切り替わった日常
日曜日、あれから何かあったわけでもなく、和寛は普通に家でゴロゴロと過ごして一日を終わらせた。夢でも見ていたかのような現実味のない現実に、貰ったナイフが色濃く存在感を放つ。
なんとなく少女を信用できなかった和寛だが念のためそのナイフは常に懐にしまっておくことにした。
次の日、並の男子高校生である和寛は、当然自らが通う高校へと登校する。当たり前だろう。誰が信じると思うだろうか。残思とかいう怪物に命を狙われるかもしれないから休みます、なんて。
仮病を使うにしてもこれから先ずっとそうして休むのかと言われれば無理だろう。根本的な問題解決にはならない。むしろ自宅に籠っているからといって絶対安全だと言い切れる保証もない。現にあの少女は不法侵入を成功させたわけだから却って危ないかもしれない。
要は車と同じだ。道路からこちらに突っ込んで来る可能性がないわけではないが、一々そんなことを気にしていたら切りがない。だから和寛は普段通りに家を出た。
(見える世界が違うって言葉をそのまま使う日が来るなんてなぁ)
青空には白い雲。それ以外は稀に飛行機が飛んでいる程度の真上の景色には今、黒い翼を広げ優雅に飛んでいるカラスの姿があった。別にカラス自体が珍しいとかではなく、その大きさがふざけていて和寛は目を奪われていたのだ。
遠近法が狂うと表現するのが適切なのだろう。飛行機を鉄の鳥と言うのならアレは黒い鳥だ。いやカラスは黒い鳥なのだが、つまり飛行機と見紛うほどに大きかったのだ。
また和寛が少し歩いていると二足歩行の猫とすれ違ったり、見た目は犬そのままの残思が「おい、見えてるよな?今バッチし目ぇあったよな?」と日本語を流暢に使いながら後を付けてきたり、五分ほど無視をしていると「勘違いか……わりぃな」と言って帰っていったり、その後その言葉も無視をすると後ろから舌打ちが聞こえたり、そのことで和寛は軽い恐怖を覚えたり。
見えなかっただけでこれだけの残思が居たのかと和寛は素直に驚いた。と、同時に今まで少し広く感じていた日常が賑やかというか狭くなったというか、なんとなく丁度いい割合になったように感じた。まぁ目を向けたら駄目だと、和寛の本能が囁く類いの人間のような残思も居たには居たので、多少不便になったのは間違いない。
高校、南校舎の二階にある教室につくと何やら普段よりもクラスメイトが騒がしい様子。一体何を騒いでいるのかと和寛は自分の席へ足を進める。挨拶をされればオウム返しをする和寛だが、されなければ挨拶なんてしない。誰も彼もが会話をしている今、誰かに挨拶をしようものなら話の邪魔すんじゃねーよ、みたいな顔をされて挨拶が返ってくるのだ。そこまでして話し掛けるくらいなら黙っていた方がお互い楽というもの。
生憎と複数人の会話を同時に聴けるほど器用ではない和寛は、擬音で言うところの『ざわざわ』といった教室の中で、さっさと手慣れた動きでリュックから教科書などを机に移し変えていく。
するとなぜか机の中に残っていたらしいプリントか何かを潰してしまったようだ。紙独特のクシャッという音が手に伝わった。しかし和寛はプリント類は全てファイルに纏めていたと記憶しており、金曜日を休んだ覚えはなかった。だからこそ紙を潰した感触が伝わった時、やっちゃった……ではなく、なぜ?となったのだ。
そうして不思議がりながら机の中のものを取ってみれば、それはプリントでも、況してや学校に関係のあるものでもなかった。
手書きのメモ用紙、それには何処かで見たことのある筆跡でこう書かれていた。
『静寂が明かりを手にし、反するは日を落とす。彼等は元には戻らない』
この書き方に和寛は見覚えがあった。そう、夢の中で三段目の引き出しから見つけた紙や暗い部屋の絵本。あれらもこれと同じような言い回しをしていたはずだと思い出す。ならこれはあの少女からのメッセージか何かだろうか?と考えるが、それにしては遠回しな伝え方だと疑問が残る。
同じような言い回し、何処かあの夢の中と同じように楽しんでいるような感じがしてならない和寛だが、その真意を測りかねていた。
それで考えを切り替えようとメモ用紙から目を離せば、同級生が騒いでいる理由も自ずと理解することができた。彼等彼女等もまた同じ紙が机の中に入っていたらしい。一人、二人なら誰かのイタズラで済んでいた話が全員分となったことで犯人探しをしているらしい。当然くだらないと本を読む生徒も居るし、中にはこれは一種の謎解きなのではないかと文章の意味を考えている同級生もいる。
ちなみに和寛はこの犯人探しの容疑者から外されていた。理由としては今日の登校時間もクラスメイトが半数以上揃った頃にやって来たということ、部活をしていない和寛が休日に学校来るという不自然な姿を誰も目撃していないということ、そして和寛にこんな大それたことができる程の度胸なんてないということ。以上のことから和寛が犯人の可能性は薄いと本人に何か聞くまでもなく容疑者から外されたのだ。
まぁ和寛にとっても犯人を知らないと嘘をつく面倒が減って万々歳であるのだから問題はないが、強いて何かあるとするならばなぜこのような紙があったのか。それが気掛かりとなり和寛の頭を悩ませていた。
とても嫌な可能性を考えながら和寛はその紙を折り畳んでポケットに入れる。きっとこれも無意味ではないはずだからと。
「先生遅いねー」
教室の端っこ、廊下側の席に座る女子グループの一人が発した言葉を和寛は耳にする。というよりも、時間からして普段はもう朝礼が始まって少し経つような時間帯であり、他が静かにしているから自然と誰かが喋れば耳に入ってしまうのだ。
だから今教室内で聴こえる音は、両隣のクラスから教師の声と、そして堂々と話す女子グループの会話、あとは小声がチラホラくらいのものである。
すると待つことに耐えかねたのか一人の生徒が席を立つ。歩いて向かっているのは廊下へ出るための扉。
「ん?雄二君どこに行くの?」
「ちょっと職員室に、また長岡先生が時間間違えて動いてるかもしれないし」
「あ!ありそう~、行ってらっしゃーい」
廊下へ出ていく生徒はこのクラスの学級委員長。なんというか、学級委員長という肩書きは真面目な人間を呼ぶらしく、和寛は今までの人生で適当な仕事をする委員長というものを見たことがない。しかし、それが肩書きに縛られての印象なのか本人自身の印象なのかはまた別の話ではあるのだけれど。
そんなわけで一人、教室から居なくなった。今日は欠席者が居らず皆揃っており、普段の教室と比べれば居ない者は委員長と担任の長岡だけである。
そんな事実に和寛は言いようのない不安を感じた。いつもとは少し違う状況、確かに長岡と呼ばれる教師は時たま授業等に遅刻する。だがそれは数ヵ月に一度あるかないかで、誰かが職員室に見に行くほど遅れるなんてことは今までに一度もなかったことだ。
悪い予感がすると、今すぐここから逃げ出したいと、胃が締め付けられるような気分に和寛はただ耐える。まだ杞憂で終わる可能性だってあるはずだと、己に言い聞かせる。だから和寛はクラスメイト同様に委員長が担任を連れてくることを待った。いや、和寛の場合は待つというよりも、どちらかと言うと祈っているような感じではあったが。だがその祈りが、願いが、叶うようなことはなかった。
突然に鳴り響く校内放送にて、教室中に、校舎中に流れる教師の声。「これは訓練ではありません。北校舎内に不審者が侵入しました」と、あとは避難訓練と似たような内容で「落ち着いて避難してください」と、そう呼び掛ける言葉を繰り返し校内に響かせていた。
「不審者は複数います。生徒は近くの教師に従って避難してくださ……ぁえ?あ、ァアアアッ!」
ざわめき戸惑う生徒達だったが、その放送が戸惑うような、苦痛に耐えるような声で途切れたのと同時に静かになった。「……嘘だよな」と呟く者もいるがどうやら両隣の教室も似たような状況らしく、先程まで聴こえていた教師の誘導の声が静かに途切れていた。言葉を失うとはこういう時に使う言葉なのだろう。現に和寛も状況を飲み込めず、上手く考えを纏めきれていないようでどうすれば良いのか分からなくなっていた。
だがやはり事前に予想していたこともあってか、それとも周りがパニックになっているからか、少しずつ冷静に物事を考えられるようになってくる。
それで一つの疑問を持った。なぜ教師がその複数の不審者を見ることができたのかという疑問。しかしこれは簡単な話で、和寛も疑問となってすぐに己の思い違いに気づく。つまり侵入者は人間であって残思ではない。たまたまそう思うようなタイミングでやって来た人間。
あの少女が書いたと思われる意味深な置き手紙のせいで、てっきりこの学校に攻めて込んできた残思が自分の命を狙いに来たんではないかと、そう思い込んでいた和寛は少し心を撫で下ろす。つい先日にそれ以上を見てしまった彼にとって今回は大したことではないように感じるのだろう。しかし間違ってはならないのが、あくまでアレと比べれば幾分かマシだというだけの話で、和寛は不審者を純粋に怖がっていたりはしているのだ。
ただその反面、相手は人間であって敵わない化け物ではない。だからなんとかなるかもしれないと心の何処かで和寛は増長している、もしくは楽観視していた。当然和寛に複数人の大人に囲まれて逃げられるような筋力など無いのだが、時に思い込みというものは人を強くするということだろう。勿論心だけの話である。
従って昨日の和寛を怖がらせる方法は、少女にとって裏目に出たと言わざる終えないだろう。残思ではないから大丈夫、などと失笑すら買うことはできない。
さて、この教室は校舎の二階にあり、外へ逃げるためには廊下の両端にある階段を使って下りなければならない。窓から飛び下りる方法もなくはないが、骨折、最悪死ぬような怪我を負う高さなのだから最終手段としたい選択肢になるだろう。つまり、和寛達は不審者達が二階へ上がる前に階段を下らないといけないのだ。
ここのクラスの統率者である担任と学級委員長の二人は今この場に居ない。そのせいでどうすればいいのか分からなくなっている生徒は未だに教室に留まっている。だが幾人か冷静さの戻った生徒達が隣の教室前で避難をさせている教師に助けを求めに行った。これでしばらくもしない内に彼等を纏める者がやってくることだろう。
そして和寛もその幾人かと同じように教室を出ようとした。誰一人にも声をかけることなく、仮にここで逃げることを呼び掛けたとしてもカリスマ性のない和寛は、何かしらの反論を言われれば口を閉じることだろう。流石にこの状況で逃げることに反感する者はいないと誰もが予想できるのだが、もしもの時の責任が和寛は持てないでいた。加えて和寛にとってはそこまでして助けたいと思えるような仲ではないのだから、どんな他人でも助ける為なら命だって擲つよ!という、ある種狂人的行動を取ることができない。そういった事柄は今は居ない正義馬鹿こと学級委員の領分だ。
けれど、その行動を取るも取らないも無意味となる。
廊下から聞こえる様々な声。それは歌のような叫びのような、抑揚はあるけれど意味のない声。怒声のような悲しみのような感情をそのまま口にしたような声。
そしてただただ単純に分かりやすく、理解のできない数多の悲鳴。
(あぁ……やっぱり非日常じゃないか)
誰に言うでもなく和寛は心の中でそう呟いた。
かつて空を飛ぶ鉄の鳥に憧れた黒い烏。
飼い主と共に居たいと願い、飼い主の真似をする猫。
昔自分をいじめたクソガキを探し回る犬。
様々な物語が世に溢れては入り乱れる。これからの彼等がどうなるのか私も知らない。