第二章 地の底-6
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照明のついていない、暗い階段を上がっていく。
先を行くエボニーの背中を、アリシアの体を抱えながら必死で追いかける。もちろん人間の体を持ち上げ続けているのも辛いが、何より、彼女の体温が徐々に徐々に失われていくのを、文字通り肌で感じられてしまうのが耐えがたかった。
「大丈夫、グレッグ? 代わろうか?」
「いえ、いいです。持たせてください」
「……そ。ま、あと少しで隊長たちに合流できるから。もう少しの辛抱よ」
彼女はそれだけ言ってまた視線を前に向けると、一歩一歩階段を踏みしめるようにして昇って行った。
壁はむき出しのコンクリートで、煤でかなり薄汚れている。階段は鉄製で、吹き抜けの空間に足音がよく響いた。空気が少しだけ揺れ動く。上の方から吹き付けてくる隙間風に、ワイシャツの血に濡れた部分が冷たい。
精神的にはともかく、流石に体力的にも限界かとグレッグが思ったところで、前の足音が止まった。顔を上げると、丁度エボニーがビルの屋上に繋がる扉を開けるところだった。徐々に広がる隙間から太陽光が流れ込んできて、グレッグの網膜を焼いた。
グレッグ達がのぼった廃ビルの屋上には涼やかな風が吹いていて、地面に寝かされたリサ・リエラの躯の横で赤髪の少女が項垂れているのが見えた。思わず視線を逸らすと、学生警備隊長、ジミー・ディランが、フェンスに寄りかかって火のついた煙草をくわえていた。
「エボちゃん、グレッグ。二人共お疲れ様。アリシアちゃんは、リエラちゃんの隣に寝かせてあげてくれないかな?」
「……はい。わかりました」
自分の上着で頭のあった部分が隠された遺体を、同じくエボニーの制服の上をかけられたリサ・リエラの隣にそっと置く。シャーリーの肩がびくりと跳ね上がり、彼女は両手で顔を覆うと、その場にしゃがみこんでしまった。
ジミーは普段なら隊員がいる場所ではすぐに火を消す煙草をそのままくわえたまま、静かな表情で中央エリアを見下ろしていた。
彼の視線を目で追うと、暴徒したデモ隊の一部が、店のショーウィンドウを叩き割り、商品を持ち逃げしていく光景が視界に飛び込んできた。
「彼らは……あの、デモ隊の人間ですよね?」
「治安維持隊がかつてないほどに機能していない、あるいは市民の皆さんがそう思い込んでいる以上、あれは必然だ。犯罪をしても、捕まえる人間がいないんだからね。中央エリアは今や、『魔が差した』だけで何でもできる、無法地帯と化している」
「下衆ね」
エボニーが吐き捨てるようにそう言ったが、ジミーがあの行為を実質『仕方がない』と見過ごしている理由は、グレッグも頭では理解できた。
結局のところ、日々の生活を守っているのは治安維持隊ではなく、治安維持隊の名前だったというわけだ。犯罪行為をすれば、治安維持隊に確保される。誰もがそう思っていることで、皆は暴力的な欲求を自粛する。
ある意味で、金銭と同じだ。信用が無くなれば、ただそれだけで機能を失ってしまう。
ジミーは吸いきった煙草を足元に落として、それを踏み消しながら、ビルの屋上に集った学生警備の面々を見渡して、口を開いた。
「二人の死は、僕の責任だ。謝っても意味はないけれど、それでも、謝らせてほしい」
「別に、謝罪なんて求めてませんよ。どうしようもなかったことぐらい、私たちもわかっています。それでもトップは責任を取る必要があるとかいう面倒くさい一般論は、全てが終わってからにしてください」
「……手厳しいね」
エボニーの返答に、彼は淡い苦笑を浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。
「正直、今の状況は僕たち学生警備の手に余る。上に連絡を取りたいところだけど、治安維持隊専用の通信システムは今機能していない。混線か、何か妨害を受けているのかは判断がつかないけどね。デモ隊の整備を一緒にしていた治安維持隊の隊員と合流どころか、彼らが無事かどうかすらわからない。でも、何もできないわけじゃない」
シャーリーが目元を無茶苦茶に拭って、その場に立ち上がる。それに対して頷きを返しながら、ジミーは続けて言った。
「まず、リエラちゃんとアリシアちゃんの二人を、このままにしておくわけにはいかない。君たちは二人を連れて、市民との接触を極力避けながら、第四高校を目指しなさい。あそこは医療を専門としているからね。流石にあのあたりなら騒ぎも少ないだろうし、遺体の保管も引き受けてくれるはずだ。負傷者の治療にもあたっているはずだから、もし第四高校が襲撃された時に備えて、現場の治安維持隊隊員とそのまま合流すること。いいね?」
ジミーの指示にエボニーとグレッグは無言で頷きを返した。シャーリーは赤く腫れた顔をジミーへと向けると、真剣な口調で問いかけた。
「君たちは、って言いましたよね。隊長はどうするんっすか?」
「僕は今回の事件の犯人を追う。既に、古い知人のうちの二人には連絡をつけた」
ジミーがそう言うや否や、彼の制服の胸ポケットに入れられたペン型の携帯端末が振動しだした。ジミーが手を触れると、ホログラムウィンドウが出現する。そこに表示された内容を確認して、彼は少しだけ頬を緩めた。
「レイフと御影君も、頑張っているみたいだね。行くべき場所のあたりがついた。彼らが来るのを待っている時間はないけど、僕ら三人なら、どうにかできるかもしれない。それから、最後にもう一つだけ」
彼はウィンドウを消すと、平坦な口調で続けた。
「今日この日が終わった後には、僕はもう、君たちの隊長ではいられなくなるだろう。これから先は、僕じゃなくて、エボちゃんの言葉に重きを置くように。いいね?」
「じゃあ、早速渡された権限を使って、やりたいことがあります」
エボニーが手を上げてそう言ったのに、ジミーが首を傾げると、彼女はパン! と手を打ち合わせて、満面の笑みを浮かべてみせた。
「さあ、みんな! これでこの地味野郎には何の権限もなくなったわ! 日々の鬱憤を晴らすがいい! 今、ここで!」
「……へ?」
エボニーの『命令』に、グレッグとシャーリーは顔を見合わせると、頷き合った。
「仕事サボりすぎてて、ぶっちゃけ上司として見てませんでした」
「あと、最近匂いがちょっときつかったっす。下水道でも歩いてたんっすか?」
「コイツの顔面を焼き払いたい衝動と、私はこの三年間、ずっと戦ってきたわ。今こそ実行に移すときよね?」
「……君たちねえ」
一瞬、ジミーは見たこともないような表情になって、首を振った。それに対しグレッグは、畳みかけるようにして続けた。
「それからアリシアには、『わけわかんない』の一言で済まされて」
「リエラ先輩は、狸寝入りで不参加っすね。ある意味一番辛辣っす」
「わかってはいたけど、君たち隊長に対する尊敬の念というものがだね!?」
「あるわけないじゃない」
「むしろ、欠片でもあると思っていたのが驚きですね」
「頭おかしいんじゃないっすか?」
「半分冗談でも半分本気だってわかるから心が痛い! くそう! もう絶対隊長やめてやんないからな! 少なくとも隊員報酬半減させてから出て行くからな! 絶対だからな!」
ジミーがわっと泣く真似をしながら、屋上の出口へと走っていく。その背中に、「武運を祈ります」とグレッグが呼びかけると、ひらりと手を振っただけでそのまま立ち去ってしまった。
「何と言うか、いつも通りっすね」
「そうしなきゃやってられないからな」
「まったく。せっかくの感動の場面が台無しじゃない。何考えてんのよあの地味親父」
「……」
グレッグがクスリと笑うと、二人もまた曖昧に笑い返してきた。
きっと、訪れた別れの時があまりにも突然すぎて、抱えきれなかったのだろう。
こうして二人の死は、日々の生活の中へと沈んでいく。
死者を救おうとしても、こちらが死者にならない限りはあちらに行けない以上、ただ前に進むしかないのだから。
エボニーがハンカチを取り出して、こちらに手渡してくる。それで頬についた血を拭うグレッグと、鼻をすすったシャーリーに対し、学生警備副隊長は少し震えた声で言った。
「私たちも、私たちにできることをするわよ。まだ何も、終わってなんかいないんだから」
※ ※ ※ ※ ※
治安維持隊の通信網。これは言いかえれば、治安維持隊内部における、個人情報共有システムと呼ぶこともできるだろう。要は、面識のない人間や部隊と連絡を取ろうとする際に、クラウドに保存された治安維持隊の個人情報データを利用して、他の隊員のアカウントナンバーを個人で保管することなく、通信を繋ぐことができる。回線を複数にすることも可能だ。
そしてこの通信網が断たれた際にも、二つ抜け道が存在する。一つはアカウントナンバーを使い、個人間で連絡を取り合うもの。そして二つ目は、さらに小さな通信網を使用することだ。具体的には、治安維持隊元帥であるヴィクトリア・レーガンと、超越者及び特殊部隊の直接の繋がりだった。
故にヴィクトリアは、テスタメント制圧作戦とはまた別件で中央エリアの各地に散っていた特殊部隊に片っ端から連絡をとって情報収集をした後に、超越者序列二位、レイフ・クリケットと通信を繋ぐことに成功していた。
円卓の人間のほぼ全てが、情報収集が不得手である特殊部隊からの曖昧な報告を四苦八苦しながらまとめているなか、ヴィクトリアはレイフとの通信を終えると勢いよくその場に立ち上がり、周囲の注目を引いた。
「レイフ・クリケット大佐から、敵の狙いが情報管理局であるという予測がもたらされた! 事態解決のめどはたたず、通信網が復旧する様子もない! もはや情報管理局の復帰を待ってはいられなくなった!」
あるいは、情報管理局そのものが寝返ったか、と心の中で付け加える。今でこそ治安維持隊の下部組織として収まっているとはいえ、諜報分野で法の縛りを無視して活動していた彼らと治安維持隊は元々犬猿の仲。現に、三年前のヨコハマ騒乱も、その実態は二組織の対立だったと言っても過言ではない。
あの騒乱で情報管理局の規模が縮小するのと同時に、穏健派のケース・ニーラントを局長として、さらには彼を円卓に迎え入れることで融和をはかっていたが……未だ過激派が、情報管理局内部に存在するのもまた確かだった。
もし仮に、今回の騒乱が情報管理局が仕掛けたものであるなら、治安維持隊としては文字通り腹の中から刺された形だ。できればそこまで話がこじれないことを望みたい。
「既に特殊部隊バレットを現場に向かわせている! 超越者は……」
ヴィクトリアがそこまで話したところで、八鳥愛璃が無言で椅子から立ち上がり、エレベーターの方へと歩いていった。
「待てよオラ。どこに行くつもりだ」
彼女と同じく超越者であるマイケル・スワロウが唸り声を上げる。八鳥愛璃はエレベーターの手前で立ち止まると、自分の椅子の上から動こうとしないスワロウを肩越しに振り返った。
「無論、情報管理局だ。諸悪の根源がそこにいるなら、某がそこに赴かない理由は無い」
「もし、いなかったら? 治安維持隊はお前という切り札を、無駄に消費することになる。ひとまずバレットとレイフさんに任せろ」
「……街の人間を、一人でも多く助けるというのは?」
「無理だ。市民が俺たちの敵か味方かの判別がつかない。そもそも、お前みたいな人切り包丁が誰かを助けるだって? 馬鹿も休み休み言えよ」
「ならば、このまま黙して、彼らが死にゆく様を見ていろと!?」
彼女が指し示した円卓の上に浮かぶ複数のウィンドウには、現在の中央エリアの有様が、リアルタイムで表示されていた。
明確な敵がいないという状況が、市民を疑心暗鬼に陥れ、治安維持隊と市民、あるいは市民と市民といった風に、対立構造が複数乱立し、もはやルール無用のキリリングフィールドと化していると言っても過言ではない。
けが人を保護しようとした治安維持隊の隊員がその家族に暴力を振るわれ、それを止めようとした隊員に全く関係のない赤の他人が殴りかかる。武器庫を潰したにもかかわらず、どこからか調達した拳銃を握る人間も複数いて、余りの混乱に目的もわからず暴れる若者の集団に発砲する。血が飛び散り、肉が潰れる。理由のない殺し合いが永遠と続くその場所がこの国の首都だと言われても、部外者には信じられない事だろう。
マイケル・スワロウはギリと歯ぎしりをすると、彼女の方を振り返って咆哮した。
「そう言ってんだ、いい加減わかれよ! 俺たち『最終』兵器が勝手したら、それこそ世界の終わりだろうが! ここに待機することが、今の俺たちの仕事なんだよ!」
「……クッ!」
八鳥愛璃の拳が、エレベーターのボタンのすぐわきに叩き付けられる。マイケル・スワロウはヴィクトリアのことをサングラス越しに睨みつけると、怒りを押し殺した声で言った。
「感情で納得できていないのは、俺も同じだ。くれぐれも判断を誤るなよ」
「無論だ」
弱音など吐くことは、許されなかった。
可能か不可能かの問題ではない。ここで頷かなければ、今や崩壊寸前の治安維持隊が本当の意味で機能不全になる。どんな状況でも前を向き続けることが、長としての仕事だ。
しんと静まり返ってしまった円卓に対し、窓際に立つルーク・エイカーが、一度咳ばらいをして言った。
「情報管理局に向かっているのは、特殊部隊バレット、そしてレイフ・クリケット大佐と御影君だね? 期せずしてテスタメント掃討作戦と同じメンバーになったわけだけど、他に動かせる駒はないのかい?」
「心当たりはあるにはある。だが、通信がつながらない」
「元第二十七特殊部隊のメンバーか。でも彼らなら、自分で動いているというのもありえるね」
ルークは右手の人差し指で眼鏡を押し上げると、あくまで事務的な口調で続けた。
「中央エリアの混乱は、自然におさまるのを待つしかない。首謀者を見つけ出すことが最優先だ。そして気が滅入るようだけど、この事件はきっと、まだ過程の段階だ。リ・チャンファは捕まらず、ボクシはいまだ表舞台に出ていない。だが、だからこそ、冷静さを保つことが必要だ」
※ ※ ※ ※ ※
Yの二十八番道路横のビル群の屋上を、超局所的な強風を後ろから吹かせることで、文字通りレイフと共に飛び移っていきながら、御影はレイフの横のホログラムからの言葉に、顔を引きつらせて叫んだ。
「ホント、現場の気持ちとか考えずに正論まき散らすな、あの白服は!」
「だが事実だぞ!」
「わかってるよ! それでも腹が立つものは腹が立つんだ!」
いつものフリーランニングの要領で、次から次へと出てくる段差や給水塔などといった障害物、建物と建物の間を飛び越えていく。恐るべきは御影の横を追随するレイフで、彼は御影のサポートほぼ抜きでこちらと並走していた。
「屋上づたいに行くのも限界がある! どこかで地上に降りねえと!」
「なるべく人のいない道を選ぶ必要があるが……情報管理局があるのは、SCの二十五番ブロックだ。デモ隊が暴れまわったという場所にほど近い」
「最悪蹴散らしてでも進むしかないってか! あるいは四月みたいに下水道か?」
「本当にそうなってしまうかもな。……っと! そうこう言っているうちに、終点に辿り着いてしまったようだ!」
十数メートルに渡って宙を飛び、その先に同じ高さの建物が見当たらない、最後のビルの屋上に二人同時で着地する。前方から強烈な向かい風を吹かせて体全体にブレーキをかけるも、膝が衝撃で、足の裏が摩擦熱でいかれそうになって、御影は体が静止するや否や苦悶と疲労の表情を浮かべてその場に倒れ伏した。ちなみにレイフはというと、涼しい顔で寝転がる御影の隣に立っていた。
「ヴィクトリア。このまま通信は繋いでおいて構わないか?」
『ああ。ディランにもルーベンスにも連絡がつかないからな。ひとまずはいい』
「彼らから連絡が入った場合にはどうする?」
『そんなことをするほど殊勝な連中じゃないだろう。だいたい、個人間の通信でも、複数人のものにすることはできる。あるいは、音声のみ共有したりとかもな』
「そうか」
通信越しにヴィクトリアと頷き合うレイフを眺めつつ、何とか息を整えることに成功した御影は、コンクリートの上から跳ね上がるようにして立ち上がった。
「これからどうする?」
「そうだな。ヴィクトリア。現在の位置情報を送る。情報管理局に行ける地下道のルートがないか、探ってくれないか?」
『すぐにすむ。地下道に対する警備を四月一日から強化したからな。お前のお陰だ、御影奏多』
「そりゃどうも」
憎まれ口をたたきつつも、御影はビルの下から聞こえてくる怒声と悲鳴に対して何もできない現実に、唇を強く引き結んだ。
レイフは相変わらず無表情に、じっと情報管理局のあると思われる方向を見つめている。彼の右腕が、明らかに普段よりも動きがぎこちないことも、今の御影にはどうすることもできない、取り返しのつかない過ちだった。
※ ※ ※ ※ ※
SBの二十三番ブロック内の、裏路地。
飲食店の排煙管等のパイプが壁に所狭しと並ぶ建物と建物の狭間を、ジミー・ディランは口にくわえた煙草の先から上がる煙をたなびかせて進んでいく。
室外機から出てくる生温い風が足元に吹き付けてくるのに顔をしかめながら、彼は特に迷うことなく入り組んだ隘路を進んでいった。
表の世界がどうなっていようが、この場所は何も変わることない。暗く、じめついたその空間は、無法者のたまり場であり、ジミーのような人間にとっては密談や移動のために使用できる貴重な場所だった。
T字路上になっている突き当りまで来たところで、ジミーのこめかみに音もなく拳銃が突きつけられた。ジミーは慌てることなく口から煙草を手に取ると、灰を落としながら、自分に銃口を向ける男に向かい微笑を浮かべた。
「やあ。久方ぶりにあったような気がするよ、ルーベンス」
「……お前か」
ルーベンスは肩の力を抜くと、拳銃を下ろした。ジミーは煙草を近くにあった水たまりの中へと放り込みながら、片眉を上げた。
「君、拳銃は苦手じゃなかったっけ? 大体、一般隊員が持つことは許されていないよね?」
「二つ訂正だ。一つ。俺は拳銃を使わないだけで、苦手ってわけじゃない。もう一つ。この銃は俺のものじゃない。その辺に居た奴から奪い取ったものだ」
「へえ? 確かに、何でもない一般人様が拳銃を持っていて、妙だとは思ったんだ。ちょっと渡してくれるかい?」
ジミーがそう言うと、レイフは無言で銃口を自分の方へと向けて差し出してきた。
手を出して、それを受け取る。思いのほか軽い。手触りも、通常のそれとはまったく違った。
「おもちゃみたいだと思ったか?」
「まあね」
「それは半分正解だ。今の拳銃はアカウントナンバーを利用した登録が必要な上に、ロンダリングされた銃をしこたま蓄えた武器庫は潰された。それなのになぜ銃が、しかもよりにもよって一般人に出回っているのかと思っていたんだが……」
「これ、もしかしてプラスチック製?」
「正解だ。3Dプリンターってやつを聞いた事があるか? 文字通り、二次元ではなく三次元的な物体を『印刷』するものだ。データさえあれば、液状の樹脂を積層させることで、望みのものを作り上げることができる。ここで重要なのは、3Dプリンターさえあれば、データ化されたものは何でも作れるってことだ」
「なるほど。そのデータが、ネット上でばらまかれたわけか。その……3Dプリンター、だっけ? 一度失われた技術が再生するスピードはまちまちで困る」
「最近職場でも話題になっていたんだがな。やっぱ、人を殺せる力を持つ超能力者の存在が問題にされて、同じ力を持ちたがる奴が増えていたんだと」
「それで、七月七日という記念日にそれを持ち歩く方が続出、か。もう少し早く取り締まれたらよかったんだけどねえ」
「流石にデータの取り締まりは難しいし、それは結果論だ」
「わかっているよ。愚痴だよ、愚痴」
ジミーはそう言いながら笑うと、ルーベンスが渡した銃を懐にしまい、また新たな煙草を口にくわえてライターで火をつけた。
薄暗い空間に、小さな輝点が眩しい。ルーベンスは目を細めてジミーに問いかけた。
「身内が死んだか?」
「学生警備の二名がやられた。そっちは?」
「わからない。混乱にもろに巻き込まれて離散したうえに、あの通信障害だ。だが……アイツらが生き残るのは、難しいかもな」
「そうか。お互い大変だったねえ」
「そんな目にあって、そんな言葉で済ませられるのはお前くらいだよ、ジミー」
ルーベンスが苦笑を浮かべながらそう言うと、路地の奥、ルーベンスが身を隠していた方から足音が聞こえてきて、段々と大きくなってきた。
どうやら、自分達二名をこの場に招いた張本人が、遅れて来たらしい。正直苦手な相手だと若干緊張するジミーの視界に、その人物の姿が飛び込んできた。
艶やかな紺のチャイナドレスに、煙管の先から少し見慣れない色の煙を昇らせた、一人の女。
超越者序列六位、リ・チャンファは、二人の姿を認めると、薄桃の唇の端を持ち上げた。
「助かったよ、二人共。ちゃんと、私のお願い通りに集まってくれて、さ」
「貴女とは、ヨコハマ騒乱以来でしたか」
ルーベンスが少し姿勢を正して、彼女に向かって軽く頭を下げる。
ジミーもまた一時期彼女と共同戦線をはっていた時期はあったが、結局最後まで慣れ合う事はなかった。だがこういった異常事態では、彼女は最高のパートナーだと言えよう。
リ・チャンファは煙管を口から離すと、煤だらけの路地に顔をしかめながら言った。
「通信で伝えた通り、恐らく今回の件の首謀者、あるいは共犯者が円卓に紛れ込んでいる。よって、私たちは治安維持隊とは別行動をとる」
「それはいいけどさ。何でヴィクトリアとも決裂しているんだい? 少なくとも彼女は、信用に値すると思うけど」
「相変わらずなれなれしいね、ジミー・ディラン。アンタに能力がなければ今すぐ『潰して』やるんだけれど」
「ハハハ。姉御は相変わらず、冗談がきついようで」
「その呼び方はやめろって言っただろう。本気で死にたいのかい?」
「……いや、その、はい。すみません。ちょっと調子に乗りました」
ジミーが身震いしながらホールドアップする横で、ルーベンスが呆れたように鼻を鳴らす。リ・チャンファは煙管をもう一度くわえると、勢いよく煙を吐き出して舌打ちした。
「ヴィクトリアはともかくとして、今の円卓がまったく信用できないって言うのは、アンタらも同意見だろ?」
「まあ、それは確かに」
ルーベンスが同意する横で、ジミーもまた首肯した。
「とりあえず可能性としては、情報管理局が裏切ったか、あるいは乗っ取られたか、はたまた治安維持隊も全部ひっくるめての計画だった、ってとこだろうねえ。騒動の規模があまりにも大きすぎる。かなり上の人間が噛んでいると見た方がいい」
「だから私たちは、私たちで行動する。文句はあるかい?」
「もちろん。構わないよ」
「俺もジミーに同じくだ。何にせよ、超越者が味方にいるっていうのは心強い」
そう言いながらルーベンスが愛想笑いをすると、リ・チャンファは彼をきっと睨みつけた。
「何呑気な事言ってんだい。三人の中では、アンタが一番重要なんだよ?」
「元情報管理局局員として、施設の案内ですね。ハイハイ、わかりましたよ。でも、古い知人にも通信が繋がらないし、どこまで役に立てるかわかりませんよ?」
ブツブツと文句を言いつつも、ルーベンスは二人に背を向けると、ついてこいと身振りで合図していた。
そんな彼の様子に苦笑して、喫煙者二人組がそれに追随する。
位置的にレイフよりも先に管理局に辿り着くことになるだろう。ジミーはそう心中で独り言ちて、思いっきり息を吸い込み、煙草の煙を肺の中に流し込んだ。
※ ※ ※ ※ ※
都市を、それも首都を崩壊させる。最初にそれを聞いた時、彼女は解放者の正気を疑ったが、あの人の思考はその更に上を行っていた。
意味のない殺しを、人は止めることはできない。だからこそ、そこに意味を見出すことが可能である。屍の山を築き、血の河を流し、全てを足蹴にしてこそたどり着ける場所が有る。
そう。あの人は、最初から自分達と視点が違ったのだ。
とあるビルの屋上に、彼女の、半ば狂気的な笑い声が響き渡った。
彼女には、名がなかった。いや、呼び名はあったが、アイデンティティがなかった。目的がなく、意味がなかった。
能力は誰よりもあるという自負があった。彼女の専門は機械工学。趣味で作ったもので、大学や企業が作る機械類のスペックを遥かにしのげるという自己評価は、自惚れでもなんでもなく、ただの事実だった。
ただ、その能力を使う場所が、どこにもなかった。いや、あるにはあったのだろう。だがそこに辿り着くにはまず、場所を探す能力が必要だった。誰かと話し、通じ合って、人脈というやつを築き上げていく必要があった。
それが、彼女には耐えがたかった。知能のある生命体としては、純粋なる個としては、生半可な人間よりも優れていた。だが、集団の中に溶け込むことは、彼女にとっては至難の業だった。なぜって、誰もが自分と『違う』。致命的に、異なっている。妥協しようが場所を譲ろうが、思考形態をまったくもって共有できない。本当に同じ人間かと勘ぐってしまうほどに。
人間だけではない。空気もまた、煩わしい。何かを当然とされることに納得できず、何かを自明とされることが理解できず、世界が一つしかないことが耐えられない。
何もかもが間違っているという確信があり、そしてその確信が、間違っているのは自分の方だと変化するのには、そう時間はかからなかった。
学校には通えなくなり、両親の顔も見れなくなった。漠然とした不安におびえる日々が続き、リストカットを試みたことも何度もあった。もっとも彼女には、自らの体を傷つける勇気すらなかったのだが。
そんな時に、彼女に出会った。
何もかもを極めた、最優の人間にして、ただの無垢な少女でもある、異常の中の正常。
染めているわけでもないのに銀色に煌く、美しい髪。時折零れる笑みはあたかも紅の花弁のよう。彼女に見とれ、彼女に見ほれ、その下に多くの人間が集った。
超能力者とは全く別方向の異能集団、『ミュージアム』。
そこは楽園でもなかったし、天国とも言えなかったが、彼女が初めて手にした居場所だった。
才能が集い、才覚が目覚める場。目的もなく、勝手気ままに、それぞれの芸術作品をくみ上げて、評価し合い、あるいは無視し合う、理想的かつ破滅的な、暇を潰すための場所が、確かにそこに存在したのだ。
『でも、それは簡単に崩壊した! 絶対的だった彼女は、国にあっさりと敗北した!』
当時の喪失感と屈辱を思い出し、彼女はギリギリと歯ぎしりをした。
周りに並べられた機械類の一つ、軍用のそれよりもずっと小型化し、かつ性能を上げた小型ドローンの表面を撫でて、気持ちを落ち着かせる。その隣には、狙撃銃の取り付けられた小型の戦車が。さらには、周囲の様子を正確に把握するレーダーシステムもまた置かれていた。
これらは全て、机上の空論に過ぎなかった。設計図を描き、プログラムをくみ上げ、実験も繰り返したが、結局のところそれは前述のとおり、芸術でしかなかったのだ。
だがそれに意味を与える喜びを、彼女は知った。
それは、再結集した他の『ミュージアム』のメンバーも同じだろう。リベレイターは、彼女たちに『駒』としての意味を――。
「治安維持隊大佐、レイフ・クリケットだ。何やら感動にむせび泣いているところ悪いが、少し質問に答えてもらいたい」
知らない男の声が聞こえたと思ったそのときには、彼女の後頭部に拳銃の先が押し当てられていた。
一瞬、恐怖で体が震えたが、すぐにそれもおさまった。こうなることは、最初から予期していた。だが後悔はない。自分は、リベレイターの役に立って、それで死ねるのだから。
「解体されたはずの『ミュージアム』のメンバーが再結集していたとはな。反転の大樹が盗まれたことまでは掴めたが、まさか組織ごと乗っ取られていたとは。一体何があった?」
「……」
「貴様でもう五人目だ。デモ隊を狂暴化させていた話術師も、銃を手当たり次第に配っていた背徳的クリエイターも、暴徒を率いて治安維持隊相手に暴れていた反則闘士の兄弟も、全員無言を貫き、そのまま私に殺されることを是とした。いい加減答えてもらいたいものだ」
「そうですか。彼らも死にましたか」
「ほう? ようやく口を開いたか。確かに貴様は、七年前も異常の度合いが低かった。コミュニケーション能力がまっとうに発達したようで何よりだ」
「戯言を……ッ!」
「『ミュージアム』とは、知性と理性、そして感性を磨き、他の誰よりも腐敗しながら、掃きだめの美徳を追い求める、そんな輝かしい愚か者の集まりだったと記憶していたが、テロリストに成り下がるとは。外れた人間は、どこまでも半端者でしかないという事か」
「黙れ! お前に何が分かる!」
どうやらこの男は、ミュージアムと浅からぬ因縁が存在するらしい。おそらくは、あの組織を崩壊に導いた治安維持隊の担当者の一人だったのだろう。
だが、たとえどんな立場だろうが、外の人間にミュージアムを語る資格はない。
「あれは結局、偽りの理想郷に過ぎなかった! リーダーがなぜ、あの組織にミュージアムと名付けたかわかるか!? あの場所は、リーダーにとっては文字通りの博物館だったからだ! 私たちはただの収集物で、彼女は私たちを人間として見ていなかった!」
「……なるほど。そのリベレイターとやらに、君たちはそうやって唆されたわけか。悲しいよ。その収集物を、僕は誰よりも、人間として愛していたというのに」
「……え?」
見知らぬ男がいるはずの空間から、涙が出るほど懐かしい、あの女性の声が聞こえてきた。
反射的に、後ろを振り返る。既に傾き始めた太陽の光に揺れる、銀の輝きが目に飛び込んできたその瞬間、額に銃弾を叩き込まれ、彼女の視界は暗転した。
※ ※ ※ ※ ※
中央エリアの街が、夕焼けの中に沈みつつあった。
あの日、あのときに、人間を極めし人間である彼女が、彼に向けて発砲したときと、そっくり同じ色に、全てが染め上げられていく。
彼女、ボクシは、頭の半分を吹き飛ばされた女の死体から目を背けると、そのとなりのフェンスに寄りかかって、その場に座り込んだ。
「……誰だ」
額に当てられた手が、クシャリと銀の髪を潰す。彼女は脳裏に自らが愛し、そして殺害した者達の顔を思い浮かべながら、右手の銃のグリップをあらん限りの力で握りしめた。
「私の全てを奪ったのは、誰だ!」
※ ※ ※ ※ ※
SCの二十五番ブロック。
情報管理局という呼び名からは想像しづらいが、管理局の建物はそこまで仰々しいものではなく、ごく普通の会社の建物とそう変わらない。ビルとすら呼べないほどだ。それもそのはずで、諜報を生業とする彼らは、極論コンピューターさえあれば仕事ができるため、設備的にはそれほど恵まれていないからだ。
主要ブロックから四キロほど離れた場所にひっそりとある管理局だが、それでも最低限の警備は存在する。敷地に入るための鉄門は、いつも閉められているはずだったのだが。
「……全開だったね」
ジミーが思わずそう呟いたように、情報管理局の出入り口は完全に解放されているうえに、警備員の姿すら見当たらなかった。
立方体に近い管理局の建物へと、目を向ける。ブラインドこそ閉じられているが、正面から堂々と入ろうとしているのだから向こうにもこちらの姿は見えているはずなのだ。そもそもにおいて、人の気配というものが感じられない。
「これはどういうことだい? 管理局の人間はどこにいるのさ?」
「まあ普段から施設に籠っている陰気な集団だけど、それにしても静かすぎるねえ」
いぶかしげな顔をするリ・チャンファにジミーがそう返していると、ルーベンスがこちらの肩を叩いて、門のすぐ横にある小屋のような建物を指さした。
施設の警備員用の小屋だろう。情報管理局の第一の受付と言い換えることもできる。中に人の姿は見当たらず、そして窓には、血痕がべったりと付着していた。
「……」
嫌な予感がするどころの騒ぎではなかった。
ジミーは一言も発することなく門を潜り抜けて走り、警備室に辿り着くと扉を蹴破るようにして中に入った。
最初に目に飛び込んできたのは、予想通り床に放置された警備員の死体だった。喉を刃物で切り裂かれ、その表情は最期の瞬間まで苦しんでいたことをありありと物語っていた。
そして次に見えたのは、警備室に浮かんだホログラムウィンドウの群れだった。それが管理局の建物内の監視カメラ映像であると瞬時に看破したジミーは、そこに広がるあまりにも現実離れした光景に絶句してしまった。
どこを見ても、死体しかなかった。
管理局の青の制服を紅に染めて、幾人もの人間が折り重なって倒れている。廊下。コンピュータールーム。談話室。全ての場所の人間が物言わぬ物体と成り果てていることを確認したジミーは、呆然と首を振った。
裏切ったわけでも、システムを乗っ取られたわけでも、機能不全に陥ったわけでもなかった。
情報管理局の局員は全員、一人の例外もなく鏖殺されていた。
「一体、何が――」
突如、激甚な衝撃が、ジミーを貫いた。
ほぼ反射で能力を発動した直後に、彼の体は警備室を突き破って外に飛び出し、高々と宙を舞っていた。流石に衝撃を拡散しきれず、ありとあらゆる場所の骨が砕けた感覚があった。
凄まじい痛みに意識を飲み込まれかけながらも、空中で体を捻り警備室へと目を向けた彼は、さらなる混乱に見舞われた。
大型トラックが、ジミーの死角に当たる場所から突っ込んでいた。能力を発動するのがあと少しでも遅れていれば、彼の体は肉塊と化していたことだろう。だがそれでも、生死が危ぶまれるほどの重傷を負ったことに変わりは無かった。
コンクリートの上に落下して、何度も転がった挙句に静止し、ジミーは横たわった状態でたまらず吐血した。呼吸をする度に、肋骨が軋む音がした。
そして、茫漠と霞む視界の中で、新たな血しぶきが上がった。
ジミーの視線の先で、ナイフで喉を切り裂かれたリ・チャンファが、糸を切られた操り人形のように、力なくその場に崩れ落ちた。
横たわる彼女の体が、血だまりの中に沈んでいく。こちらへ向けられた彼女の眼は、既に何も映していなかった。
刃を振るったその男は、彼女の傍らに屈むと、ナイフについた血を彼女のチャイナドレスで拭って、吐き捨てるように言った。
「まったく。お前らは優秀すぎるんだよ。少しぐらいこっちの思い通りになれってんだ」
彼、ティモ・ルーベンスは、ナイフを握った手の甲で頬の血を拭い、亜麻色の髪を揺らしてその場に立ち上がった。
「そういうわけで、今回の事件の黒幕は俺だよ、ジミー。驚いたか?」
「……驚いたよ。本当にね」
ジミーが荒い息を繰り返しながらそう呟いたのを、ルーベンスは鼻で笑った。
「嘘つけ。お前、最後まで俺のことを疑っていただろうが」
「買い被りすぎだよ。疑ってなんかない。だから、とても悲しいよ、ルーベンス」
「そうかよ」
ルーベンスは肩を竦めると、目にもとまらぬ速さで手にしたナイフをジミーへと投げつけた。
それは過たずジミーの額にめがけて飛んできたが、突き刺さる寸前で深緑の過剰光粒子が散り、鉄板に当たったような金属音を上げてナイフが跳ね返された。忌々し気に舌打ちするルーベンスに、ジミーは今にも消え入りそうな意識を何とか保ちながら口を開いた。
「一つ、聞こうか。君はいつから、僕を裏切っていた?」
「裏切った、か。その質問は少し的外れだな。だが、いつから騙していたかなら話は簡単だ」
ルーベンスは地面で痙攣を繰り返すリ・チャンファの体をまたいで、ジミーへと歩み寄ると、唇の端を皮肉気に持ち上げた。
「七年前。つまりは最初からだよ、元同僚」




