第二章 地の底-2
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「……は?」
何とも間の抜けた声が、自分の口から漏れ出るのを御影は聞いた。
ありえないと思った。ただ単純に、それはあってはならないことだという、確信があった。
「……」
両手両足が震えだし、徐々に徐々に抑えが効かなくなっていく。たまらず御影はその場に膝をついたが、腕は別の生き物と挿げ替えられたかと思うほどに動きが止まらない。
喉が、カラカラに乾いていく。全身から血が抜かれていくような、喪失感。まき散らされたステンドガラスの欠片たちにかかる、赤の液体。視界が全てその色に染まっていく。
「あ……あ……ああッ!」
赤子のように四つん這いで彼の元に駆け寄ろうとしたが、体の力が抜けてしまって、うまく前に進めない。
手足のいたるところに、先刻御影自身が破壊した窓のガラスが突き刺さる。だが、痛覚がまるでない。頭の中が、混乱と焦燥で塗りつぶされてしまっている。
「そんな……」
御影は自分でもわからないうわ言を繰り返しながら、ずるずると床を這いずっていった。
「嫌だ。嫌だ、嫌だ! ……また!」
また、『あれ』を繰り返すのか。
コンクリート。破片。赤い血だまり。
背中から血を流して、動かない一人の少年.
誰一人救われず、誰一人助けられず。
どん詰まりの、終着駅。
ぐらりと、視界が揺らぐ。
どこか遠くに、意識が落ちていくような感覚に襲われる。
遠く? いや、違う。己が魂がどこかに吸い込まれそうになっている。……それを俺は、誰よりも知っている。
金色に輝く閃光が脳内で弾けて、思考回路が停止していき、自分という存在、何もかもが砕け散っていって、その破片の中を、何かが浮上していって、そして――。
――意識が、入れ替わる。
「また繰り返すのか、僕はッ!?」
「うろたえるな! 御影奏多!」
鋭い叱責の言葉に、御影は現実へと引き戻された。
ハッとして顔を上げた次の瞬間、極薄の鏡の壁が銀の粒子と共に消滅し、その場に片膝をついて蹲っていたレイフ・クリケットが動いた。
左手でアーリックマンの手首を取って捻り上げ、銃から手を離させる。続けて苦痛の悲鳴を上げる彼女に足払いをかけ地に倒し、左拳を鳩尾に叩き付けた。
アーリックマンの目が裏返り、ほんの少しだけ吐しゃ物をまき散らして意識を失った。レイフ・クリケットは右肩を左手で庇いながらその場に立ち上がった。
「かすり傷だ。気にするな」
「でも……でも!」
「うろたえるなと言っただろう! 今は私の身などどうでもいい!」
再びの、叱責。それは一度目にも増して、御影の心の奥底まで突き刺さり、深い傷を残した。
思えば、こうしてレイフが御影に対し声を荒げるのは初めてだった。
厳しい言葉も投げかけられたし、何度もこちらの不出来をたしなめられた。だが、こうして正面から否定されることは無かったのだ。
甘かった。
結局のところ、『恵まれた子供』の『平和ボケ』を、後生大事に抱えたままここに来てしまっていたということだ。
ティモ・ルーベンスの言う通りだ。御影奏多という人間には、何の覚悟もありはしなかった。
いつの間にかテスタメントとの戦いは終結しており、レイフの荒い息が静寂の教会に木霊していた。
超越者が。それも、無敵の不沈艦とまで呼ばれた序列二位が負傷したという事態に、バレットのメンバーのみならず、リ・チャンファも顔を青ざめさせている。作戦はほぼ成功に終わったというのに、あたかも通夜か何かのような雰囲気だった。
「全員、傾聴!」
だが、その凍り付いた空気を、直接の原因であるレイフが真正面から叩き割った。
彼は右肩を抑えたまま、両目を何かに対する闘志で爛々と光らせて、半壊した教会に佇む治安維持隊隊員を睥睨し、大きく息を吸った。
「特殊部隊バレットの人間は、テスタメントメンバー、及び御影奏多を連れて速やかに教会の外へ移動せよ! リ・チャンファ! 貴様は私と共にこの場に残れ! そして……」
レイフはそこで一度言葉を切ると、御影の方をまっすぐに見つめて、一言一言噛んで含めるように言った。
「本作戦はほぼ理想通りの結末を迎えた。治安維持隊、そしてテスタメント側にも死者が出ることはなかった。これは紛れもなく、ここにいる全員で勝ち取った成果だ。それを忘れるな」
「だけど、レイフ! 僕はあなたを……ッ!」
あと少しで、死なせてしまうところだった。
何の覚悟も、無いままに。
「ほら! 呆けるな、元テロリスト! 行くぞ!」
バレットの隊員の一人、ラーマンが、床に散らばったステンドグラスの破片を、靴底で砕きながら近寄ってきた。
だが、呼びかけてもなお動こうとしない御影に、彼は愛想がついたというように首を振ると、御影の体に右手をまわし、小脇に抱えて走り出した。
「ちょ! お前!」
「悪いが、お前の葛藤に付き合っている暇は無いんだよ! 俺の想像が正しければ、これはマジでヤバい! 三十六計逃げるに如かずだ!」
「何だって?」
彼が何を言っているのか、わからなかった。
だが、どうでもよかった。
ラーマンの足が地を踏みしめるたびに、視界の地面が上下に揺れる。
何とも言えない酩酊感に頭を揺さぶられながら、御影は教会の中央部に佇む二人の超越者の姿を、ぼんやりと眺めていた。
※ ※ ※ ※ ※
煙の筋が、手にした煙管の先から、天井へと伸びていた。
超越者序列六位、リ・チャンファは、煙管を逆さにしてまだ燃えている煙草の葉を床に落とすと、チャイナシューズの底でガラスの破片ごと踏みつけて火をもみ消した。
本当に、想定外の事態だった。うまくいかない可能性は考慮していたが、気付かれるばかりか、妨害されるとまでは予想していなかった。
やはり、こちらも焦っていたのだろう。彼女は深々とため息を吐くと、しぶしぶ目線を隣へと移した。
そこでは、同じ治安維持隊隊員であるレイフ・クリケットが、左手に持った銃をこちらの眉間へと真っすぐに突きつけていた。
「……どういうつもりだい、レイフ?」
「どういうつもりか、だと? それはこちらの台詞だ、リ・チャンファ」
誰もいなくなった教会の中央部で、二人は向かい合っていた。自然体で構えるリ・チャンファに対し、レイフはいつでも引き金を引けるような臨戦態勢だ。だが、右肩の傷が思いのほか深手なのか、彼にしては珍しく息がかなり乱れていた。
「御影奏多は未熟だ。実際、先ほどは致命的なミスをおかした。だがそれは、貴様が誘発したものだ。敵を取り押さえようとする仲間に対し、『放っておけ』と言う痴れ者がどこにいる。いや。仮にいたとしても、それは貴様ではありえない」
「買い被りすぎだよ。私も、油断していたのさ」
「戯言を。数々の反社会的組織に潜入し、正体を悟られることなく要人を暗殺、かつ組織を壊滅させてきた貴様が油断だと?」
「そうだよ。……まさかこの私が、御影奏多を殺し損ねるなんて、思ってもいなかった」
リ・チャンファはそう、何気ない口調で言って肩を竦めた。それに対しレイフは、目の色を完全に敵に対するそれへと変貌させた。
「貴様の呼びかけにより隙を見せた御影奏多は、アーリックマンに拳銃で撃たれる寸前にまで追い込まれた。だが、それだけなら十分カバーできた。この私が、素人の銃弾にあたるはずがない。私が出現させた盾は、確かに彼女の放った銃弾を防いでいた。その、はずだった」
傷口が疼いたのか、レイフはそこで一度言葉を止めると顔をしかめた。元々赤の制服に血が滲んでいく様子を、リ・チャンファは焦燥感と共に見つめていた。
「私を負傷させた攻撃は、前ではなく真上から来たものだった。私の肩にぶつかったのは銃弾ではなく、天井から落ちてきた、超重量の何かだ。おそらくは埃の塊だろう。その場にいた御影奏多を、銃弾と共に確実に殺すためのものだった。そうだろう? リ・チャンファ。あれは、『質量増減』の使い手である貴様にしか打てない一手だ」
「その通り。私は、作戦のどさくさに紛れて、御影奏多を殺害する予定だった。最初っからその機をうかがっていたんだけどねえ。思いのほかあの子の指示が的確で、作戦がトントン拍子に進んでしまって、正直焦ったんだよ。だから無理にでも、『殉職』したと偽れるような状況を作り出したんだけど……今思うと、やり方が少し下手だった。私も衰えたもんだよ」
あるいは、御影奏多を完全になめていたと、言い換えるべきだろう。四月一日の話は聞いていたが、あくまで子供であり、まったく使い物にならないだろうと高をくくっていた。
御影奏多の注意の引き方もそうだが、レイフがいみじくも指摘したように、彼を確実に殺害しようと自らの能力も発動させていたことが完全に裏目に出た。
だがそれでも、目の前の男がいなければ、御影奏多は殺害できていたはずだった。バレットもまた、薄々察したのだとしても、上の意向なのだろうと沈黙を選択しただろうに。
「この状況は私も不本意だ。私が彼の殺害を試みたのは、それが上からの命令だったからだ。いつも通りにね。評議会と手を結んだとは言え、円卓としては彼が生きていることそれ自体が面白くない。だから私に暗殺させて、作戦中に敵に殺されたと偽造しようとした」
「上からだと? 私たち超越者を監督できるのは、レーガン元帥ただ一人だ。そして六月、彼女は私にこう言ったぞ。最初に出した命令、御影奏多の護衛の任務だけは、何があっても遵守しろと。その彼女が、御影奏多の殺害命令を出したと、そう言いたいわけか貴様は?」
「情報が行き違ったんじゃないかい?」
「子供とは言え、複雑な立ち位置にある彼の生き死に関わる情報がか? 馬鹿も休み休み言え」
「……」
張り詰めた空気が、二人のいる空間を満たしていった。
太陽は既に高く上り、教会内部を暖色に染め上げている。外から吹き込んでくるそよ風が、窓枠にへばりついたガラス片に切り裂かれて、甲高い音を上げていた。
ジワリと、煙管を持った手に、嫌な汗がにじんでくるのがわかる。心中で大きく舌打ちし、リ・チャンファが煙管を手放した次の瞬間、二人は同時に動いていた。
レイフは拳銃を持つ手に込める力を強くしたが、突如目を大きく見開くと、銃があたかも熱せられた鉄塊へと変貌したかのような勢いで手を離し、後ろに飛びのいた。
拳銃が落下し、凄まじい破砕音と共に、教会の床を大きく陥没させる。その周りに舞い散るローズピンクの輝きにレイフの目が引き付けられた一瞬の隙をついて、リ・チャンファは空いている窓の一つへと走っていった。
「待て! 貴様!」
レイフが右手に持った円筒を左手に持ち替え、その先から刃を出現する。それと同時に、こちらの行く手を遮るようにして、無数の刃が床から生えてきた。
先ほどと同じように、自らの体重を十分の一以下にし、床を蹴りつけることで軽やかに宙を舞う。そのまま剣の群れを飛び越えて、割れた窓から外へと飛び出す寸前に、彼女は教会の天井へと意識を集中させた。
彼女が何をしようとしているのかを瞬時に察したレイフが、四枚の三角形の壁を組み合わせてピラミッド型とし、自らの姿を覆い隠した。
直後、リ・チャンファの操作により天井の重さが倍以上とされた教会は、耳を引っ掻くような鉄筋の軋む音を上げたと思うと、一瞬で全壊し、辺りに粉塵と衝撃をまき散らしていった。
※ ※ ※ ※ ※
「ほ、報告です、元帥! ララ・アーリックマンを含むテスタメントメンバーを拘束することには成功しましたが、作戦終了間際に、レイフ・クリケット大佐が御影奏多を庇い負傷したと!」
「ハア!? 冗談だろ!?」
エンパイア・スカイタワー最上階。
現在の円卓の実質ナンバー2であるフェリシアン少将からの報告に、ヴィクトリアは思わず素の驚きの声を上げてしまった。
だが、それも無理のない事だろう。レイフ・クリケットといえば、超越者序列二位にして、全ての作戦を『解決』へと導く、最優の兵士。防御力だけで言うなら第一位をも凌駕する彼が、こう言っては何だが、素人集団であるテスタメントを相手に負傷など、御影奏多という『荷物』がいることを考えてもありえない事態だった。
「一体何が起きた? 状況を説明しろ!」
「それが……報告して来た、バレットのメレディス・ハート隊長も混乱しており、話が錯綜しています。わかっていることは、負傷した直後に、クリケット大佐がバレットに御影奏多を連れての撤退命令を出したこと。正門付近まで退避したところでこちらに連絡を入れたのですが、その途中に教会が崩壊し、今はそちらの対応に追われている状態で……」
「教会がぶっ壊れたあ!? ……おい、待て。それだけの被害が出たってことは、超能力者が暴れたって以外にあり得ないぞ。その話から察するに、教会にはレイフとチャンファの二人が残ってたってことだよな」
「そうなりますが……まさか、四月一日と同じく、新たな超能力者の戦力が?」
「そこまではわからん。情報が足りなさすぎる。追加の情報が入ったら、即時連絡しろ!」
「はっ!」
フェリシアンが戸惑いの表情を浮かべながらも作業に戻っていったのを確認したヴィクトリアは、例によって椅子の上に身を投げ出すようにして座った。
木製の椅子が抗議の悲鳴を上げるが、正直気にしている暇はない。十中八九作戦は成功するだろうと踏んでいたのが、まさかかつまたもやの想定外。それも、序列二位の負傷。感覚としては爆弾を円卓に直接投下されたような衝撃だった。
つまりはそれだけ、レイフ・クリケットという人間を信用し、頼り切っていたということだろう。苛立ちに拳を卓上に叩き付ける衝動としばらく戦っていたが、ふと後ろに佇む補佐官の事が気になり、彼女はそちらを振り返った。
ザン・アッディーンが、何やら難しい表情でホログラムウィンドウを見つめている。とそこで、ヴィクトリアの訝し気な視線に気がついたのか、彼は少しだけ顔をしかめた。
「いや。今回の件と、関係ないとは思うのだが――」
※ ※ ※ ※ ※
中央エリア。西。Eの二十一番ブロック、第一高校。
五階奥に位置する、生徒会室。そのさらに奥にある仕事部屋で、生徒会会長、ソニア・クラークは鞄の中からランチボックスを取り出すと、机の上に置いた。
「あ! またお弁当だ! かわいらしいですね!」
少し離れた仕事机、大量に置かれたアニメグッズに囲まれて座る一人の少女、生徒会書記、レナ・ハマサキが、ソニアの小ぶりな赤い弁当箱を見て嬌声を上げた。
いわゆるオタクという人間は世間ではかなり暗いイメージが付きまとうが、彼女の印象はそれとは真逆だ。活発かつ饒舌で、無駄に明るく無為に動き回る。丸縁眼鏡に、上下ジャージ姿と、姿こそは雑の極みだったが、男女問わずに人気が高いのが特徴の少女だった。
「みんな学食で済ませるのに、最近生徒会長はお弁当ばっかりですね! 作るの面倒くさくないですか?」
「そうですね。最初は面倒くさかったですが、続けてみるとこれがなかなかに奥深いんですよ」
「でも、作るの大変じゃないですか!? 腕の怪我、まだ治ってないですよね!?」
「……ああ。これですか」
反射的に、六月に暴漢、否、テスタメントの人間に斬りつけられた左の二の腕をさすってしまう。痛みはもうないが、傷跡はもしかしたら残るかもしれないとは言われていた。
「大丈夫ですよ。問題なく動かせます」
彼女はそう言って笑いながら、弁当箱を開けた。箱の半分を占める白米の中央部には小ぶりの梅干しがちょこんと乗せられ、反対側には卵焼きやたこさんウィンナーといった、この列島ではメジャーだったであろうおかずが詰め込まれている。
たこさんウィンナーの存在を初めて知ったときには、かなり感動した。食材の熱による変形は、疎みこそすれ、それを逆に利用しようという発想はなかったからだ。
「かわいい! アニメみたいです!」
「いや、どちらかといえば、アニメより現実の方が先だとは思いますが」
「たこさん一つくれませんか!?」
「いいですよ。その代わりと言っては何ですが、音量をもう少し下げてくれませんか?」
「何のですか!? テレビもラジオもついてないし、動画サイト馬鹿のミラトンは学食ですよ! 大きな音を出すものなんてありません!」
「……」
口に物を入れた方が早いと判断したソニアは、持参したプラスチック製の箸でウィンナーをつまみ上げると、レナの方へと差し出した。
レナがそれに大口を開けてパクつき、両手を赤く染まった頬に押し当てて、くねくねと踊り出す。小動物の餌付けをしているような気分だった。
書記が一人で幸せに浸っている間に、ソニアは口の中に箸で白米を口に放り込み、目の前にホログラムウィンドウを出現させた。
インターネットにつなぎ、ニュースサイトを開く。レナの方はというと、食欲を満たすことを優先したのか、実家のパン屋の売れ残りが詰まった袋を鞄から取り出していた。
「テスタメント制圧作戦についての情報はまだですか。ただ、それ以外にも少々きな臭い事件が起きているみたいですね」
「ふぁにゅにゃにょににぇいにゅんにぇしゅ!?」
「……何ですって?」
口にアンパンをくわえたまま喋り出したレナにソニアが顔をしかめると、彼女はそれを手品か何かのように数秒で飲み込んで、手の甲で口を拭いながら言った。
「何が起こっているんです!?」
「貴女にとって、パンは飲み物か何かですか?」
「食べ物です! 会長って、頭いいけどたまに変な事言いますね!」
「……もういいです」
ソニアは諦めのため息を吐いて、ウィンドウに指を押し当ててスクロールしていった。
「Iの十七番ブロックで、飛び降り自殺があったようです。ビルの上から、大通りへと真っ逆さまですね。なかなかにショッキングな事件です」
「お昼時の話題じゃないね!」
「こういった話題に適した時間なんて、そもそも存在しませんよ。……っと。サイトが更新されましたね。これはまた物騒な……」
彼女はそこで言葉を止めると、箸を弁当箱の蓋の上に置いて、ウィンドウに顔を寄せた。
「これは……どういうことでしょうか?」
※ ※ ※ ※ ※
中央エリア南側。Uの三十七番ブロック。第五高校四年生教室にて。
昼休み、いつもの習慣でニュースサイトを見ていた車いすの少年、クルス・アリケスは、右人差し指でこめかみを叩きながらうめき声を上げた。
「よう! どうした、弁護士殿? また新たな事件か?」
茶髪の第五高校生徒、ブレント・クルンプトンが、二つ持ったコーヒーの缶のうちの片方をクルスの机に置いて、プルトップを倒した。
「ああ。かなり深刻だな、これは」
「ほう?」
「つい先ほどの話だ。Fの四番ブロックで、無差別殺傷事件が発生した」
「……それは、また。酷い話だな」
「ああ、酷い話だ。いくら超能力者を集めても、場所問わず、目的問わずの殺人を止める事なんて不可能だ。治安維持の永遠のテーマだろうな」
クルスはひとまずコーヒーを放って、画面をスクロールしていった。
「わかっているだけでも、死者二名。重傷者五名。軽傷者は多数。大事件だよ」
「おい、ちょっと待て。比べるのは良くないことだとは思うが、もっとでかいのが出てるぞ」
同じくウィンドウを出してニュースを確認しだしたブレントが、コーヒーをすすりながら続けていった。
「例の、第一高校の生徒を襲撃したっていう奴ら。テスタメントだったか? その制圧作戦が実行されたらしい。マスコミ呼んでの大立ち回りだとよ」
「作戦は成功したのか?」
「どうなんだろうな。これまた最新の情報なんだが……連中が根城にしていた教会が、突如崩落したんだと。治安維持隊の隊員が巻き込まれた疑惑がある、か。曖昧な書き方だな」
「最新情報なら、そんなものだ」
「ん? また更新されたな。何々? Zの十番交差点を歩行者が渡っているところに、トラックが突っ込んだ!? オイオイ、今日はいったいなんだ? 凶悪犯罪のバーゲンセールか?」
「不謹慎なことを言うな。だが……」
あまりにも事件が多すぎる、というのもまた事実だった。
こうして、ニュースとして見ているから感覚は麻痺しているが、制圧作戦のみならず、無差別の通り魔、大規模な交通事故が並列して起きているのは、明らかな異常事態だ。
だが、そこまで考えたところで、クルスは何やら廊下が騒がしいことに気がついた。
次々と重大ニュースが飛び込んできてはいるが、昼休みからニュースを読む物好きなど自分くらいなものだ。一体何事かとブレントと一緒に首を捻っていると、かなり乱暴な足音が教室に近づいて来て、担任の先生である女性が転がり込むようにして入ってきた。
昼休み特有の喧噪に包まれていた教室が、しんと静まり返る。彼女はしばらく呼吸を整えていたが、すぐに生徒たちの顔を見渡して、叫び声を上げた。
「Uの三十五番ブロック! 五百メートルほど離れた病院で、大規模な火災が発生しました! 皆さん念のため、校庭に避難してください!」
彼女の言葉が終わるや否や、天井近くに取り付けられたスピーカーから警報が鳴り響き、避難するよう呼びかける声が聞こえてきた。慌てて廊下へと出て行く生徒を目で追いつつ、クルスは腕組みをして呟くように言った。
「中央南病院か? あそこには確か、奏多の知り合いが……」
※ ※ ※ ※ ※
SAの二十一番道路。
一般車両が立ち入り禁止とされた道路を埋め尽くさんばかりの人間が、手作りの政府批判のプラカードやら看板やらを掲げて、時折怒声を上げつつ歩いている。それを歩道から眺めつつ、学生警備二年生、グレッグは、大きくあくびをした。
「何でもかんでもホログラムのこの時代に、わざわざ手作りでよくやるよ」
「あの人たち、何でこんなに集まってるんだっけ? わけわかんない」
「こら。そういうこと大きな声で言うな。というか、高校出る前に副隊長が説明していたじゃないか」
相も変わらず何も考えていない相方、アリシアに、グレッグは本気で頭痛を覚えつつ口を開いた。
「毎年、七月七日には『穏健』な反超能力者団体が集まって、こうしてデモ行進をするんだよ。僕たち学生警備は、その警備。あるいは見張り役」
「なんで私たちがそんなことしなきゃいけないわけ?」
「そりゃ、治安維持隊のお偉いさんに聞いてくれ。ま、四月一日のときと同じだろうね。人手不足と、超能力者の学生も働いてますよっていう外へのアピール」
お陰で、学生警備は平日であるにも関わらず昼間から仕事だ。外の人間には何を言っているかわからないだろうが、大前提として、自分たちはまだ学生、勉学が第一だ。これが部活動よりもよっぽどブラックな学生警備だと忘れてしまいそうになるから恐ろしい。
今日は天気に恵まれ、合計数百とも言われるデモ隊の皆さんは、喜々として道路を行進している。『超能力者優遇反対』だの、『特別高校を廃止せよ』だの、こちらとしてはまったく他人事ではないことを叫んでいるが、果たしてこちらが超能力者であると気がついているのか。
今のところは、デモ隊は大人しく政府が指定したところを練り歩いているだけだ。ただ、そこから出られないのはおかしいと因縁をつけてくる馬鹿共が毎年全体として見れば少数、こちらと見れば大量発生するので、今から憂鬱な気分だった。
「太陽はあんなに輝いているのに、職場は真っ暗」
「グレッグ、ついに狂った? 言ってることが、わけわかんない」
「いっそ狂いたいぐらいだ。そうすれば、色々と悩まずに済むからな」
学生警備の六名は、二名ごとに別れて三つに分裂したデモ隊の統率を行っている。もちろん二人でそれを全て行うのは難しいということで、治安維持隊の隊員と合同での仕事なのだが、正直今は大した問題も起きていないので、かなり暇だった。
何か新しいニュースでもあるかとグレッグが死んだ魚のような目でウィンドウを出現させた直後、諸悪の根源と言っても過言ではないジミー・ディラン隊長から通信が入った。ウィンドウを地面に叩き付けたいという衝動と戦いつつ、グレッグは通話のアイコンをタップした。
「何ですか? 地味な隊長」
『君もそれか。もう慣れたからいいんだけどね。それよりもだ』
「……?」
いつもだったらもう少し抗議をしてくるのだが、今日はいやに平坦な反応だった。一体何事かと首を傾げるグレッグに、ジミーは無表情のまま、淡々と告げた。
『周囲に対する警戒を、高めておきなさい。中央エリア全体が、少し騒がしくなってきている。もしかしたら僕たちのいる場所でも、何か起きるかもわからない』
「何かって……何ですか?」
『それがわかったら苦労しないよ。とにかく、僕たちのすることは変わらない。穏健に見えて、実は今にも爆発寸前なデモ隊の管理だ。いいね?』
「……了解しました」
ふと、自分のいる場所が陰り、グレッグは反射的に空を見上げた。
一欠けらの千切れ雲が、太陽を覆い隠しているのが視界に映る。
根拠はない。だが、何か得体の知れないことが水面下で起きているという確信が、背筋を冷気となって昇って行くのを、グレッグは感じていた。
※ ※ ※ ※ ※
Tの二十九番ブロック。教会跡地。
特殊部隊、バレットの隊員、ラーマンは、崩壊した教会へ向かおうと暴れる御影奏多の身柄を取り押さえて地面に押し付けつつ、たまらず叫んだ。
「落ち着け阿呆! レイフさんにも言われただろう!」
「なら、何が起きているか教えてくれ! なんで二人のいる教会が壊れたんだ!?」
「それは……」
おそらくはお前の生死を巡って対立した超越者がぶつかったのだろうなどとは、今の御影奏多の精神状態を考えれば、口が裂けても言えなかった。
突入前は庭の緑しか見えなかった教会の敷地に、今や白い煤塵がもうもうと立ち込めている。中で何が起きているのか、これでは判断がつかない。
少し離れた場所で本部と連絡を取るメレディス隊長の焦燥に満ちた声を聞きながら、彼は唇を強く噛みしめた。
何が起きているかわからない、どころか、何が何だかわからない、というのが現状だ。
ラーマンの感触としては、少なくとも現段階では治安維持隊は評議会との摩擦を極力避けようとしていた。だが、リ・チャンファのとった行動は、それに大きく矛盾している。
『円卓内部の権力争いか? それとも……』
とそこで、抵抗していた御影の動きが、ふと止まった。
彼の視線の先へと目を向けると、超越者、レイフ・クリケットが、右肩を庇いながらこちらへ駆けてくるのが見えた。
「レイフさん! 何があったんですか?」
「それは後だ。今は何よりも、優先すべきことがある」
そう言ってレイフは、柄の先から刃を消滅させて懐にしまいつつ、御影のことを見下ろして、唸るように言った。
「御影奏多。……貴様は誰だ?」




