第一章 日の当たるこの場所で-5
5
七月五日。午前五時三十分。治安維持隊の射撃場で目を覚ました御影が、朝食を適当に済ましていつも通り射撃練習に戻ろうとしたところ、御影とほぼ同時に目を覚ましたレイフが、新たな情報をもたらしてきた。
「招集命令?」
「そうだ。例の円卓で会議が開かれる。いよいよということだろう」
御影は手にしていた拳銃を置くと、思わず天井を仰いでしまった。
正直、もう少し練習していたかった。腕前を上げたいというよりは、何かをしているという感覚が欲しかった。考えてみれば、日々の鍛錬も御影にとっては逃避の手段だったのだろう。
「そう不満そうな顔をするな。貴様はよくやった。センスは正直そこそこだと思っていたが、僅かな練習時間で及第点を越えてみせた。私の期待以上だ。最後にルーベンスという指導者を得たのも大きいだろうな」
レイフが珍しく、点で的外れなフォローを入れてくる。普段からこの男の思考回路はよくわからないが、こういう所ではすさまじい洞察力を発揮していたのだが。
だがそれこそ、何から何まで彼に頼るというのも情けない話だった。
「そう言えば、お前って銃はどうなの?」
何となくで問いかけると、レイフは台の拳銃を手に取り、手早く銃弾を込めると、無造作に銃を持った右手を的に向けて、そちらを見もせずに引き金を引いた。
見事、的のど真ん中に命中した。
……何と言うか、ここ数日四苦八苦していた自分が馬鹿みたいだった。
「何か、さっきのフォローが嫌味に思えてくるな」
「なぜだ? 私の腕と、貴様の上達具合は関係ないだろう」
「ああ、そうですね。貴方様は正しいですね。だけど人の心ってやつがわかってないよね」
「……」
何気なくの言葉に、レイフが急に黙り込んでしまった。
気分を害してしまったか。そもそもこの男にはその傷つく心が無いと言われても違和感がないくらいなのだが、そう扱うのはそれこそ傲慢というものだった。
「悪い。とりとめのないただの悪口だ。気にするな」
「いや、気にしてはいない。だが……少し、考えさせられた」
拳銃からシリンダーを取り出しながら、レイフはじっと鉄製の台を見つめていた。
始終表情を変動させることのないレイフだが、御影も一応は彼の癖のようなものはわかるようになってきている。視線が通常に固定されている場合は特に何もしていなくて、どこかあらぬ方向に向けられているときは考え事をしている事が多い。一般的にもそうかもしれないが。
「それで、レイフ? 円卓には何時に集合なんだ?」
「……む? ああ、そうだった。話がずれたな」
彼は何度か瞬きを繰り返すと、再び御影へと顔を向けた。
「会議開始時刻は午後三時だ」
「なるほど。じゃあ、もう少し練習を……」
「愚か者。貴様、もう少し人間関係というものを考えろ」
一瞬、お前には言われたくないと反論しかけたが、彼が続けて言った言葉は至極まっとうな代物だった。
「恐らく作戦決行日は七月七日だ。前日はもろもろの準備に時間を割くとしたら、空いているのは今日しかない。銃についても、この私に認められたのだから、取り敢えずはそれで満足しろ。使わないに越したことは無いのだからな。第一高校の関係者に顔を見せにいくとしよう。貴様の事だ。担任にも、知人にも、何一つ連絡を入れてないのだろう」
「そりゃあ、一般的にはそうすべきなのかもしれないけど」
「まさかとは思うが、自分の心配をする人間などほとんどいないという妄言を吐くつもりではないだろうな? それは相手が決めることであって、貴様が動かない理由にはならないぞ」
「……ハイ。すみませんでした」
まさにその通りのことを言おうとしていたため、ぐうの音も出ないとはこのことだった。
でも確かに、五月に行動を共にした学生警備や、生徒会あたりには顔を見せておきたい。最悪、七月七日以降にこちらが生きていない可能性だってある。
ただ、やはり学校側との調整は苦手だ。そこらへんは結構な割合で、エボニーやソニアに任せてしまったりしていた。
「教員陣への対応は私がしよう。貴様は友人に会いに行けばいい」
「何から何まですみま……って、ちょっと待て。お前も行くの?」
「移動手段が私の車しかないうえに、今の私は貴様の上司のようなものだ。行かない方が不自然だろう」
そう言われると頷かざるをえなかったが、何か大切なことを忘れているというか、大変なことになりそうだというか、何というかだった。
※ ※ ※ ※ ※
案の定、大変な騒ぎになった。いや、なるところだった。
原因は単純で、レイフが事前に第一高校に連絡を入れてなかったからだ。ずっとそばにいるせいで忘れていたが、レイフ・クリケットは超越者、超越者といえばエリート中のエリートで、世間一般のイメージでは将軍クラスに勝る存在だ。それが突然、人間兵器の卵が集う学び舎に姿を現したのだから、大騒ぎにもなる。
が、起床時間が早かったこともあって、二人が第一高校に着いたのは七時頃だった。そして、我が物顔で校舎を歩くレイフと、てっきり連絡しているものとのんびりそれについて行った御影は、まだ生徒のいない時間にたまたま居合わせたジミー・ディランに発見されたのだった。
「まったく! 何を考えてるんだ君たちは!」
第一高校の廊下にて。
治安維持隊の制服に身を包んだジミーは、眠そうな顔に引きつった笑みを浮かべて、真顔で突っ立つレイフと、所在なさげに佇む御影に怒鳴りつけた。
「二人共自分の立場を考えてくれないかな!? レイフ! 君が来たと教員陣にばれてみろ! ゴマすり目当ての馬鹿が集まって大騒ぎだ!」
「私に取り入ったところで、教員の出世に繋がるとは思えないのだが?」
「冷静に考えればそうでも、人間は地位に弱いだろ? それから、御影君もだ」
「俺? 俺はどちらかと言えば被害者……」
「学生にして超越者の指導を受けてるうえに、兵士として戦場に出る可能性が濃厚。噂にならないわけがないだろう。君は今、学校中の話題だよ。勉強会を結成しているような生徒は、君に対する評価が手のひら大回転だ。友達を作るなら今がチャンスだぜ?」
「まっぴらごめん被るな。大体、俺の人間性が変わったわけじゃねえんだから無理だろ」
「人間は、基本肩書しか見ないんだよ」
ジミーはそう言うと、腰に両手を当ててレイフへと目を向けた。
「それで、どうする? とりあえず、レイフが御影君の担任に会いに行く感じかな?」
「まあ、そうなるだろうな。本人が行くよりはマシだろう」
「だね」
うんうん、と大きく頷き合う二人。なんやかんやで仲がいいのか、それとも御影がそれだけ問題児だということか。
どうせ後者なのだろう。あるいは両方か。
「さて。レイフ。君は応接室に案内しよう。御影君。学生警備は昨日から完徹だ。部屋に行けば誰かいると思うよ」
御影が唖然と口をあけている間に、レイフとジミーは並んで廊下の奥へと歩いていってしまった。妙に芸術的な装飾が、暴力的とも言える治安維持隊の制服に恐ろしくミスマッチだった。
しかし、徹夜? 学生が? 半分ボランティアのような団体なのに?
おまけに昨日の昼間、ジミーは演習場に顔を出していた。場合によっては、あの隊長殿は部下に全部仕事丸投げしてた可能性もあるということだ。
レイフではないが、度し難いというのが正直な感想だった。
「……さて」
左腕に付けた、三代目の腕時計(一代目はボクシに、二代目はエボニーに壊された)へと目を落とす。現在の時刻は七時五分。部活等の朝の活動が始まるのが七時半だから、学生警備の面子しかいないだろう。
両手を黒スーツのポケットに突っ込む。警備室まではそれほど遠くない。訪れるのは五月以来二か月ぶりになるなとぼんやりと考えながら、御影は足を踏み出した。
※ ※ ※ ※ ※
学生警備室。
狭い安物の折り畳み式の机、椅子が並ぶその空間にいたのは御影の予想に反する人物だった。
「……げ」
天パの髪に、丸メガネ。無地のTシャツと、見るからに根暗な少年が、御影の姿に顔をしかめた。目の下には真っ黒なクマが刻み込まれている。
「ええっと、お前は……」
「グレッグだ。学生警備三年生」
「ああ。そう言えば、そんな名前だったな」
「次会うときには、ちゃんと覚えていることを願うよ御影奏多。副隊長に会いに来たのか?」
「まあ、そんな感じだ」
「そ。そこらへんに座っていてくれ。すぐ戻ると思うから」
グレッグはそう言って、ホログラムウィンドウを出現させた。心なしか、グレッグの動きが鈍く見える。どうやら、完徹したという話は本当のようだった。
ねぎらいの言葉の一つでもかけるべきかと思ったが、御影は別にグレッグの友人でもなんでもない。下手に話しかけるべきではないだろう。
無造作に置かれた椅子の内の、一つに座る。ぎしりと、金属製のパイプが軋む音がした。
奥の自販機から、小さな機械音が聞こえてくる。やがてグレッグはホログラムを消すと、椅子の上で大きく伸びをした。
椅子の上で腕と足を組む。御影は机の上に頬杖を突くと、軽く目を細めた。
くあ、と。グレッグが大きくあくびをした。本当に眠そうだ。御影としては、残念ながら彼に共感することはできなかった。御影はしっかりと睡眠はとる方で、日中眠くなることはほとんどない。徹夜なんて非効率的なことにはあまり経験が無い。
エボニーは、まだ来ない。
御影と学生警備の接点と言えば、四年生組とジミー・ディラン。下級生の皆さんは五月五日に迷惑をかけたっきり。やりづらいったらありゃしない。
おまけに、こっちのことが気になるのか、さっきからグレッグがちらちらと視線を送ってくる。目つきが自分以上に悪いため、正直怖い。御影は大きく舌打ちをすると、掌から頬を離して、グレッグを睨みつけた。
「言いたいことがあるなら言え。直接」
「いや、別に……」
「俺がうざいなら出て行くぞ」
「そんなんじゃねえよ! どんだけネガティブなんだお前!」
「……」
少し新鮮な反応で、御影は思わず黙り込んでしまった。
こういうときには大抵、少し居心地悪い顔をされるか、あからさまに嫌そうな態度を取られるかで肯定されるのが、御影のいる特設クラスでのデフォルトだった。思わず目を見開いて固まっていると、グレッグは呆れたように首を振って、何か言おうとした。
だがその前に、警備室のドアが勢いよく開けられ、一人の女子生徒が転がりこむようにして入ってきた。
「大変だよグレッグ! 緊急事態だよ! ゴキブリ! 五階のトイレにゴキブリが!」
「……いや、ここ一階だよな、オイ」
「……ハア」
冷静に突っ込む御影の後ろで、グレッグが疲れたように机に突っ伏した。
二人の近くまできた彼女は、座っている御影を見下ろすと、大きく目を見開いた。
「あ! 副隊長の友達だ! 名前は……ええっと……」
「御影奏多だ」
「そう! それ! 私はアリシアだよ! 来てくれてありがとう!」
「いや、なんでそこで感謝の言葉だよ」
「当たり前じゃん! わけわかんない!」
……いや。わけがわからないのはこちらの方なのだが。
思わず、グレッグの方へと救いの目を向けてしまう。だが、そっくり同じ視線を向けてきたのとかち合って、二人してがっくりと肩を落とす結果に終わった。
「アリシア。何でこんな朝っぱらからテンションが高いんだよ。馬鹿だからか?」
「徹夜したからじゃない? グレッグも今、テンション高いでしょ?」
「普通逆だわ。ダダ下がりだわ」
「アハハ! ウケる! 超面白い! 逆なのに逆だって、わけわかんない!」
「……」
御影とグレッグの重いため息が、綺麗にシンクロした。
何なのだろうか。この、知性というやつが一欠けらも感じられない謎のノリは。
学生警備に所属している以上、成績優秀かつ仕事もしっかりとこなすのだろうが、正直彼女があのエボニー・アレインと一緒に活動しているというのが信じられなかった。
「いや、悪い。普段から馬鹿だけど、もうちょい馬鹿じゃないんだ。徹夜のせいだ、徹夜のせい。もっと言うと、事務仕事全部投げ出して遊び歩いてる隊長のせいだ」
「……あー」
結局はあの地味な喫煙野郎が原因なのか。エボニーがいなくなったら、一体この組織はどうなってしまうのだろうか。
「あれ? 御影先輩じゃないっすか? こんな朝早くに、どうしたんっすか?」
出入り口の方から、聞き覚えのある女性の声が聞こえてきた。
赤髪の後輩、シャーリー・ピットの登場である。新たなカオスの到来かと戦慄したが、朝に弱いタイプなのか、彼女は目を擦りながら静かに警備室の奥に歩いてきた。顔を洗ったのか、彼女の頬で無数の滴が煌いていた。
彼女は御影の隣の椅子に座ると、髪をかきあげて額を露出させた。赤の髪に、面積の広い肌の色が眩しい。思わずそちらに目を引き付けられてしまう。だが、彼女が馬か何かのように顔を振ったせいで、髪についた水が御影の顔面にいくつか飛んできて顔をしかめた。
「御影先輩も、色々と大変っすよね。超越者と戦いに行くんっすよね?」
「まあ、そうなるかどうかはまだわからないけど」
「怪我しないようにしてくださいっす。御影先輩が傷つくと、悲しむ人がいるんですから」
「……何でお前だけまともなんだ? 何というか、前に会ったときより静かだな」
「そうっすね。私、寝起きはどちらかと言えばテンション低い方だからじゃないっすか?」
「お前だけ寝落ちしたんかいッ!」
グレッグ、アリシアコンビの方へと目を向けると、二人共じとりとシャーリーを睨んでいた。
気持ちはわからなくもない。わからなくもないが、高校生としての在り方は、シャーリーの方が正しい。健全とも言える。この劣悪な労働環境は、どうにかならないのか。
「アレイン先輩に会いに来たんっすか?」
「ん? いや、まあ。五月に色々と迷惑をかけたからな。色々と面倒なことになって、会いに来れるかもわからねえから、学生警備も含めて挨拶にと」
御影がそう言うと、なぜか三人は顔を見合わせた。
何事かと思わず身構えてしまったが、シャーリー・ピットがお手上げだというように両手を軽く上げると、残り二人は視線を床に落として、深々とため息を吐いた。
「……」
何が起きているのか、正直よくわからない。なすすべもなく椅子の上で固まる御影に、シャーリーはどこか作ったような笑顔を向けてきた。
「ちょうど、入れ違いだったっすね。アレイン先輩は、リエラ先輩と校舎の見廻りっす」
「そうか。ありがとう」
どうやら、遠回しに警備室を出て行けと言っているらしい。
御影としても、彼らの気分を害してまで、この場に滞在するつもりはなかった。彼はパイプ椅子を引きながらその場に立ち上がると、それ以上無駄口を叩くことなく出入り口へと歩いていった。
「御影奏多」
だが、廊下に出る寸前で、後ろからグレッグの声がかけられた。
さっきから、一体何がしたいのかわからない。御影は盛大に顔をしかめそうになるのをなんとか堪えて、扉の枠に手を置くと、後ろを振り返った。
「学生警備を代表して、礼を言う」
「……へ?」
「五月五日の件だ。あなたがいなければ、うちの副隊長はどうなっていたかわからない」
そう言って彼は椅子から立ち上がると、御影に向かい、深々と頭を下げてきた。
「ありがとうございました」
「…………」
思いがけぬことに、御影はただただその場に固まるしかなかった。
あまりにも、予想外すぎる展開だった。今まで、こんなことなど、一度も無かった。
学校にいるときの周りに対する対応は、だいたい決まっている。常に最悪を想定することだ。心無い言葉。冷淡な罵倒。あるいは、無機の沈黙。現実以上の妄想、あるいは妄言を受け入れて、それぞれに心の中で、事前に応対しておく。そうしておけば、機械的に日常を送れた。
ただ、これは、少しまずい。駄目だ。何をどうしたらいいかわからない。
ソニア・クラークが言ったように、誰かに賞賛されることにも、感謝されることにも違和感しか覚えないという現実を、まざまざと見せつけられた形だった。
「御影先輩」
後輩の呼びかけに、御影はようやく我に返ると、何度も瞬きを繰り返した。
眼球が乾燥してしまったためか、目が少ししょぼしょぼする。眉間に皺を寄せた御影に対し、シャーリーは続けて言った。
「副隊長は、きっと五階にいると思うっすよ。見回りをしているなら、多分」
「……そうか。その、何だ。すまないな」
「いえいえ。あの人だけ二徹なんで、気を付けてくださいね。寝起きがものすごく悪いって、御影先輩なら知ってるっすよね?」
「……そうか。その、何だ。悪かったな。色々と」
「いえいえ。先輩も、気をつけてくださいっす」
「ああ。そうだな。……うん、そうだ。じゃあ、俺はもう行くから」
「行ってらっしゃいっす」
「ああ。それじゃあな」
御影はそう、自分でもよく分からないことを口走りながら、半ば無意識に後ろでに扉を閉めて、階段の方へと速足で歩いていった。
※ ※ ※ ※ ※
学生警備室。
御影のことを見送った三人は、また示し合わせたかのように顔を見合わせた。
「顔少し赤かったね。なんというか、らしくないよ。わけわかんない」
「なあ、シャーリー。もしかしなくても、あの人って実はちょろいんじゃね?」
「どうっすかね。私はむしろ、その逆だからこそ、先輩はあんな感じなんだと思うっす」
「……かもな」
そして警備室を、束の間、静寂が支配した。
しばらくたったところで、グレッグが、大口を開けて欠伸を一つし、それを合図に、三人はそれぞれまだやり残されている事務仕事へと戻るべく、目の前にウィンドウを出現させた。
※ ※ ※ ※ ※
第一高校、四階から五階への階段、踊り場。
その一段目に、眠れる獅子、リサ・リエラがアイマスクをして腰を掛けているのに遭遇して、御影は回れ右して戻りかけたが、すぐに思いとどまると、彼女の近くまで歩いていった。
「狸寝入りしてんじゃねえよ」
「それ指摘しちゃう? つまんない男だなあ」
彼女は赤いアイマスクを額に押し上げるとその場に立ち上がり、大きく伸びをした。窓から差し込む光が、彼女の顔を照らしていた。
どうやら、シャーリー以上に健康的な生活を送っているらしい。本気で下の三人が哀れに思えてきた。
「久しぶりだねえ、御影。早速だけど、超越者とタッグ組んだって本当?」
「組まされたの間違いだ」
「うわあ。本当だったんだ、あの噂。眉唾物だと思っていたんだけどなあ」
階段から踊場へと、リエラが軽くジャンプする。瞬間、彼女の体が空中に固定され、少し癖のある髪が浮かび上がった。
「アレインがどこにいるかわかる?」
「そりゃ俺が知りたい。探してたんだ」
「ふうん。私がうたた寝している間に、どっか行っちゃったみたい。見つけたら、あの子に言ってくれない? いい加減休めって。倒れないか心配だよ」
「わかった」
大方、五月の責任を感じて、人一倍仕事をしているのだろう。それに影響される形で、周りまで激務に身を投じていくのだから悪循環もいいところなのだが、言ったところで止まるような性格ではないことぐらいはわかっている。
「じゃあね、御影奏多。また会おう」
「ああ。またな」
リサ・リエラは飛び跳ねるようにして、タイル敷の階段を降りていった。そういえば、こうして誰かと普通に別れるのは久しぶりかもしれない。普通とはつまり、何気なく、特に構えず、あたりさわりのない挨拶をして互いに背を向けるということだ。
誰かにとっての当たり前が、自分にとっては新鮮だという事もあるのだろう。
階段と廊下を区切るアーチの下を潜り抜けて、朝日の射し込む窓の隣を歩く。だがそれほどいかないうちに、御影は太陽のそれにも増して眩しい輝きを目の前にした。
金の髪が、廊下の影の中で円弧を描く。
「おはようございます、奏多。今日は早いのですね」
「ああ。おはよう、ソニア」
御影の挨拶に、生徒会長、ソニア・クラークは満面の笑みを浮かべると、金の長髪を翻して御影に背を向けた。
「生徒会室に来てください。すこし、見てもらいたいものがあります」
彼女の促しに頷きを返して、御影はスーツのポケットに手を滑り込ませると、彼女の後姿を追っていった。美術系の高校が如き過度な廊下の装飾が、彼女にはよく似合っていた。
五階の奥にある生徒会室に辿り着き、御影たちはその中に入った。生徒会室はかなり広い。壁で二つに区切られていて、手前が来客用で奥が事務仕事用だ。来客用の空間はかなりこざっぱりとしていて好感が持てる。
「先に奥に行っててください」
「ああ。わかった」
制服の上を脱いでソファの上にかけるソニアに頷きを返して、御影は生徒会室の二つ目のドアを開き、敷居をまたいだ。
来客用とはうって変わり、雑多な印象だった。各生徒会メンバーの机と椅子が並べられている。私物も置かれているため、かなり生活感の溢れる空間だった。
何やらアニメのグッズらしきものが大量に置かれた机の前の椅子に座る。どうやら女性の仕事場のようで、眉目秀麗な男性キャラクターの絵が描かれたグッズが中心だった。
「あなたは今、学校中の噂ですよ。友達百人計画にはもってこいじゃないですか?」
「そんな計画を立てた覚えはねえよ」
ソニアもまた仕事部屋に移動して来たのに対して適当に応じながら、御影は反対の机へと目を向けた。こちらは鉄道模型が並んでいる。どうやら、第一高校の生徒会は文系オタクの巣窟のようだった。
「大体、俺に対する評価が変わったわけじゃないだろう?」
「いいえ。変わりましたよ。あなたを心配する声が出ています」
「冗談だろ?」
「冗談ではありませんよ。だってあなたは、戦場に行くのでしょう?」
「……」
ソニアの言葉に、御影は思わず黙り込んだ。
「いいですか、奏多。確かにこの学校の生徒は大半が人格的に問題があります。ですが、彼らもまた人間です。皆、未来に対して不安を持っている」
ソニアは御影の隣に立つと、金色の長髪を後ろに払った。窓から差し込む、朝日が眩しい。全てが光り輝いていて、目が潰れそうなくらいだった。
「薄々わかっているのでしょう。湯水のような補助金は、自分の命の値段なのだと」
「いろいろと援助してやってるんだから、前線に出されても文句を言うなってことか」
「高校生なのですから、精神状態もまだ不安定です。ある意味で、第一高校での生活が普通の学校のそれと同じなのは悲劇ですよ。過酷な訓練でもさせられていた方がまだマシです。不安を殺せますからね。だからこそ、あなたが生きて帰ることには、大きな意味があります」
白い手が差し伸べられ、御影の顎を軽く撫でつけてくる。
顔をしかめてそれに耐える御影に、彼女はクスリと相好を崩すと、御影の顔から指を離した。
「あなたの命は、あなただけの物ではない。それを、肝に銘じてください」
「ああ。そうするよ」
「それともう一つ。ちょっと顔を上げてくれませんか? 見せたいものがあります」
「そういやそうだったな。一体――」
顔を上げた瞬間、唇を重ねられた。
金の髪が揺れて、視界を覆った。
彼女の舌が、歯の間から口内へぬるりと侵入してくる。唾液と唾液が混ざり合い、僅かながら水音を立てた。
くすぐったい。
体内に別の生き物が入り込んできたことに対する恐怖と、それを受け入れようとする本能がない交ぜになって、思考がどろりと溶かされる。
そのまま永劫とも思われる数秒が流れ、やっと解放されたところで、御影は文字通り椅子から床の上へと崩れ落ちた。少しだけ零れ落ちた唾液が、照明に煌きながら宙を舞った光景が、脳の奥底にまで焼き付けられた。
御影は何とか上体だけ起こすと、濡れた口元を手の甲で拭い、ぼやけた視界の中央に唇を指でなぞるソニアのすまし顔をおさめた。
「……時と……場所を……選べ!」
「選びましたよ。ええ。つまりこれは、嫌がらせというやつです」
「……………………」
御影はそれ以上言葉もなく、また力なく倒れ伏した。
それから三十分後、ようやく生徒が登校しだしたころになって、レイフが御影と合流すべく校内放送を使って自らの身分と居場所を公開するという暴挙に出るまで、彼は横たわったまま動くことができなかった。




