初めての食事
全体的な屋敷を見てみれば長らく人が使っていないことは明白であり、居間の隣に位置するここ、台所もそれらと同じようなものだと和寛は思い込んでいた。けれども居間然り、この台所もまたその内には含まれない例外の場所となっていたのである。すなわち手入れが行き届いている場所だったのだ。
(最近まで誰かが住んでいた……絃奈か?)
なぜかあったコンロのつまみを捻り、カチカチと音を鳴らさせて火をつける和寛は、使えることに驚きつつも揺らめくそれを見つめながらに考える。
一通り見回した部屋の中、雑多な小部屋とその他の落差はなんなのか、まさかヤモリ達が部屋を選り好みするはずもなく、況してやネズミが部屋を綺麗にするわけもない。
収納されていたフライパンを念のために洗浄し、コンロに乗せる和寛は疑問の山を前に立ち尽くす。そしてコンロを強火に変えて、フライパンにサラダ油を敷いて、あらかじめ薄切りにしておいた玉ねぎをその中へ投入、続いて豚バラ肉を放り込み、肉の色が変わるまでかき混ぜるようにして焼いていく。全体の色が変わりきったら強火から中火に、味付けの為の醤油を外側から中心にかけて円を二周描くようにして加えた。
そうして醤油をかけた瞬間の焼ける音、昇る水蒸気と共に炒めている全ての香りが台所に立ち込める。
隣室の居間、そこにあるテーブルで大人しくして待っている楓花もまた、それらを感じ取り、未知なる体験に緊張と戸惑いで顔を固めていた。
そう、未知だ。残思となった楓花は生まれてこの方料理というものを食べたことがなかった。正確にはそれを手料理と呼ぶのだろう。ともかく生物ではない楓花が何かを食べる必要性はない。それ故に空腹もなく、自制できない食欲もない。睡眠欲もないのだから時間の概念に疎く、仮に十年以上食事をとらないとしても一日何もしないことと大差がない。
勿論食欲自体が存在しないわけではない。ただそれはあくまで趣味にしかならない程度のものでしかないというだけの話だ。だから気が向かないのであれば何かを食べようなどと思うこともなく、料理をしようと考えることもなかった。
結果、食事というだけの話であるならば一度だけ、楓花はパンを食べたことがあるのみであった。それは絃奈が食べることを勧めたが故の行動であり、口にしたものは菓子パンでしかなかった。
それらを踏まえてもう一度述べよう。楓花にとって温かい食事とは未知である。しかし、知識としての食事を楓花は知っていた。知ってはいたのだけれども、それは常識としての知識でしかなく、いつかに迷い込んだどこかで誰かが言葉にした情報でしかなかった。美味しいものだったり美味しくないものだったり、聞いたことはあっても味わったことはない。
そういった理由で、そういった面持ちで、楓花は料理が運ばれてくるのを待っていた。そして同時に一つ、寝覚めてから付きまとう心配事が楓花にはあり、それをどうすればいいのか、この僅かながらの時間に悩んでいた。
そうして悩みに悩んで、次に楓花の意識が現実へと向いたのは火の揺れる音が消えた頃合いである。そしてそれは楓花にとって思案する時間が尽きたことを意味していた。
やがて料理を皿に盛り付け終わった和寛は、それらを香りと共に楓花のもとへと持ってきた。横に広いテーブルに、しかして二つの皿は隣同士に並べられ、楓花の座る左側に和寛は腰を下ろした。
「主食がないけど……まぁ取り敢えず今日のところはお互いこれで我慢だな。あんまり料理とかしないから味の保証はしない。というかただ焼いただけだ」
絃奈が用意した食パンは明日の朝食で、石釜が台所に存在していたけれど米はなく、気力や知識が今日のところは足りていないと判断する和寛は主食を断念する。そうして無惨にも食卓に上がってきたのは絃奈が置いて去った食料の一部の炒め物ということになった。
しかしそれは仕方のないことだ。残念なことに冷蔵庫はあるものの死んでいて、下手にあれこれ食料を使うことのできない現状としては使うものは一度で使いきりたいと和寛は考えたのである。
流石に醤油はしばらく保ってくれるだろうと。できるだけ涼しそうな物陰に開封していないあれこれと纏めて和寛は保管したのだが、季節は夏、いつ残りの食材が駄目になるのか分かったものではない。
しかも食べ物の量が一度で使い切れないのが実に嫌らしく、そうきたかとさえ和寛は思った。缶詰めなどの長期保存が効くものもあるのがせめてもの救いだろうか。だからこそ使用順位として一目で残してはならないと分かる豚肉を和寛は使ったわけだが、果たしてパックのベーコンと卵は明日の朝食べられるのだろうか。
などと和寛には和寛で楓花とは違った問答が台所で巡らされていたのであった。はてさて、例外的に綺麗な部屋の謎? かつて絃奈が住んでいたのか? そんな疑問は料理が始まった頃にはすでに和寛の中から綺麗サッパリ姿を消していた。けれどもそれは疑問に合った解答を見つけたわけでも唐突に解消できたわけでもない。すなわち考えることを止めたのである。
かくしてそんな和寛は、料理が美味しくなかった場合の言い訳を垂れ流しながらやって来たのだ。ちなみに皿の上には醤油で味付けされた豚バラ肉と玉ねぎの炒め物、それに加えてフライパンに残った油を使ったスクランブルエッグが添えられている。
そしてそこに当然のような顔をして用意されている二膳の箸は和寛が台所で見つけたものであり、入念に和寛の手によって洗われたものである。また、どうやってそれを洗ったのかと言えば、掃除のときと同様に水道を使ったのみであった。さて、いったいどうして水道が生きているんだと考える余裕をこれまた疲れている和寛に求めるのは酷なのだろうか。
「いただきます。……ん? んー、不味くはない、かな?」
一秒にも満たないがきちんと手を合わせた和寛は、いざと料理を口に運ぶ。どうやら大した味付けをしていないからこそ大きな失敗はなかったようで、一口目を飲み込むと和寛は大雑把な自己評価をつけた。それで他者にも安心して出すことのできるものだと納得して、和寛はふと楓花の方に目をやった。どのような反応をしているのかと、料理を作った者として純粋に気になったからこその動きなのだが、和寛が目をやった先ではただ当たり前の光景がそこにはあった。つまり、目の見えない者にはどこに何があるのか分からない、ただそれだけの答えとして未だ箸を手に取っていない楓花の姿があったのだ。
「……ほら、食べさせてやるから口開けてみ」
「ぁ……」
料理ができてから今の今まで喋る気配のなかった楓花は、粒のような声の後に静かに口を開く。
楓花にとって食事とは無くてもいいものだ。だからはしたなく食らいつこうなどと思い付くことはなく、箸がどこにあるのかをわざわざ問うことも、皿の上には何がどう並べられているのかを問うこともしようとはしなかった。
いくら楽しみにはしていても、そこまでして食べようという気にはなることができず、楓花はどうすればいいのかと新たに生まれた迷いの中で沈黙をしていた。だからこそ楓花からすれば和寛の唐突な提案は予想だにせず、しかして結局助けを借りてしまったという不甲斐なさのような言葉が漏れたのだ。
ここで一度改めておくが楓花の思う和寛の人物像とは、いきなり手を切りつけてきた怖い人という位置づけであった。しかし今となっては自分にも非があったことを楓花は薄々ではあるが自覚をしている。切りつけられた事実の恐怖こそあるものの、それに目をつむれば仲良くなれるかもしれない普通の人だというのが、楓花の中で新たに形成され始めた和寛の人物像であった。
だから、優しくされればされた分だけ和寛への印象が好意的なものへと移り変わり、そして後悔が積もる。
「ごめん……なさい。私、皆に酷いことして、皆に迷惑かけて、あの人達が殺されたのも私が巻き込んだから」
口に運ばれた温もりを飲み込んで、楓花は震える声で涙を流した。彼女にとっては知らない記憶が何をトリガーにか舞い戻る。それは今朝の出来事を引き起こした一因ではあったのだが、しかし今回の感情の波は穏やかなものであった。
「だからあなたがここに居るのも私のせいで」
ただ少女が泣いている。後悔の念に静かに泣いているのだ。けれどもまぁ、そうとは知らない和寛は楓花がなぜ唐突にそんなことを言い出したのか分かるはずもなく、今朝の二の舞になるまいと慌てたように頭を働かせる。そうやって出てきた答えが。
「だ、大丈夫だって大丈夫。ほら、しちゃったものは仕方ないし、ね? 悪いと思ったんなら次からしなければいいだけだから。前を向いて生きていこう」
背中をさすって落ち着かせるという単純な手段でしかなかった。しかも何が大丈夫なのか、具体性という言葉が息をしておらず、思考回路を使っているのか怪しいレベルで和寛はスラスラと言葉を並べ立てる。そもそもとして背中をさすって落ち着かせるのは感情ではなく吐き気ではないだろうか。
ともかく和寛が自主的にできたのはその程度のことだった。
だからその後、楓花が黙って和寛にもたれたのは楓花からの頼みだったのかもしれないし、思わず言葉を止めた後、和寛が寄りかかってきた楓花の頭を撫でたのは自主的にできる延長線上のことだったのかもしれない。
ただどちらにせよ、屋敷にはしばらくの沈黙が続くのみであった。