目をつけられた
インフルエンザのせいで遅れた。
……えっ? いやだなぁインフルエンザのせいですよ?
「さて、次は御焚集の成り立ちについて」
途切れた話の流れを再開させるため、絃奈は一言置いて説明を続ける。
見えないものを見えると宣い続ける人間は、どの時代にだって一定数いる。周囲が自分の言っていることを信じてくれない。たったそれだけでも言葉を繰り返すには充分な理由で、信じてもらうには不充分な理由だった。
人間がただ叫ぶだけならなんの問題もない。それは信じるには値しないものであり、実害というものがほとんどない幼稚なものだからだ。けれど過去、見える者は俗世から姿を消さざる終えなくなった。これは残思を利用して悪事を働いた同類がいたせいであり、それを律することのできなかった当時のせいであった。
故に、見える人間は同類を組織して一つの集団を作った。残思を御し、悪を焚き上げ、善を敷く。誰が最初にそう呼んだのか御焚集という名がその界隈には広まった。
「始まりはただ同じ視点を持つ仲間が欲しかっただけなのかもしれないけれど、そんな大昔の資料は残ってなかったし、今は残思を管理しようと動いてる」
傲慢だねと絃奈は笑い、チョークを走らせる。大きく広がっている黒板には今までの話の要所要所が簡単にまとめられて、それを流れに沿うようにして矢印で繋がれていた。
「それで手紙鳥も彼等に管理された残思でね」
最初は鳥型の残思を調教し、手懐けてから伝書鳩のように使おうとしたのが手紙鳥の始まりであった。
残思を機密にする組織は、当然そのやり取りをする情報も一般に秘匿しなければならないようなものばかりであり、その手段に機密性を考えれば残思を使おうと考える人間がやはり出てくる。
そうして機能を始めた手紙鳥はその有用性から数を増やされ、知能の高い鳥は偵察、観察などの危険な残思を相手に情報収集並びにその報告をするといった様々な分野に幅広く活躍をしていったそうだ。だから手紙鳥とは手紙を運ぶ鳥の残思の呼称などではなく、情報を伝達させる役割を持つ残思の総称であると絃奈は言う。
「その手紙鳥が君を覚えていた。あの騒動で行方不明になった君は御焚集によって存在を世間から抹消された。いない人間は初めからいなかったことにすれば問題は起こらないからね。でも実は君は生きていた、なんて問題でしかない。なんとしてでも事情を聞こうと彼らは躍起になるはずだよ。一人だけあの場から居なくなるなんて間違いなく怪しいから」
今明かされる衝撃の事実ッ! といった具合に和寛は話の処理に追い付けていなかった。世間から抹消されたと言われても殺されたわけじゃないことくらいはその身が証明してくれる。ということは文字通り和寛は世間からいなかった、この世に生まれていなかったことにされたと捉えるのが正解に近いものだろう。
だが流石にそれを素直に信じられない和寛は、ゆっくりとだが絃奈の説明に割って質問を入れる。
「な、なぁ、存在を抹消って、流石に誰かしら気づくんじゃ」
「いいや、彼等の仕事に不備はなかった。和寛君の部屋はなくなっていたし、写真からも姿を消していた。伊藤御夫妻は子供に恵まれなかったことになっていた。誰も覚えていないんだから気づきようがないよ」
それを可能と為す残思を御焚集は味方につけている。つまり下手な敵対は命取りで、絃奈が影に徹するのはそれだけが理由ではないが、それが理由でもあった。
御焚集は人間の集まりだけではないのだ。どのような手段を持ち合わせ、どれほどのことができるのか、これは絃奈も多くを知らない。
「きっと明日の朝には屋敷を嗅ぎ付けることだろう。だから私は助っ人を用意することにした」
「助っ人?」
「そう、私の義兄さん。失礼の無いようにね?」
「にい……」
絃奈が用意すると言った助っ人は兄と言うが、残思の出生を聞いた和寛は必然絃奈と兄との間に血の繋がりがないのは知っている。故に絃奈の義理の兄となったその助っ人に幾ばくかの興味というか、好奇心のようなものを抱いた。しかもだ。あの絃奈が失礼の無いようにと念を押したところを考えれば、どういった経緯でアレの兄となったのかなど、聞いてみたい気持ちが和寛の胸の内に湧いたのは仕方のないことだ。
「それとこれ、もう私に投げないのなら枕元に返してあげるよ。たぶん必要になるかもしらないからね」
教卓から一本のナイフをするりと取り出して、それを絃奈は和寛に見せびらかす。投げ出した、絃奈に向かって乱暴にも投げ捨てたその黒いナイフは、今の今まで和寛の頭の中から消え去っていたものだ。楓花を傷つけた直接的な代物であるから投げてそのまま記憶からも放り出していたようではあるけれど、その姿を再び見て存在を思い出した和寛は小さく声を漏らす。
「その、あの時はごめん」
「いいさ、別に気にしてないよ。飼い犬に手を噛まれるならともかく野良犬に手を噛まれるのは自業自得だからね」
夢の中からナイフは消える。枕元に置いてしまったからなのか、ただ絃奈が消したからなのか、和寛は知らないが話は構わず進んでいく。
「これで準備は整えてあげた。私はまた身を潜めるけれど上手く和寛君が生き残ったらご褒美をあげよう」
「ご褒美?」
「そう、それが何かは頑張ってからのお楽しみ」
人差し指だけをありきたりにも唇に当てて、絃奈はただ楽しそうにそう言った。
端から塵のように崩れ去る教室。以前のような悪夢のときの暴力性とはまた別の静かな終わり。僅かな寿命を使い尽くしたかのように自然と崩れていく空間の中で、絃奈は和寛に一時の別れを告げた。
「さぁ、夢はもう終わりみたいだ。精々報酬を用意する私の努力を無駄にしないようにね、和寛君」
和寛は答えを返さない。返そうとする言葉は届かない。夢から覚めた人間が同じ夢に帰ることはできないからだ。だから届かない言葉を絃奈は理解していて、和寛が言ったであろう言葉に期待を込める。
「うん、じゃあそっちはよろしくね」
見慣れない天井を前に和寛は目を覚ました。夢の中で「任せろ」だとかそんな言葉を絃奈に言ったような気がする和寛は、しかしちゃんと言葉にできていたかは思い出せないでいた。普通とは違うあまりにもくっきりと思い出せる夢の内容に、終わりこそ曖昧ではあるが事実なんだと和寛は理解した。
重たい体を持ち上げると、確かに枕元にナイフがあるのを確認する。以前のように、というよりも以前以上に布で刃が梱包されているそれは、けれどもやはり枕元ということがあって「危ないな」と和寛は愚痴をこぼした。
そこでふと、思い起こす。楓花はどこにいるのだろうかと。目を覚まして昨日の眠る前の位置から微動だにしていないということであれば、それはそれで和寛は心配もするがしかしそこには居ない。周囲を見回して、立ち上がるために和寛は薄い掛け布団を退ける。
そうして大きな布団が和寛の目に晒されて、その端っこに転がっている寝相の悪い楓花を和寛は見つけることができた。
和寛は大きく背伸びをする。楓花を起こさないようにと声を出すのは控えたようだが、それでも深く息を吐いた。
ようやく気分も目覚めた気になって、和寛は顔を洗おうかと部屋から出ようとした。出ようとしたが襖が閉まっている。当然襖が閉まっていれば開けないことには出られないのだから和寛は襖に手をかける。
(……あれ?)
昨夜、和寛は眠気のままに布団に落ちていったはずであった。そこには欠片も襖を閉めるような気力も行動もなかったはずである。だというのに現実として襖は閉まっていた。
背筋で何かが走ったような寒気を和寛は覚える。けれどこれは、普通に考えれば楓花が閉めたのだろうという結論に辿り着く。辿り着くがしかし、わざわざ起こしてまで真実を確かめるのは忍びなく、和寛は起きたら聞こうと寝室を後にした。
季節は夏だというのに空気がやや涼しいのは周囲が木々に囲まれたこの環境のおかげか、はたまた普段よりも早くに目が覚めてしまったからなのか。和寛は顔を洗いながらどうでもいいことを考えていた。
右ももにあるポケットには邪魔臭そうにナイフが入れられている。護身用なのだからどこかやるわけにもいかず、和寛はそこに入れておくことにしたのだ。枕元よりもよっぽど危なそうに見えるが、その程度で和寛が傷つけられるほど雑な包装はされておらず、緊急時の咄嗟な取り外し以外であれば安心できるだろうと和寛は思っていた。
顔を洗い終わって次は朝食でも作ってやろうかと台所に立った和寛は、そこで玄関から戸を叩くような音が聞こえた気がした。それは何度か鳴った後に、「すみませーん」という男の声がついてきたことで流石に気のせいではないだろうと思うようになる。
「はーい」
一度居留守でもしようかと考える和寛だが、わざわざこんな山の中の屋敷に赴くような相手なのだからそれなりの用があるのだろうと考える。というよりも十中八九絃奈の兄だと和寛は思ったのだ。根拠こそないがその男の声は物腰柔らかで好印象を和寛に与えていたのだ。
「あの、どなたでしょ……」
そうして戸を少し開けて、向こう側の相手を確認しようとした和寛は、その向こう側にいた相手の姿に言葉を失った。
「あぁ、名乗りもせずにこれは失礼」
男はそこに一人で立っていた。山に入ってきたはずなのにとんと汚れのない服装。そもそもとして登山にも向かない革靴なんかを履いて、シワのない黒いスーツを着たビジネスマンのような男がそこには立っていた。
「私、鳩胸と申す者でして、えぇ、手紙鳥統率なんぞをしております」
頭部が鳩頭という異形の男が、その瞳を動かして和寛の前に立っていた。