Episode 4-2
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かつて誰かが、私の事をこう呼んだ。
人間を超えし人間。
理を越えた超能力者だったからでも、超能力者を越えた超越者だったからでもない。ただ単純に、レイフ・クリケットという人間は、そういう存在なのだと。
その通りなのだろう。私は最優の兵士だ。どんな状況であろうとも、どんな局面にあろうとも、冷静に対処することができる。
高校生に自らの命を預けることに対しても迷いはない。彼は既に、自らの力を四月に証明している。そして、完璧など絶対にありえない以上、不確かさというものに恐怖を覚える必要性など皆無だ。
全ての仮説は、現実にしてしまえば証明するまでもなく真実となる。失敗の可能性はもちろんあるだろう。だが、結果さえ得られればその心配は杞憂だ。強引かつある意味非論理的な考え方かもしれないが、これは正しい。結果だけを、人は求める。過程は基本無価値だ。
そして御影奏多という人間にとっては、その過程こそが重要だった。それならばなおのこと、リスクに対する迷いなど不要だ。前に進むことだけを考えれば、それでいい。
「御影奏多」
私の呼びかけに、彼は一つ頷くと、腕時計に触れホログラムを出現させ、目的のビル近くに待機している部隊、及び、私へと音声のみの通信を繋いだ。
『治安維持隊少佐に臨時で任命された、御影奏多です。まずは、事前の連絡なく作戦変更を強行したことを、深くお詫びします。同時に、指示に従って下さったことに、最大限の感謝を』
御影奏多の声が、耳に取り付けた通信機のスピーカーから聞こえてくる。フルフェイスメットを調整する私の後ろで、彼は淡々と続けた。
『五分後、突入の合図をします。それまでは、向こう側に見つからないよう細心の注意を払い待機してください。レイフ・クリケット大佐の合流を待つ必要はありません。それと、本部からの連絡は全部無視してください。クリケット大佐の命令です。逆らったら怒るそうです』
別動隊には、混乱を避けるため今回の作戦(人間大砲の件)のことは伝えていない。ちなみに、突然御影奏多が少佐に就任し、自分たちに指示を出し始めたことについては、『またクリケット大佐の奇行ですか』と呆れられただけで終わった。どうやら、御影奏多が事実上私の直属の部下となった時点で覚悟はしていたらしい。事前に連絡もせずに現場で部下に権限を渡すのを、今までも散々やってきたせいだろう。
そういえば、私の参加する作戦に同行する部隊は、決まって同じメンツだ。最善の道と判断すれば命令違反も辞さない私に対応させるための、ヴィクトリアの計らいだろうか。
『各自、心の準備を』
それを最後に、一度通信が切れる。私は『発射口』である破壊した塀から離れ、事前に示し合わせておいたスタート地点、屋上の反対側へと歩いて行った。
途中で、ホログラムを消去した御影奏多と目があった。といっても、ヘルメット越しのため彼の方はわからなかっただろう。私は無言で彼の隣を通り過ぎた。目的の場所まで移動したところで振り返り、塀の途切れた場所との距離を確認する。
助走するには申し分ない距離だ。もちろん、私の脚力だけでは向こうのビルに辿り着くことすらできずに、アスファルトに叩き付けられることだろう。しかし、そうはならない。これは期待ではなく確信だ。御影奏多が全力で私をサポートする以上、他の誰よりもこの私が彼を信頼しなくてはならない。
ゆっくりと、時間が過ぎていく。こういうときだけ時間が引き伸ばされたように思えるのは、どのような原理なのか。
だが、時間は有限だ。ある意味であっけなく、そのときは訪れた。
「レイフ!」
「了解した」
御影奏多の呼びかけに答え、私はその場にしゃがみ、クラウチングスタートの態勢を取った。目指すは、塀の切れ目のその先。そびえ立つビルの一つの窓だ。
後ろから、何か気配を感じた。
振り返らなくてもわかる。大気がうねり、疾走する音。例えようのない圧迫感。自然と、意識が集中していく。
「行け!」
御影奏多の掛け声に合わせて、私はビルの屋上を走り出す。次の瞬間、背後から青の濁流がどっと押し寄せてきた。
あたかも光に煌く海に呑み込まれたかのような感覚。実際に気流が後押ししてくる分、余計に液体のように感じる。実際、空気がそれほどまでに圧縮されているのかもわからない。それでいながら、気圧の差による不快感も与えてくることもなく、徐々に私の体を加速させていく。
足で体を動かすのではなく、動く体に足を合わせていく。今日まで彼と何度も練習を重ねたとおりに、前へ前へと進んでいく。
「――吹っ飛べェッ!!」
御影奏多の咆哮に背中を押され、最後にコンクリートの地面を蹴りつけたと思ったそのときには、私の体は宙に浮かんでいた。
光がある。
過剰光粒子だけではない。街の生み出す輝きが、私を包んでいる。建物の明かり。立ち並ぶ街灯。行きかう車のヘッドライト。それらすべてを眼下に置いて、私の体は本格的な落下運動に移る前に、向かいの建物の壁面へと吸い込まれていく。
窓が近づいてくる。私がそこに激突する前に、窓ガラスは御影奏多の操る空気の槍によって砕け散った。
ガラス片が宙を舞う。その中を進みながら、私は姿勢を微妙に調整していく。
窓枠をくぐり室内へ。その先にある巨大な長机の上に、私はほぼ水平に『落下』していった。
体にかかる衝撃を、膝を曲げることで緩和する。少し前かがみになった姿勢のまま、テーブルの上を滑っていき、勢いを殺していく。
長机の端まで来たところで跳躍し、壁に足から『着地』、完全に体を静止させる。ちょうど近くにいた一人の元まで再び跳び、私はその男の側頭部に強烈な蹴りをいれた。
『全員、突入!』
耳に付けた小型通信機が、御影奏多の指令を伝えてくる。もちろん私に対するものではなく、ビルから少し離れた場所に待機していた部隊に対するものだろう。彼らにしてみれば、突然過剰光粒子が現れ、人が空を飛び、そのままビル内部に突っ込んで何が何やらだろうが、指示には従うはずだ。これほどではなくとも、超能力者が引き起こす事件は大概荒唐無稽だった。
会議室であろう部屋をざっと見渡す。対応が早いと言うべきか、心理的に追い詰められていると言うべきか、既に懐から銃を取り出している者達が何人かいた。
銃刀法違反も何もあったものではない。武器を扱う以上、それらを手の届くところにおきたいというのは人間の心理なのだろうか。
だが、私はここに殺し合いに来たのではない。少年一人の願いも聞き遂げられなくては、超越者の名が泣くというもの。私自身にはこだわりはないが、誇りを預けられた以上、私もそれに応えないわけにはいかない。
両腕に付けたアーマーから、垂直に刃を生やす。その状態で、多くがスーツ姿である武器商人たちへと私は立ち向かっていった。
「貴様ァ!」
どうやらその道の人間らしい体格のいい男が怒声を上げる。だが、彼が拳銃を取り出す前に懐に潜り込み、膝蹴りを腹部にめり込ませて気絶させた。
そのまま、部屋中を高速で駆け回る。イメージとしては、空を翔ける隼か、あるいは水面を走る翡翠か。あるときはすれ違いざまに手にした武器を刃で破壊し、またあるときは拳を体躯へと叩き付ける。敵の態勢が整ってきたと判断したところで、床から大量の刃を出現させ相手を攪乱。そのまま、隣の部屋へと飛び込んでいく。
「クソ!」
一人がこちらに発砲してきたが、脅威にもならない。『壁』によって銃弾を跳ね返すときに、その男に当たらないよう角度を調節する余裕もあったくらいだ。
来るはずのない窓からの襲撃で、相手組織は完全に混乱し、まともに指揮をとれる状態ではなくなっていた。当然だ。用心棒のような者もいるだろうが、メンバーのほとんどが戦闘の素人であることは想像に難くない。
やがて、防護服に身を包んだ治安維持隊の部隊がこの階に辿り着き、速やかに彼らを制圧していった。既に主だったものは私が無力化していたため、大した戦闘もなく、せいぜい私が何回か『壁』を出現させ銃撃を防いだ程度だった。
それからしばらくした後に、完全に敵を制圧で来たと判断した私は、籠手から刃を消失させ、フルフェイスのヘルメットをはぎ取り額の汗を拭った。部隊長らしき人間が私のほうに近づいて来て、苦笑しながら言った。
「相変わらずとんでもないことをしますね。次はモグラの様にトンネルでも掘りますか」
「それは少々非効率的だな」
「真面目に答えないでくださいよ。茶化したんですから。しかし、こんな奇襲方法を考えていたなら、事前に通達してほしかったですね。あなたが反対側のビルの屋上から飛び出したのを見たときには、心臓が止まるかと思いましたよ」
「到底信じがたい内容だと思ってな」
「……まあ、それはそうですけどね」
彼と共に、最初にいた会議室へと移動する。そこで気絶していた者達を手早く拘束しつつ、彼はちらりと破壊された窓へと目をやった。
「しかし、流石超能力者と言うべきか。味方に回れば、これほど頼もしいとは」
「む? その言い方は、四月一日に彼と接触したか?」
「接触すらできなかったんですよ。純粋に疑問なんですけど、クリケットさんは我々を何だと思っていたんですか?」
「普通の部隊ではないのか?」
「あなたの無茶苦茶に普通の部隊がついていけるわけがないでしょう。我々は特殊部隊、バレットですよ。恥ずかしながら、四月一日には高校生相手に手も足も出ませんでしたが」
バレットと言えば、昔ジミー・ディランが所属していた部隊だったか。私も特殊部隊関係は詳しいことは知らないが、ヴィクトリアからかなりの自由を許されていたのは、彼らという保険があってこそだったのだろう。
「貴様。名前は?」
「部隊内でのコードネームはアーミー2。本名は、ラーマンといいます」
「そうか。憶えておこう」
私が彼に頷きを返すと、どうやら部隊長らしい人物が渋面でラーマンの肩を叩いた。彼はいたずらな笑みを浮かべると、私に背を向ける。どうやら彼らは、私との接触を禁じられていたようだった。
敵拠点の出口へと向かいつつ、私は耳元の通信機に触れ、出現したホログラムウィンドウを操作し、御影奏多と治安維持隊用のネットワークにより通信を繋いだ。
もちろん、音声のみのため、ウィンドウに映像が映し出されることはない。だが、会話するだけならそれも問題はなかった。
『終わったか』
少し緊張感の混じった声で、御影奏多が問いかけてくる。彼に見えるわけではなかったが、反射的に私は首肯した。
「安心しろ。全て計画通りだ。一度限りの大博打ではあったがな」
だからこそ、成功した。
誰もが考え付ける可能性があり、しかし絶対に実行に移すことのない愚策。御影奏多は誰よりもそのことを理解し、それでもやり遂げたのだ。
それは、四月一日や、今回のことだけではないのだろう。常人には理解できない原動力が、彼にはある。それは天からの祝福であるかもしれないし、あるいは呪いかもわからなかった。
『そうか。……少し、安心した』
ほう、とため息の音。無理もないだろう。敵対しているとはいえ、国の頂点に立つ私の命を預かったのだ。それも、己のエゴのために。かなりのプレッシャーがかかっていたことは、想像に難くない。
「わかっているとは思うが、重要なのはここからだぞ、御影奏多。我々が仕掛けた以上、向こうも動く」
一応念を押しておく。天賦の才があるとは言え、彼はまだ未熟だ。浮かれて、本命であるテスタメントのことを忘れられては困る。
『ああ。ここから先は、戦争だ。くだらない理想論に囚われている暇はない。だが、俺なら大丈夫だ。間違いでも、間違いではないさ』
「いやに強気だな。今回の件で、自信がついたというわけか」
『そうか? 俺は元々こんなんだぜ。ありとあらゆる可能性を想定し、その全てを無視してきた。だからこれからも無視するのさ』
「……?」
彼の言わんとしようとしていることが、よくわからない。確かに彼の言っていることは、一部正しい。それは御影奏多の本質であり、あり方だ。
だが、どこか、らしくない。正直表現しがたいが、自己分析を深めているからこそ、彼はそれを表に出さないはずだという確信がある。
『大丈夫さ。四月一日だって、俺は全てを叶えた。なんだってできる』
「……何を言っている?」
足が、ひとりでに止まった。
ただただ、混乱があった。
得体のしれない、違和感がある。言っていることが支離滅裂だ。だというのに、確かにそれは彼の意思なのだろうという説得力だけがある。疑いようもないことが、逆に疑わしいという、なんとも名状しがたい混乱がそこにはあった。
『そうだ! 停滞するのはもう終わりだ! ここから先は、好きなように、勝手気ままに、したいようにしていいんだよ! まったく、いつも通りに最低だぜ! だからこそ最高だ!』
あたかも。
御影奏多よりも御影奏多で、本物よりも本物な、誰よりも人間で、どこまでも凡人である『誰か』と話しているような。
「貴様――」
『待てレイフ! さっきまでのは俺じゃない! 俺の声だけど……俺じゃないんだ!』
御影奏多の叫びが、御影奏多の独白を遮る。ここに来てようやく、私ははっきりと、今まで話していた相手の正体を認識した。
『悲しいことを言うなよ、御影奏多。俺は誰よりも御影奏多だ。――僕は君であり、君は私だからね』
御影奏多ではなく、ある女の声が私の耳朶を打った、その瞬間。
私は御影奏多の元へと向かうべく、部屋の出入り口に向かって走り出していた。
「レイフさん!?」
バレットの隊員の一人が呼び止めてきたが、相手にしている暇はない。エレベーター前を通り過ぎ、階段を半ば転げ落ちるようにして階下を目指す。
『二ヶ月ぶりだね、御影奏多』
『ボクシ……ッ!』
『その通り。しかし、やっぱり変わらないな君は。変わらずぶっ壊れている。それも当然だ。何かを変えることができる人間は、総じて化け物だと決まっているからね』
『……お前!』
『言いたいことはわかっているよ。人間は共感し合えない生き物だっていうのが君のスタンスだ。そんな君の在り方を、私は完全に理解しているとも。共感すらできる。私は人間を極めし人間だからね。究めた、の方が正しいかもしれないけど』
『言ってることが……』
『矛盾しているっていう、君の十八番は通用しないよ。君の思い込みが、絶対ではないと証明しただけじゃないか』
私が移動している間にも、通信による二人の会話は続いていた。
「……」
拳を握る力を強くする。今、私が何か言ったところで、藪蛇になりかねない。会話の全てを思い通りに操るのが彼女だ。
何をどうしたのかは知らないが、彼女は私と彼の通信に割り込んできている。だが、物理的に通信を断ち切ってしまえば、いかに彼女と言えど会話を続けることはできなくなる。彼女の呪いにも似た独演を止める手段は、それしかない。
『誰にも自分の内面を見ることはできない。ならばその逆もしかり。まったく。諦めが悪いね、君は。まったく諦めてこなかったからこその諦念だ』
一階エントランスから、ビルの外へと飛び出し、向かいの建物の屋上を見上げる。あそこにたどり着くには、まだ時間がかかる。私が会話を中断するのが先か……彼が、ボクシに壊されるのが先か。もう、あまり猶予はない。
『どういう……』
『何かを非難するという行為は、それだけ期待していたということに他ならない。君は他者の感情に向き合い、受け止めようとした。だからこそ、それができないとわかった。普通なら共感できないという事実にすら気がつかない。世界が想像だけでできているなんていう結論を想像できる時点で、君は人類すべてと向き合う権利がある。もちろん、私には及ばないけどね』
道路には当然のことながら、車が何台も走っている。ここで無理やり道路を横断するのは、得策ではない。少し遠回りにでも、信号のあるところまで移動し渡るのが最適解だった。
そして、当然のように信号はまだ赤だった。そこで一端、立ち止まることを余儀なくされる。
『君は今、あれと行動を共にしているんだろう? だったらそろそろ、無遠慮に、無造作に、自分の本質とかいうやつをつきつけられているはずだ。そうだろう? 『救世主』さん?』
『……ッ!? お前はレイフとは違う! 会話もそれほどしていない! なのに!』
『理屈が必要かい? 生憎だけど、僕はあれとは違う。少しの情報と、直感に頼っただけだ。君という人間を知るには、四月一日だけで十分だったさ。仕草、表情、口調。手掛かりは無数にある。ただ、私以外の人間には拾えないだけの話だよ』
信号が青になる。もう、なりふりかまってはいられない。通行人を半ば押しのけるようにしてひた走り、つい先ほど御影奏多と共に入ったビルのエントランスへと飛び込んだ。
受付にいた女性が、私の姿を見て目を丸くする。それもそうだろう。上に行ったはずの人間が、また下から入ってきたのだから。
『誰かが言った。人を許せるのは、その人自身だけだと。でもそうじゃない。それで納得できるほど、人間は強くない』
『……』
『君が守りたかったのは世界。人間の全て。対象が、隣にいようがいなかろうが関係ない。だって、本当に守りたかった人たちは全員、君の知らないところで不幸になった』
エレベーターを無視して、階段を昇る。つい先ほどまで戦闘中だったこともあって、だいぶ呼吸が乱れてきているが、そんなことを気にしている暇はない。
『君の知らないところで、母親は不治の病に侵された。君の知らないところで、親友が復讐心に囚われた。君の知らないところで、あの少女は誰よりも孤独だった。そして、君の知らないところで、ヒジリホノカは……』
『やめろ! もういい! わかってるから! もう、やめてくれ!』
とても御影奏多の物とは思えない、悲痛な叫びが私の鼓膜を揺らした。
だが、そんなことで彼女は止まらない。そんなことでは、止められない。
『この世に正義はなく、悪もない。それがわかっていて、その事実を誰よりも憎んだ相手に教えられて、なお立ち止まることをよしとしないのは……何も変えられず、動くこともできなかった自分を。四月一日もまた、問題を先送りにすることしかできなかった自分を、許してほしいからだ。結局、力を手に入れるという手段が目的となってしまった、御影奏多という愚かでつまらない人間を、誰かに認めてほしいだけだ』
『俺は!』
『何が『救世主』だ。笑わせないでくれ。あれは人の本質はつけるけど、人の心をわかってない。君が本当に救いたいのは、世界ではなく君自身だ。世界を救うことで、世界に認められたいんだ。滅私でも自己犠牲でもない、ただのエゴだよ。まったく。君のあり方が、周りにどれだけの迷惑をかけているか。理想郷でしか生きられないなら、いっそ夢の中で永眠してろ』
『「黙れぇッ!!』」
屋上の扉を開けるのと同時に、通信機からの音声と、彼自身の叫びを同時に耳にした。
彼の元に駆け寄り、宙に浮かぶ『NO IMAGE』と表示されたホログラムウィンドウを消去する。突然通信を断ち切られ驚いたのか、彼は一瞬体を震わして、私を見つめてきた。
「エゴだからどうした。それの何が悪い」
「レイフ。お前……」
御影奏多の目の光が、揺れる。走り続けたことで乱れる息を何とか押さえつけて、私は喉奥から何とか言葉を掻き出した。
「聞くな。無視しろ。彼女の言葉は、貴様にとって毒でしかない」
「……」
御影奏多は唇を噛みしめると、私から目を逸らした。
言葉が足りない。言葉にならない。
自らの無力さを、突きつけられる。最適解が導き出せない。論理的思考が役に立たない。私には、それしかないというのに。
『変わらないね、君は』
小型通信機から、彼女の呟くような声が聞こえてくる。
私にはわからない。その言葉に、一体どのような感情が込められているのか。何を言えば、彼女は救われたことになるのか。
『君は正しい。正しすぎて正したくなるけど、正しいから正せない。ああ、ああ。僕も、少し期待してしまっていたんだね。あれからもう七年だ。変化を望まない方がおかしい』
彼女の声は、既に覇気が欠けていた。
人間を極めし人間。彼女は誰もたどり着けなかった高みにいるが、そこは同時に、誰もが手が届く可能性のある場所でもある。だからこそ彼女は、人間を超えることはできない。人間という枠から離れられない。そんなことは、他でもない彼女自身が、一番わかっている筈だ。
「ここではあえて、貴様を『ボクシ』と、そう呼ぶことにしよう。ボクシ。貴様の望みは何だ? 何のために、動いている? ……なぜ、御影奏多を精神的に潰そうとした?」
『ああ。そっちか』
彼女は本当にどうでもいいというように、せせら笑った。先ほど御影奏多と会話していたときとはまるで別人のようだった。
『私は依頼された通りにしただけだよ。いつも通りにね。だけど、駄目だね、これは。君が近くにいては、どうしようもない』
「貴様の裏にいるのは誰だ?」
『五月蠅いな。不愉快なんだよ。君の声を聞くだけで、虫唾が走るくらいだ』
私は喉元までこみ上げていた思いを飲み込み、唇を引き結んだ。
どうしようもない。私と彼女の間には、取り払うことのできない境界線が存在する。踏み越えることなど許されない。
『わかっていた。御影奏多を排除するなら、君と向き合う以外の選択肢がないことは。もちろん依頼にはこたえよう。でも、最優先することはできそうにないな。私は人間を極めし人間だ。だからこそ、君に背を向けるという選択肢はありえない』
「それは不毛な行為だ」
『そう言えてしまうから、君は救いようがないんだよ』
今度こそ、私は黙り込むしかなかった。彼女に対して何もしてこなかった以上、これは必然だった。ルークは私が同じ異常に対して弱いと言ったが、まったくもってその通りだ。
彼女は異常者だ。
御影奏多以上に壊れ、外れている。
『最後に一つ、無駄だろうけど忠告するよ』
顔中に汗を浮かべて、その場に崩れ落ちた御影奏多の隣で立ち尽くす私に、彼女は低い声で言った。
『御影奏多に期待させるな。どうせ君は、何もできないんだから』
その言葉を最後に、通信は断ち切れた。
夜の風が、私たちに吹き付ける。少し湿り気を帯びてきているような気がするのは、春から夏に変わりつつあるからか。
だがしかし。もし、私の内面を、心象風景として表すならば。
そこは、季節の変化も何もない、永遠に広がり永遠に凪いだ、空の青を映す湖面なのだろう。
「……何なんだよ、アイツ」
絞り出すような声に、私は御影奏多へと目を向けた。彼は座り込んだ状態のまま、額に浮かぶ汗を拭って、ゆっくりと首を振った。
「どこか雰囲気が似ていると思っていたんだ。だけど、違った。反対だったからこそだ」
「何の話だ?」
「お前とあの女の話だよ。四月一日にもなんか引っ掛かるところがあった。んでもって、今それが確信に変わったよ」
彼は私のほうを見上げると、疲れ切ったため息を吐いた。
「お前が人間観察を得意とするなら、アイツのは人間定義だ。アイツが何かを言うたびに、俺が彼女の思い通りに変えられていくような、そんな気持ち悪さがあった」
「……反対、か」
「そうだ。お前は本物で、彼女の方は偽物だ。だが、好悪で語るなら、あの女の方がまだましだった。この際ハッキリ言うけど、あのとき、俺はお前が心底恐ろしかったよ。正しさっていうのはそれだけで、人を委縮させる刃になる」
あのとき。曖昧な表現ではあるが、チェス盤を挟んでの会話のことを指しているのは、まず間違いないだろう。
あの会話があったからこそ、御影奏多はボクシの精神攻撃に耐えきれたのかもしれない。だが逆に言えば、彼にとっては私という存在がボクシ以上に受け入れがたいということだ。
信頼は勝ち取れた。だが、それだけだ。私にできたのは、そこまでだった。
それ以上彼は何も言うことなく、じっと座り込んだままだった。
このとき私は、どうすればよかったのか。それはきっと、未来永劫解き明かされることのない、命が終わるその瞬間まで、私にまとわり続ける疑問なのだろう。




