小さく進む偶像
お待たせしました。
導入です。
和寛が対処法を受け取った日曜日、その夜のこと。
人気の少ない深夜の歩道にたった一人、幼い少女が立っていた。いや、それはよくよく見れば少しずつ、少しずつ前へ歩いているのだと分かる。しかし決して後ろ髪を引かれているような歩き方ではない。どちらかというと行く先を確かめているかのように歩いているといった感じだろうか。
長らく切っていないのだろうか、その黒髪は腰まで伸びており、着ている純白のワンピースも少女に比べると少し大きいように感じる。初対面であれば大雑把な性格なのかと思うような見た目ではあるのだが、何よりも目を引くのはそんな大きさの合っていない見た目などではなく、目元を隠している灰色の大きな布なのだ。行く先を確かめるかのように歩いていると誰もに感じさせるだろう要因はこれであり、事実として前が見えていないのだろう。時折段差で小さく躓きかける様子が伺える。
そこへ塾の帰りなのだろうか、もしくはバイトの帰りなのかもしれない。ともかく一人の若い男がやってきた。彼はこんな時間帯に外に子供が出ているにも関わらず、欠片もそちらに目をやらず、まるで気づいていないかのようにその横を通り過ぎようとしていた。けれどもそれは仕方のないことだ。本当に、彼にはその子のことが見えていないのだから。
そして、どうもここは人の気配が少ない。今辺りを見回したところで彼の知覚する範囲には彼以外の人間は居らず、真横にある車道にも車の姿はない。精々が遠くの曲がり角から一台の車が走り去っていく音が聴こえるくらいのものだった。
明かりのついている住宅はまだ先にあり、彼の側には不穏に光る電灯と無情な暗闇しかないのである。けれどもそんな静けさに包まれているはずの空間で、彼の常識として聴こえるはずのない方向から、あり得るはずのない、聞こえてはならない声が彼の耳に聞こえたのだ。
「寂……ぃ…」
小さく何かが呟かれたと彼は感じることだろう。それは誰も意図していない声であり、全てが彼に聴こえるようなものではなかった。だが横を通りすぎようとしているほど近くにいたのだから当然無意識下では聞こえていた。認識はできないが視てしまい、聴取してしまった。そんな些細なことが彼の数秒を支配して、だからというわけではないが、次にはもう彼の視界というものは死んでいた。
突如として、唐突にして、見えない何かが視界に映り込んだ瞬間、彼の視界が殺された。夜とはいえ明かりはあった。明かりがあったはずなのに何もかもが消え去った。いや違う、塗り潰されたのだ。何もかもが真っ黒に、真っ暗に、どこを見ても何を見ても彼の瞳が映すものは一色しか存在しない。
両目が激痛に襲われて、膝をついた彼はくぐもった叫びを口にする。堪らず両手で目を押さえれば何か生暖かい液体が手に付着した。一瞬だけ痛みによる涙かと希望的観測にすがった彼だったが、頬を伝い流れていく量があまりにも異常で、嫌でも察しはついた。
手を退けて無理矢理にでも閉じていた瞼を開いてみれば、あぁやはり何もかもが隠れて姿を見せていないと彼は現実に裏切られる。底の知れないその恐怖に途端として、彼は足場がとても不安定なものに感じさせられた。どこに向かって歩けば良いのか、自分がどちらを向いているのかさえ分からなくなる。今まで理解していなかった言い知れようのない不安。誰の声も足音すらも聴こえない、孤独から来る恐怖。助けてくれと救ってくれと彼の心が悲鳴を上げる。
「ねぇ、どうしたの?」
誰か居ないかと耳を澄ませれば不意に彼の耳にそう聴こえた。もう見えなくなってしまった目では確認することはできないが、明らかに幼いと分かる声でそう話し掛けられた。とてつもない不安は反転して安心感に成り変わる。子供だとか大人だとか関係無く、誰かに声をかけられたということに、そこに自分以外の誰かがいるということに彼は喜びを感じたのだ。
「目が……見えなくなってしまったんだ」
「そうなの?なら私と一緒、私も目が見えないの」
淡々と言う少女の言葉に彼は酷く驚いた。自分でさえ不安で押し潰されてしまいそうだったというのに、年下であろうはずのこの子は何故こんなにも平然としていられるのかと。もしかしてこちらが見えていないことを良いことにからかっているのではないだろうかと。しかしその声に嘘が混じっているような様子はない。本当に、真剣に、事実として語っているだけのように彼は思えた。
「君は、怖くないのか?」
「貴方は怖いの?」
「あぁ……これじゃあどっちが子供か分からないな」
自分自身の情けなさに彼は嘲笑する。十も年の離れた弟を持つ彼としては、何処か自分が大人のような、一個人に対して人生の先輩であるという立場に満足気に座っていたという節があった。だから藁とも思っていなかったものをこんなにも掴みたくなるとは今朝の彼は思いもしなかっただろう。故に必然として、不意に頭に乗った感触にも彼は予想などできたわけもない。
「大丈夫、私も同じだから。一人で怖がらなくても良いんだよ?」
「あ、ああ、ああぁ」
男は少女に優しく頭を撫でられたのだ。何もない暗闇で温もりに触れられた。今頬を流れるものが血なのか涙なのか、彼が判断することはできない。だが少なくとも子供のように泣いているということは理解できていた。子供を前に情けないと思っているはずなのに、募っていた不安が、恐怖が、声と共に流れていく感情を止めることはできなかった。
この子に何かしてやれることはないだろうかと、そのような気持ちが彼の心の内に湧く。こちらが救われたようにこの子を救うことはできないだろうかと。
──……ぁぁ、あった。一つあった。
そう彼は歓喜する。口の端が僅かに上がり、心の声は普段と大きく差違を成す。
──この子は目が見えないと言っていた。何も見えないと、道が見えないと前に進むのが不便だろう。彼女は先へ進むことが困難だろう。
その違い故に思考は螺曲がる。全ては己が考えて己で選んだ選択肢、しかし用意された選択肢が全て他者が用意したものならばそれは己の意思と呼べるのだろうか?
──なら俺が道標になろう。俺がこの子の進む道を作ろう。声をあげて、この子の行く先を明確にしよう。
まぁどちらでもいいだろう。彼には自我があり、自分で考えている。それは如何な前提があろうと揺るぎない真実なのだから。とはいえ端から見れば既に思考はおかしくなっている。そして彼もおかしくなっていることを自覚しながらもそれに違和感を感じない。むしろそれに幸福を感じ、全ての重荷を捨てたかのような身の軽さを覚え、その在り方を受け入れる。
「ああ、あアアぁ、ァアアアアッ!!」
「歌を聞かせてくれるの?ありがとう」
──ああ、もう恐怖など何処にもない。手を引かれているかのように自然と前に足が出るのだから。さぁ進もう。道標となろう。声の道を作り上げよう。
「ァアアアア、アアアアッ!ァ……」
確かに彼は歩き出した。大きく声を上げて一歩、また一歩と。今の彼は目が見えない。故に急速に近付く眩い光を見ること等叶うわけがなかった。
彼がそれの存在に気づいた時には、耳だけが鳴り響くクラクションとタイヤの擦れる音を鮮明に記憶する。自分が何処にいるのかを理解した頃には体が宙を飛んでいた。
「っ!大丈夫ですか!?……ぁ……き、救急車」
急に道路へと飛び出てきた彼を、接触したことでその存在に気づいた運転手は目視する。トラックは止めることのできなかった勢いでそのまま数メートル先まで進んだ。確かな鈍い音を聞いた運転手は慌てた様子でトラックから飛び出す。辺りは深夜ともあって多少暗くはあるのだが、近くの電柱に備え付けられていた電灯のおかげで、状況確認に勘違いや思い違いが起こることはなかった。
それは明かりに照らされたブレーキ痕と赤く痛々しい凄惨な光景。己が原因だと疑いようのないそれを、運転手は目の当たりにすることとなった。強烈な衝撃で歩道側のアスファルトまで飛んだ男は、右足はどう曲がっているのか分からなくなり、着地で指は幾本か壊れた人形のように折れている。両目も運転手からすれば自分がやってしまったと認識することだろう。
生きてはいない。一瞬そう思ってしまった運転手だが、それは違った。道路に転がる彼は、聞こえないほどに小さく、歯の折れた口で何かの言葉を紡ごうとしているからだ。だから彼は、それが風前の灯火だとしても、まだ間に合うかもしれないと思い直した。自分が加害者だという恐怖にそう言い聞かせた。
そうして救急車を呼ぼうと運転手はポケットのスマホに手を伸ばす。けれどその手が耳元まで届くことはなかった。ここには被害者と運転手しかいないはずなのに声が聞こえるのだ。子供のような幼い声が。
「独……し……で…」
上手く狂気が表せなくて辛い。