目覚めと食材
場所は部屋を移り、寝室の隣へ。他とは違い、やけに綺麗な広めの居間にて、和寛はスリッパを脱ぎ、その場に敷かれた座布団の上で正座をして絃奈の言葉を待っていた。絃奈は「さてと」と一言呟き、部屋の隅に積まれていた座布団を新たに持って来て、和寛に合わせてか凛とした仕草で正座をする。
乾いた樹木の香り、これからが全く予想できない緊張感、先程までの馬鹿らしさ、それらが纏まって和寛を包む。そして、一息の呼吸を和寛は耳にして、目の前を見つめる。間隔にして一メートルあるかないかを挟んだ正面には、丁度絃奈がその空気を壊すかのように口を開こうとしていた。
「これから、君にはここに住んでもらいます」
和寛にとってそれは無理難題かと言われれば首を捻らざるを得ない命令だった。要求に対して意味が理解できなかったのである。しかし、諦めが肝心だと察してきた和寛は鼻で溜め息をつきながらも、まるで逃がさんとばかりに笑顔で目を合わしてくる絃奈へ問いを投げる。
「ずっとか?」
「楓花ちゃんの問題が解決されるまでさ。じゃなきゃ人里離れたこんな場所には来ないよ」
きっとそれは絃奈なりの配慮なのだろう。問題を起こされた場合の後処理が面倒だとか、そんな理由だったとしても、互いにとって都合が良いことに違いはないのだ。だから絃奈は全く気づいている様子のない和寛に対して付け加える。
「あっ、あと君ももう少しまともになってくれると助かるよ」
思い出したというよりは思い浮かんだといった感じで絃奈は確かにそう言った。しかし当の本人は言葉の意味が飲み込めないと反論をする。
「まともってこれでも充分常識の範囲内だと思うんだけど」
「うん、理解してないといざという時に判断が狂うから言っておくね?和寛君、君はこの状況を異常だと思うかい?」
そんな当たり前の質問、当然和寛は異常だと答える。残思だとかいう非常識な存在と行動を共にして、いや半ば強引に行動を共にさせられて、一般的に端から見れば今の和寛は一人きりなのだ。これを異常じゃないと言い張るのには無理がある。
「そうだね、異常だ。じゃあ君はそんな異常な中、一度でも家族に連絡を試みたかな?私に連絡をする許可を、提案を、一度でも出そうと思ったことはあるかい?突然学校から居なくなった君を御両親はさぞかし心配していることだろう。君は、そうは思わないかい?」
本人が不思議に思うほど和寛の声は自然と出た。それは意図していない声ではあるが、意味が分からないわけではなかった。つまりは何がおかしいのかに気づいて声が漏れたのだ。家族の夢を見ていながらも家族のことを想うことがなく、スマートフォンなんてものを渡されたのに使えるかどうかの確認さえしていなかった自分。
特段家族間の仲が悪いわけではない。それは土曜の夜に和寛の家へ侵入した絃奈の素直な感想だ。根拠としては部屋に飾られた写真や、日曜日の早朝から出掛けるまでに和寛を想って朝食昼食の作り置きを用意していた両親の行動などが挙げられることだろう。
今でもそうだ。和寛は自身の異常を理解した上でも、心情としては家族の心配より楓花の心配の方が勝っている。しかし、だからといって家族を蔑ろにできるわけではなく、あくまで和寛の中では優先順位の上位が楓花であると認識しているのだ。
それに気がついた時、これの何が原因なのかなんて考える和寛は流れるように隣室へと目が動いた。それでようやく理解できたかと呆れ混じりに絃奈は呟く。
「ま、楓花ちゃんの問題解決と平行して原因の原因探りまでやりたきゃやればいいさ。私は私でやることがあるし、食料だけはサポートしてあげるから」
「……ん?えっ?じゃあその他は全部俺か!?」
「お掃除よろしくぅ~!」
素早く立ち上がる絃奈は、そんな言葉を置いて走り去る。一連の動きは実に滑らかで、後を追おうとする和寛は座布団を滑らせ、立ち上がる以前に転倒する。その流れがあまりにも自然過ぎて、既に姿を消した絃奈がどうやってか座布団を引いたのではないかと、和寛は咄嗟に振り向いた。するとそこには黒く蠢く何かがあったわけもなく、ただ無様にずれた座布団が存在するのみであったのだ。
さてでは何から手をつけてやろうかと、まるで先程は転倒などしていなかったかのように澄ました顔で和寛は居間から廊下へと出た。まずは掃除機か、最悪箒の代わりになるようなものが欲しいところであり、次いで雑巾というところだろうか。
そうした中でいくつかの襖を開けて探していけば、和寛は掃除道具一式が片付けられていた押入れを発見することができた。その中には掃除機なんてものはなかったけれども、きちんとした箒やらバケツやらが存在し、取り敢えず最低限の屋敷の掃除ができそうだと和寛は一安心をする。
次に行ったのは掃除範囲の確認であった。流石にこの屋敷を丸々一人で掃除をするには大きすぎる為、一旦として生活に不快感の湧かない範囲を綺麗にすることにしたのだ。と、言えば聞こえは良いのかも知らないが、実際のところは疲れている上に面倒臭いから、今後使うような部屋を確認し、寝室から向かって玄関までの廊下を掃いてから後のことは考えようといった怠惰な腹積もりなのである。行動に移すだけマシなのかもしれないが。
そうやって、和寛が砂埃を玄関から外へと掃き出して、木目に沿いながら雑巾を掛けている頃合いのことだ。無駄に広い洗面所からバケツに水を溜めて寝室から玄関へ、進み具合にしてまだ半分も済んでいない辺り。
──寝室の襖が開いた。
不意に和寛はそう感じ取ることだろう。寝室から曲がった先の廊下で、手と膝を床につけている状態で、和寛が視認できるわけもないのだが、ハッキリとした音が鮮明に頭の中で映像を構築する。そしてその音は磨き抜いた廊下に張り付くような、それでいて重圧感のない足音として近づいてきた。
「……おはよう」
壁に手をついて小動物のように顔だけを覗かせる楓花は、顔色を窺うようにそう挨拶をした。それらの様子から一応の落ち着きが見て取れた和寛は安心したように言葉を返す。
「おはよう。もうそろそろ夕方だけどな」
「えっと……そうなの?」
「あぁ、飯食ったらすぐにでもおやすみをしたい程度にはな」
止めていた手を再び動かして床を磨き出す和寛に楓花はそっと近寄った。先程の小動物感は少しではあるが薄れており、これは警戒心と呼べばいいか、はたまた怯えとでも言えばいいのか分からない感情が消えかけていると言い換えることもできる。
それに気づいた和寛は初対面の犬と接するかのような慎重さでこんな提案をした。
「そうだ、一緒に晩飯食うか?」
「ぇ、え?いいの?」
「いいよ、食材の保証ができないから美味しいかどうかは分からないけど」
果たして絃奈はどんなものを用意してくれるのだろうかと、不安半分期待少し、残りはまともなものであってくれという純粋な願いで和寛は夕飯を想像する。もし和寛が絃奈の立場に居たとして、人が嫌がるようなことをするのであれば、食べられるのだけれども極力食べたくない、想像の範疇に収めていたいものを用意することだろう。特に「たんぱく質をどーぞ」と書いた紙と一緒に、開けなければ中身が分からない箱に蠢く虫達を詰めて台所に置き去りなど。
そんなことが想像できてしまう和寛も和寛でどうなのだという話なのだが、その可能性を否定できない和寛はただひたすらに祈るのだ。せめて虫ではなく蛙辺りの悪ふざけで気が済んでくれと。
そんな中、またもや音がした。今度は玄関の方向から、何かが入った袋が落ちたような音だ。居なくなった絃奈が帰ってきたのだと和寛は信じ、「ちょっと待ってて」と楓花に言い残して、若干駆け足で玄関へと向かう。けれども、当然として一人が嫌な楓花もまた、和寛の足音を頼りに後ろから歩いてついていく。
然程離れていない玄関へ辿り着いた和寛は、しかしその目で絃奈の姿を確認することはできなかった。別に絃奈ではない誰かが居ただとか、そもそもとして音は気のせいだっただとか、そんなことは一切なく、豚腹肉やら玉ねぎやらの夕飯となる食材が入ったビニール袋がポツンと一つ、玄関内に佇んでいるのだ。玄関を開けてから外を確認してみたってそこに絃奈の姿があるわけでもなく、文字通り手助けをするのは食材だけのようらしい。
「あいつ買い物できるんだな」
もしかしたら盗んできただけなのかもしれないが、和寛はそんなどうでもいい疑問を口にしてビニール袋を持ち上げる。それで丁度玄関へと歩きついた楓花は子鴨のように和寛に近づいて問うのだ。
「ねぇ、それは何?」
目の見えない彼女からすれば、和寛の手にあるそれはビニールの擦れる音と、他にはパンが纏う小麦の香りや玉ねぎの匂いくらいしか知ることはできない。嗅覚、聴覚、共に常人とは比べものにならない強化が働いてはいるものの、嗅覚に関しては決して犬に勝るほどのものではなく、つまり人の範疇に収まる力しかないのだ。
だからこそ、音として認識している数と匂いの区別の不一致が彼女に疑問をもたらした。そしてその疑問に答えられる立場の和寛はその場で細かくは答えない。
「夕飯の食材だ。うん、時間的にも丁度いいし、掃除を切り上げて料理としよう」
キリが良かった&続けると倍くらいになりそうなので短め。