全てが去った屋敷
ガタンゴトン
そこから眺められる景色は左から右へと川のように流れていた。ビルなどの建築物の姿はとうに消え、代わりとして民家が多くなり、残りは温かな緑が広がっていた。
流れ行く田んぼや畑を目の端に、何で電車に乗っているのかと今更ながらに和寛は考える。そうして電話に出るように、絃奈から渡されたスマートフォンを耳に当て喋り出した。
「これから何処に行くんだ?」
「着いてからのお楽しみだって言ったじゃないか。堪え性が無いというか諦め悪いというか」
和寛の問いに対する返事はすぐ横から聞こえるものだった。しかしそれはスマートフォンからではない。和寛がこんな独り言をしていても周囲がおかしいと思わないのはスマートフォンのお陰ではあるのだが。
「お前がどうかは知らないけど、俺は純粋に出荷前の仔牛の気分でな。これからどうなるんだろうなとか気になるわけよ」
今から貸しを返せと絃奈に迫られ、半ば無理矢理に外へと連れ出された和寛は、「近場だから」と最も近い駅まで歩かされた。そのせいで足の感覚が無くなり、まさに棒となったところでそこから絃奈に切符を手渡され、あれよあれよと言う間に電車の中へ。それからかれこれ数時間、明日は筋肉痛だなと確信する和寛は景色を眺めて問いたい気持ちを我慢していたのだ。ちなみに電車に乗るまでの楓花はというと、絃奈の背中でずっと眠っており、その姿はさながらタイムリミットの分からない時限式爆弾のようであった。
「そんなに警戒しなくたって君を取って喰ったりはしないよ。あぁ楓花ちゃんもね」
電車に乗ってからは和寛が右の窓際、絃奈がその隣に座り、楓花は絃奈に抱き抱えられるようにして座っていた。勿論未だ楓花の意識は覚醒していないが、それも時間の問題だろう。
返ってきた答えにどんな地雷を仕掛けられているのかと、失敗に学ぶ和寛は再び黙り込み、スマートフォンをポケットに戻してそれを咀嚼するように考える。そんな様子を見て絃奈が一言、「君は警戒のし過ぎだと私は思うな」などと半笑いで呟くものだから、どの口が言うか!と言いたそうな顔を和寛は作った。
しかしそんなこともしばらくすれば時間の川に流されて静かな一時が場を包む。無音というわけではない。他の乗客の話し声、電車の走る一定間隔の音、それら全てを纏めて和寛は平和だと感じるのだ。のんびりとした、窓越しに映る景色を眺めるだけの瞬き。次は何が仕掛けてくるのかと怯えながらも和寛はその一時を楽しんだ。
だからこそこの時は誰も知らなかった。絃奈の致命的な見落としも、和寛がそれに気づけていないことも。眠り姫にこれを問うのは理不尽で、悪魔に問うても仕方の無いことである。けれども幾ら言い訳を並べたところで現実が変わらないのは自明の理。故に、これから起こるであろうそれは一つの知識が無かったことによる悲劇の一つでしかないのだ。
「次の駅で降りてもらうから眠らないようにね」
窓から見える景色が住居より圧倒的に草花の方が多くなった頃。トンネルに入り周囲が一時的に暗くなった切り替わり、絃奈がそう告げる。しかし移り行く景色を眺めるだけというのも案外飽きが来ないもので、眠気を欠片も感じない和寛には無意味に思える忠告だった。だから心得たというよりは注意しておくという意味で言葉を返す。
和寛が返事をして数秒経つだろうか、視界に明かりが戻りトンネルを抜けたことを認識する。窓の奥にある景色には山が幾つも連なっており、田舎寄りの町から完全に風景が田舎へと変わった。
果たしてこんなところで何をさせようと思っているのかと、青空に浮かぶ綿飴のような雲を見つめながら絃奈の思惑を和寛は考える。とはいえ思考の基準というか、前提に置く考えが絃奈の性格の悪さである限り和寛には分からないだろう。例え心の奥底が私利私欲の悪意に満ちていようと、今回の彼女の行動は和寛にとって、いや楓花にとっては善意にしかならない予定なのだから。
目的の駅に着くと和寛は絃奈に手を引かれて前へと進む。まるで嫌々連れられているように見えるかもしれないが、電車を降りてからは絃奈が和寛の手を握って離さないのだ。行く先も分からないから和寛が先行して歩くこともできず、かといって絃奈が何か喋る様子はない。なので仕方なく、手を引かれるままに和寛は後をついていっている。
肩を使い、器用に楓花を片手で抱き抱える絃奈は黙々と歩く。和寛も駅を出た直後辺りは人の目を気にして黙っていたが、付近に畑と道路と緩やかな傾斜の山しかなくなった現在、絃奈に質問をする。
「何処に向かって歩いてるんだ?そろそろ足がキツくなってきたんだけど」
「もうちょっとさ、もうちょっと。あぁそうだ!早く休憩したいなら速く足を動かした方がいいね。よし、ペースをあげるよー!」
「えっ!?いや待って、速い、速いって!」
絃奈としては歩き、気持ち早歩きのつもりだろうか。しかし疲れきった和寛がそれについていくには小走りという地味ではあるが目に見えて体力を使う走法をしなければならなかった。それでまた疲れるものだから悪循環もいいところ。これで舗装されていない道を歩こうものなら心の余裕も無くなってしまうことだろう。
「ついでに近道もしようか。えっと……こっちかな?」
「お願いだから地図を見て!それ迷子になるやつだから!迷子になっちゃうやつだからッ!」
道無き道を行くとはまさにこの事。道路の脇から逸れて小石と土と雑草を踏みつけ、山の中へと入ろうとする絃奈に和寛は手を引いて止めようとする。まぁしかし現実とは非情なものであり、非常なものであった。少女の見た目からは想像もしえない怪力に和寛は抵抗して以下省略。斯くして力勝負に負けた和寛は、ズルズルと地面に靴の跡を残しながら木々の影へと引き摺り込まれていったのである。そして、再び和寛等が影から姿を覗かせたのは獣道のような、若干周囲の地面と差のある一本道に出た頃であった。
肩で息をし、制服のあちこちに折れた小枝や蜘蛛の巣を張り付かせた和寛は、せめて『道』を通って欲しいものだと目で文句を言う。それに対して絃奈は涼しげな顔で、まるで和寛の様子なんて見ていないように「さぁ行くよ」と歩き出す。最早その光景は和寛がついていっているというより、足を動かして引っ張られているようにしか捉えられず、事実そうなのであろう。絃奈にとっての近いとは、和寛とってどれだけの長さになるのか。駅のことを思いながら和寛はただ歩くのみであった。
そんな状況で絃奈は何を思ってか、ふと何事でもないような会話をするように語り出す。
「和寛君はさ、光を失うことに恐怖を覚えるかい?」
小鳥の囀りと共に木漏れ日が和寛の目元をちらつく。しかし一歩分踏み出すと和寛達は影の中へ、目を閉じたくなるような眩しさも消える。
前後に繋がりのない問いではあるが、和寛はなんとなく絃奈の言いたいことが分かった気がした。
「そりゃあ……怖いだろうよ。見えてたものが見えなくなるなら尚更」
俯いて、足元を見ながら転けないようにと歩いていた和寛は絃奈の肩へ目を向ける。
そこで眠りについている爆弾は色んなものが絡み付いて限界を迎えようとしている爆弾だ。存在するものを視認できず、それでもひたすらに己の夢を掴もうとして戻れない場までやって来た。だから己が既に戻れないところまで来てしまったと知った楓花は疲れ果ててしまったのだろう。罪の意識から逃げる為に自分を誤魔化した楓花は、逃げた分だけの疲れを背負って限界だと叫ぼうとしたのだ。
それを和寛がどこまで察せたのかは分からないが、少なくとも楓花の寝顔が今にも泣き崩れてしまいそうな子供に見える程度には理解したらしい。
「そっかそっか、私は逆だからよく分かんないや」
小さく、笑うように息を吐き、明るい声で絃奈はそんなことを言う。当然和寛にこれを理解することはできず、また理解したところで大した意味もないものであった。しかしそんなことを知らない和寛は気になるままに絃奈に問う。
「逆?見えるようになったのか?」
「いいや、私が光なんだ」
「希望の光ってやつか?」
「そんな大それたものじゃないよ」
結局、その後もはぐらかされて和寛がその言葉の意味を知ることはなかった。なかったが、しかし時間潰しにはなったようで、会話の途切れを待っていたかのように一つの大きな影が和寛の前に現れる。
「到着ッ!」
それを一言で言うなれば立派な木造屋敷とでも呼べばいいのだろう。白い肌に苔と蔦を纏う塀に囲まれたその姿はどこか古臭さを感じさせ、紺色の瓦が眩しいくらいに輝いている。周囲の庭であっただろう場所は無秩序に雑草が広がり、一見して屋敷を廃屋に見せていた。
そんな場所に辿り着いた絃奈は、外と敷地とを隔てる門を潜り、大きく背伸びをして元気よく叫んだ。終わりの見えない競歩の終了宣言、やっとかと和寛は地に腰を下ろし大きく息を吐く。その様子からもどれだけ疲れたかが窺い知れることだろう。
「和寛君、どうせなら屋敷の中に入ってから休みなよ」
「いや、なんというか、もう立てない」
「そう、じゃあ立てるようになったらおいで、私は先に楓花ちゃんを寝かしてくるから」
横引きの玄関を開けて絃奈はその奥へと消えていく。今なら逃げることができるのではないかと、そんな気持ちが湧かないわけではない和寛だったが、しかし逃げたところで何をすると自らに問う。行く当てはない、逃げ切れる確証もない、そもそもとしてこの道は自分が選んだ道だろうと。
和寛は自問自答で頭の中を整理して、何とはなしに上を見上げた。それは首の凝りを解すためだったのかもしれないし、単に空を見たかっただけなのかもしれない。ともかくそうして和寛の目に映ったのは気持ちの良いくらいに澄み切った青色の空だったのだ。
「今を生きなきゃだな」
たらればを持ち出す過去も、あるかもしれないと怯える未来も、考えるのは二の次だ。そう思った和寛は自然とそんな言葉が口から出ていた。
気持ちの切り替えの為に一息ついて頬を軽く二回叩く。そうして幾分かマシになった足に手をついてその場から立ち上がる。向かう先は来た道ではなく玄関へ。その僅かな過程で飛び出た小石に躓いたのは御愛嬌というやつだ。
磨き抜かれた輝く廊下、というものは和寛も外見からして期待していたわけではなかった。だがしかし、実際の廊下は荒れている様子でもなく、ただ全体的に薄く砂埃を被っているだけというものだった。きっと一日掛けて全体的に箒で掃けば充分に人が住める環境となることだろう。
「思ってたよりかは綺麗だな」
玄関から廊下へ上がろうとする和寛は靴を脱ぎ、用意されていたスリッパに履き替える。それの見ただけでも分かる真新しさと周囲の物との差に、恐らくは絃奈が最近準備したものなのだろうと和寛は察することができた。
それを踏まえて見てみれば、廊下の一面に広がる均等な砂埃には特別目立つような跡がない。つまり、つい先程奥へと進んでいった絃奈の足跡がないのだ。意図したものとは干渉しない、などという力が残思にあるのか、はたまた絃奈自身の特徴なのか、どちらにしても便利なものだと彼は一人思う。
「……ん、ここか」
いくつかの襖を開けて覗き、屋敷を探検するかのように絃奈が何処に居るのかを探る和寛は、布団が敷かれた寝室にてようやく絃奈を見つけることができた。敷かれている布団には楓花が寝ているということで和寛の声は小さく、その後絃奈の様子を見た和寛は無言で寝室の畳へと足を踏み入れる。
寝室に入って一番奥の右端に大きく古めかしい姿見がある。よっぽど大事にされていた物なのか傷がついているような箇所はなく、絃奈はそれの前に立っていた。本来としては就寝前や起きた後、すぐに着替えて己の姿を確認する用途に用いるのだろうが、しかし今は誰の姿も写してはいなかった。正確には絃奈の姿だけを写していない、角度からして和寛が和寛の姿を姿見に見ることはなく、見えるのだとすれば絃奈の姿だけなのだろうが、それだけは姿見に写ってはいなかった。哀しいくらいに、欠片も反さないそれに絃奈はそっと手を触れさせるが、それは一方的な接触にしかならなかった。
そうして手を引いて、開いた手を閉じてふと振り返れば、絃奈は和寛の存在にようやく気づく。
「ぁあ、居たんだね和寛君。声を掛ければいいのに」
「ごめんな。……なぁ、それに何か思い入れでもあるのか?」
姿見から手を離す絃奈の顔は悲しさと懐かしさをない交ぜにしたような、苦々しい笑みだった。だから本当にこの問いを投げ掛けても良いのだろうかと、和寛は一瞬悩み、そして思い切って聞いてみた。化け物が、化け物だったはずの印象が、僅かな時とはいえ単なる少女にしか思えなくなった理由に、知りたい気持ちが湧いたのだ。
「うん?この姿見かい?いや全く無いよ」
「無いのかよッ!」
その言葉に嘘偽りの気配はなく、あまりにも意味深長なその行動に、辛い過去か何かあったのではというところまで予想していた和寛はつい頭を抱える。勿論こんな場所で叫べばどうなるかなどと、火を見るよりも明らかなので小声のガッデム。ほんの少しとはいえ無駄に心配してしまった、騙されたと悔やむ和寛なのであった。