるものの、殺すか殺されるかの殺伐とした二択以外があるというのは和寛にとって落ち着きが保てる。
「それで? その質問に意味はあるんですか?」
「言ったろ例えばって、特に意味はないよ」
──────────『─』───────。
何か……和寛は今何かに気づきそうになった。知っているはずのものを思い出せないような違和感が頭の中を駆け巡る。だが、気のせいだったのかもしれない。これといって何か思い付いたことはなく、思い出したこともない。そもそも何を気づこうとしたのかすらも分からない。
「……? どうしたんですか?」
「いや何でもない」
一瞬他の考えで緩みかけそうになった気持ちを和寛は引き締める。やることは変わらないのだ。会って話してこの状況を終わらせる。無事話し合いで解決できれば良し、駄目だったら……最後の手段としてナイフで刺す。大丈夫だと和寛は自分に言い聞かせる。ナイフのような形をしているだけだ。殺すわけではない。全て上手くいく、と。
「うっし、行くか」
「はい、てか本当に行くんですか。冗談とかではなく?」
「強制はしない。残っててもいいぞ」
なんと答えるのか大体予想がついている上で和寛は笑みを浮かべてそう言った。当然、予想の通り苦々しい顔を作った昂は答える。
「独りは精神の方がやられますんで……はぁ嫌だなぁ」
もう一緒に行動する必要はないかもしれない相手。残思の見えない彼は足手まといになるかもしれない。けれど一度助けてしまったから。だから最後まで、せめて今の問題を乗り切るまでは助け合おうと和寛は考える。助けた責任、けじめとも言うだろうか。ともかく最も自分が納得できる行動を和寛は選んだ。
放送室は今和寛達が居る場所の隣の校舎にあるわけだが、その道中には当たり前のように狂気が蔓延っていた。故に放送室に辿り着くまで会話をすることはなく、かつ物音を立てないような目立ちにくい地味な移動が続いた。
まぁ途中丁字の廊下で狂気にぶつかりそうになる冷や汗ものの体験をしたり、スパイ物のような忍び歩きで狂気の横を通りすぎる場面があったりしたわけだけれど、何の問題もなく二人は放送室前まで来ることができた。
「まだ心臓がうるさいです」
「四方八方から声が聴こえるとさ、一つの声との距離感覚が分かりづらくなるんだな。急いでたってのもあるんだろうけど」
誰も獅子の檻に長居したいとは思わない。それと同じく、早く安全そうな場所まで行きたい。早く目的の場所に辿り着きたい。そんな心が注意力を散漫させていた。
結果として何事もなかったからこそ二人は軽い出来事のように感じているが、文字通り一歩間違っていれば結果は違ったかもしれない。そのことに彼らの心拍は上がっていた。
今こうして和寛達が喋っているのは周囲に誰の姿もないからだ。偶然なのか配慮なのか、どちらにせよ余計な邪魔がないここで落ち着くことはできた。もう覚悟も決めた。だから目の前の取っ手に手を掛けた。
そこに歌う者は居なかった。居るのはたった一人だけ。たった一人の白いワンピースを着た女の子だけが椅子に座って来るか来ないかも分からない友達を待っていた。
いや、よくよく目を走らせてみれば、放送室から繋がる隣部屋、様々な機材を片付けておくそこの扉が僅かに開いている。そして小さく点々と赤い印がそちらに向かってついていた。耳を澄ませば気のせいで済んでしまうような複数人の息遣いがそちらから小さく聴こえる。
その光景を目にした和寛と昂は別々のことに驚く。
まず気のせいを気のせいで片付けた昂はそこに誰も居ないことに驚いた。生徒、少なくとも一般人が居ないにしても誰かしら居ると思っていたからだ。思い出してもみればあれだけ居た狂気達はこの付近には誰一人として見掛けなかった。少なくとも何処かしらで声は聴こえていたはずなのにここはやけにうるさくない。異様な静けさが却って心地悪さを誘う。
次に和寛はその子供を見て驚いた。容姿は想像していたような、年齢が二桁にも満たなさそうではあるものの別にそれに驚いたわけではない。目元を覆う灰の色をした布は、確かに目の前の少女がつけるには異色と呼べるものではあるがそれに驚いたわけでもない。
ただ一つ、その異常な少女を見ていると形容しづらいほどの孤独感が心を苛むのだ。蝕むと言ってもいい。死に際に誰も居ない終わりを迎えるかのような、冷たい孤独。我慢できないものではないが常に感じていたいようなものではない。
「ふふ、本当に居たんだ。ねぇねぇ二人居るようだけどどっちが私とお友達になってくれるの?」
どちらか一人が前提の質問。もしかしたら二人とも残思が見えているかもしれないのに、少女は一人だけという確信を持って聞いている。それがどういった意味を成すのか、今の和寛にそこまで考えられる余裕は無かった。
「先輩、なんかここおかし──」
「山下君、一つ頼み事していい?」
「はぁ、なんでしょう?」
ハッキリとは言えない不鮮明な異常さを昂は伝えようとした。ハッキリとは言えないのだから具体的に何がおかしいとかは分からない。杞憂、気のせい、なんとなく居心地の悪さを感じてそれを和寛に伝えようとした。けれどそれは和寛の頼みで遮られた。
「少しの間、外で見張りをしてくれないかな? ここ出口がその扉しかないからそっちから誰か来たら逃げられないんだ。二人一緒に袋小路よりも一人が逃げ道確保していた方が安全だと思ってさ」
「いいですけど、でもその間先輩は何をするんです?」
「あっちの部屋も探そうかと思って。あっちの部屋の出入り口、廊下側は色んな機材の入った段ボールが塞いじゃってて出られないんだ。それでさっきの頼み事をしたの」
隣の部屋へ繋がる扉を指差して、即興の作り話を混ぜながら和寛は昂を説得する。ここから先何が起こるのかも分からない中で残思の見えない彼はあまりにも不利である。初めから連れて来なければ良かったとしても、付いて来させない理由が思い浮かばなかった。そもそもそれを言い出すのであれば初めから助けなければ良かっただけの話だ。しかし現実として助けてしまった。ならば現状最も安全な方法を取るのが最善だろう。
「分かりました。んじゃ誰か来たら小声で呼びますね」
そう言って昂が廊下に出ていくのを確認した和寛は少女の近くまで寄っていく。廊下に出たといっても放送室と廊下との扉は開いている。すぐ逃げられるようにということだ。故にここで話していたら昂にも要らない会話、この場合独り言になるのだが、それが聞こえてしまう。だから少女の近くまで寄った和寛は少女に話し掛けられて小声で返す。
「あなたがお友達になってくれるの?」
「隣の部屋で話したい」
「あぁ……やっぱり見えてるんだ。私の声が聞こえてるんだ。うん行こ、いっぱいお話しよう」
和寛は少女と共に隣の部屋へ消えていく。その姿を昂は目の端に入れていた。当然残思は見えていないのだが、少々不自然な和寛の姿がどうにも気になっていたからだ。その手を伸ばした姿はまるで誰かの手を握って一緒に歩いているかのような違和感。しかしそれはすぐに扉の向こうへと消えていく。目に映っていたのは確かに和寛一人だけだ。きっとそう見えただけの錯覚のようなものだろうと、昂は再び廊下へと注意を向けた。
~妄想~
見えていた場合の昂「事案ですね」
黒幕的謎多き少女「事案だね!」
見えていた場合の昂「通報しますか」
黒幕的謎多き少女「ちょっと警察の脳を弄ってくる」
警察「飛び火が熱い」
~現実~
見えていない昂「?」
黒幕的謎多き少女「ニヤニヤ」
警察「ァアアアアッ!!」