盲目なる
足音が完全に消えたことを確認して、二人は殺していた分の吐息を漏らす。それで幾分か緊張感やら恐怖心が和らいだ。
「た、助かった~」
ある程度状況を知っている和寛とは違い、いきなりに現れた不審者が周囲の人間をおかしくさせた現場を目撃したはずの男子生徒。しかし床には普通に血が広がっているにも関わらず存外余裕そうな様子で今まで出せなかった言葉を口にする。きっとその余裕は和寛が何かしら知っていそうだからという不鮮明な希望によるものだろう。
不鮮明で不明確だからこそ希望が持てる。仮に事実を知ってしまったとして、まぁ今の状況が変わることはない。その場合仲間を得ることができたと彼は喜ぶことだろう。
突如として現れた災害は嵐のように過ぎ去った。その過程でなんとか助けられた一人の男子生徒は和寛とは別クラスのようで顔に見覚えもなく名前が分からない。だから和寛は挨拶ついでに聞くことにした。
「えっと、取り敢えず名前を聞いておきたい。俺は伊藤和寛、よろしくな」
「あ、はい。俺、山下昂って言います!」
二人とも面識はないが二人の知っている共通人物は存在する。学校の教師だとかを除いて一人、未だに名前の分からないあの少女である。と、言っても昂自身はあの日の出来事を思い出すことはできない。そもそもあの夢の記憶は少女の手によって消去されている。忘れていることを忘れている、知っていることを知らないレベルでだ。思い出せと言う方が酷な話である。
つまり山下昂は非日常的な不思議体験をするのが実質今日が初めてということでとても緊張している。その事を和寛は凄く緊張しているとしか知ることができないのだから、世の中はこうして複雑にできているんだねと後に何処かでニヤニヤしながら眺めていた少女は思ったという。
山下昂が言うに彼は今年入った一年生、つまり彼は和寛にとっての後輩なのだと語る。どうりで見たこともないはずだと和寛は納得し、一学期も終わらないうちに災難だったなと他人事のように同情する。
「そう言えばあれ何なんです?静寂がなんたら~って」
「うん?いや俺もよく知らないんだけど今朝机の中にあって」
嘘は言っていない和寛。その手に持っていた静かにしてたら助かるよ!あれの仲間になっちゃったら元に戻ることはできないよ!と言いたいだけの紙。もう持っていても仕方のないそれを、和寛は彼にあげても問題ないだろうということで昂に手渡す。
「うー、んと、この彼等って」
「十中八九さっきの集団だろうな」
「ですよね。つまり静かにしてたら目は潰されないと」
「あの様子じゃあ全く目が見えてないみたいだったからな」
「そうですね……ちなみに先輩この後どうします?」
「どうって?」
ナチュラルに先輩呼びする昂だがそれに関して和寛が何か言うことはない。それは先輩と慕われるのが存外悪くないと感じたからなのだが、和寛が一つ文句を言うのだとしたらできれば男からではなく女子から呼ばれたかったということくらいだろうか。
「いえ、俺めっちゃ非力なので寄生と言いますか、守ってもらおうかなと。なので必然と俺の行動は先輩の判断で変わるんです」
「……助けなきゃ良かったと今割りと本気で思いかけた」
「ちょっ、そういうのは思っても口にしないでくださいよ!」
旅は道連れ世は情け。そうは言うものの、邪魔にしかならなくとも、和寛は居るだけ心強い他者を突き放すことはしなかった。
今回の問題解決と定義する点はここから逃げることではない。ここであの集団を放置して逃げたとする。その後平穏無事が約束されるかと言えば否である。あれは誰か一人を狙っているのではなく一定条件下の無差別攻撃のようなものだと和寛は予想する。声を、音を、とにかく彼等の耳に入るような行動をすれば襲われる。また彼等は何かしらの目的で動いている。つまり一ヶ所に留まっている保証がないのだ。
これらを含めて和寛はもう一度考える。このままあの集団を放置して逃げたら、どうなるだろうか。もしかしたら行動範囲も集団人数も増えていくかもしれない。いや間違いなくそうなることだろう。つまり問題解決とするには、生き残る為には、残思をどうにかしなければならない。
「ところでどうやって逃げます?」
「逃げ道がないことくらいは分かってるよな?」
「はい、なので聞いたんです。どうやって逃げましょうかと」
唐突ではあるのだがここの教室の窓からは校門を見ることができる。昂がこんなことを言い出す理由もそこにあり、二人は思案をより強固なものとする為に窓から現実を見下ろした。
窓から飛び下りた生徒達は確かに校舎からは脱け出せた。だが誰も学校から脱出したとはいっていない。そう、逃げ道である校門付近で待ち伏せされていたのだ。いやただそこをうろついていただけなのかもしれないが、とにかく逃げ切れたという喜びを、未だ恐怖に駆られる叫びを、生徒達が発したところに狂気がいたのだ。その狂気の中に教師の一人だった者が含まれていたことも大きく関係し、逃げ切ったと思い込んでいた生徒は再び現実を知ることとなったのだ。
そして現在から少し前まではその生徒の大半を含めた狂気達が校門付近をうろついていた。それを異常に気がついた付近の住民が通報でもしたのだろう。多くのサイレンと警察のものと思われるスピーカーの声が聴こえ始める。だが結果として今現在、校門やグラウンドを彷徨する狂気が増えただけだった。
あれに気づかれるような音を立てては駄目ということは現状和寛等は分かっているが、触れてセーフなのかアウトなのかが分かっていない。もしアウトなら外に出ることは困難を極めるだろう。故に山下昂はどうしようかと聞いたのだ。
「警察が助けてくれると思って籠っていたのにあいつらと同じになっちゃいましたし、俺達助かるんですかね」
「やれることやって、駄目だったら籠城して助けを待つ。今取れる選択肢はこれくらいのものだろうな」
「やれることってなんです?」
「んーと、まずこれ何だか分かるか?」
「……何かのハンドサイン?もしくは棒状の何かを持ってる手の形……それがどうしたんです?」
和寛が懐から取り出して持っているものは、昨日少女から受け取った布に巻かれているナイフである。材料が残思だからだろう。そして布もそうらしい。昂はこれを認識することができなかった。つまり、山下昂は残思を見ることができないのである。
「分かってないなら好都合だ。ちょっと手伝ってほしいことが」
残思を見ることができない昂、残思を見ることができる和寛。その違いを利用してこれから昂を使い騒動の切っ掛けであろう残思を探しだそうとした和寛。外の様子だと救助は当分先になりそうではあるが、だからこそ時間の掛かるだろうことをしておきたい。せめて残思がどんな姿なのかを知っておきたいと和寛は昂に協力を持ち掛けようとする。だがそれは予想だにしない音で途切れさせられることとなった。
──ピンポンパンポーン。
どこか気の抜けた、現状にそぐわない音が校舎中に響き渡る。和寛達にとっての日常的なそれは、しかし今鳴るにはあまりにも不気味だと言わざるを得なかった。
そしてその音はぶつかった拍子に間違って放送ボタンが押されたとかではなく、誰かが意図的に放送を始めたことを意味していた。
「……これで放送されてるの?そう、ありがとう」
少しマイクから離れているのだろう、小さな声が聴こえる。声は意外にも幼い、聞いて分かるほどだ。和寛はマイクの前に居るのが大体十歳前後の子供なのではないかと想像できた。そして少なくとも誰か二人居るらしい、他者に話し掛けるような言葉がした。
「んん……私は、私と友達になってくれる人がここにいると聞いてここに来ました。私は友達がどんな人なのか知りません。だから私はここで待ってます。友達を待ってます」
淡々と述べようとしている言葉と、少し力を込めたような喋り方。小学校の時の運動会、その選手宣誓を思い出させるそれは短く、次の言葉で締め括られた。
「……ふぅ、緊張し、えっ!?まだ放送されてるの!?切って切っ……」
いやこれを締め括るとは言わないだろう。どちらかというと緩めたような終わり方だった。けれども最後が決まらなかったとは言え、終わりは終わりだ。スピーカーからはもう何も聴くことができない。
如何にも子供らしいというか、微笑ましい放送ではあったのだが、和寛にとっては一際笑える要素がなかった。
「えっと、なんだったんでしょうかね、あれ。誰も話していませんでしたよね?」
山下昂はあの子供の声を聴くことができていなかったのである。認識できていなかった。詰まるところ、それが残思であるという証明であり、高い確率であの子供がこの騒動の原因であるということにもなる。
(だから、それは、つまり)
耳に残るあの声は、本当に聞いているだけで子供の声だと分かる声変わりを迎えていない声。実際に相対してみれば傷つけることすら躊躇われる幼い容姿なのかもしれない。
──忌避感があるのかい?
──襲われそうになったらそれで刺せばいい。
──あまり難しく考える必要はないよ。
和寛の頭に浮かべられる怪物の言葉は次第と悪意に滲んでいく。気楽な助言だったはずのそれは心を潰す重りとなる。
あまりにも分かりやすい極悪非道が似合う悪役。そんな何かが相手だったらどれほど良かっただろうかと、そんな何かだったらどれだけ悩まずに済むのだろうかと、和寛は苦悩する。殺される可能性は低いだろう。皆無に近いかもしれない。だって未だこの学校には残思に殺された者は居ないのだから。
今、放送室で待っているであろう残思は何を友達と呼ぶのだろうか、誘いを断れば何をしてくるのだろうか、そんな不安が波となって和寛の心に押し寄せる。しかし何も分からないところでいくら考えたって意味もなく、何を考えたって結局は同じ思いに辿り着く。
「ん?どこ行くんです?」
「放送室」
昂の問いに短く、簡潔に返す和寛。つまり、結局のところ会ってみないことには終わりも始まらないのである。