Episode 3-1
Episode 3
1
元帥との会談を終え、例によって私は、かつて第二十七特殊部隊の部屋であった、超越者用談話室へと向かっていた。
二三九九年六月。アウタージェイル掃討作戦が決行された七月七日まで、既に一月を切っている。今年も何らかのセレモニーが行われるのだろう。あれから既に七年が経過している以上、少々きな臭いことになってきているのは仕方がないのかもしれない。
恐怖は消失しない。だが同時に、たとえ存在していたとしても、存在している事それ自体を忘れ去られていく。何らかのきっかけで掘り起こされない限りは、恐怖に縛られることはない。人間はそう形作られている。そうでなければ、日々の生活に甚大な悪影響を及ぼすからだ。
「考えてみれば、御影奏多は掃討作戦を知らない世代か」
誰に聞かせるまでもなく、呟く。当時、御影奏多は十歳。超能力者として選出された直後だろう。当時の記憶は、ひどく曖昧なものであるはずだ。
はたして、七年前まで彼はどういう性格だったのか。今と同じようにひねくれていたのか、あるいは真っすぐだったのか。私は後者だろうと予測していた。どちらでも構わないが。
と、つらつらと考え事をしている間に、私は地下三階の例の扉までたどり着いていた。私はドアノブを掴むと、ノックをせずに一気に開け放った。
御影奏多が、十歳の少女とコンピューターゲームで遊んでいた。
「だあ! また負けた!」
「弱いのです。大人なのに」
「俺はまだ高校生だよ!」
「御影の方が大人なのです。マリは小学生の年齢なのです」
「……グッ! 子供のくせに生意気だぞ! もう一回! もう一回だ!」
言っていることが酷く矛盾しているような気がしてならなかったが、問題とすべきはそこではなかった。
御影奏多と反対側のソファに座る女児へと、目を向ける。かなり小柄だ。薄い黄色の入った肌から、原住民と移民のハーフだと判断できる。混血が進んでいるため、そう定義づける意味はあまりないが。
茶の髪は比較的短いが、二つに纏められていて、ぱっと見動物の耳のようになっている。そのようにしていると、昔本人から聞いた。彼女の傍には赤いランドセルが置いてあったが、中に教科書などは入っていない。小学生風ファッションなのだそうだ。これも本人から聞いた。
彼女の名は、マリ・ウェルソーク。主な仕事は、エンパイア・スカイタワーを徘徊し、行く先々で菓子をたかり、暇つぶしの相手をしてもらうこと。それは仕事とは言わないと思うが、これも本人の主張だから仕方がない。
御影奏多の肩越しにウィンドウを覗き込むと、どうやらアクションゲームの対人戦をしているらしかった。幸い私も知っているタイトルだった。なかなかストーリーが秀逸であるため、私も三週やったうえでクエストを全部コンプリートした。大会で優勝したこともある。
嘘じゃない。本当だ。
「くっそ! それくらうと一撃でやられるんだよ!」
「へへーん。やっぱりマリは強いのです。さいっきょーなのです。わかったら、大会予選の最後まで行ったのは嘘だと認めるのです」
「そ、それは嘘じゃないぞ! 本当だぞ! 黒騎士003とは俺のことだぞ!」
「そんな人、知らないのです」
……何? 黒騎士003?
どこか聞き覚えがあるような、そんな気がする。
「おい、御影奏多」
「大体、お互いの条件が……って、アヒャイ!? お前、いつからそこに!?」
「何だ、今の驚き方は」
私は肩をすくめて続けた。
「貴様、Silver Night 2というハンドルネームに聞き覚えはないか?」
「お前知ってんのか? 二年前ぐらいに、俺の本選進出を阻んだ奴!」
「……」
もしかしなくても、私だった。
両者の因縁は、今年の四月一日よりも前から存在していたらしい。
しかし、解せない。予選でも最後まで行けたということは、彼もそれなりの実力を持っているはずだ。マリ・ウェルソークがコンピューターゲームを得意としていた覚えはないのだが。
「御影とやってもつまらないのです。クリちゃんと代わるのです」
「クリちゃん? まさか、コイツのこと?」
「いいだろう。手加減できるほど、私は器用ではない。そのつもりでいろ」
思わぬあだ名にフリーズした御影奏多を押しのけて、ウェルソークの向かいに座る。だが、御影奏多のウィンドウを目にした瞬間、私は瞠目してしまった。
御影奏多の使用していたキャラクターのレベルは1。対するウェルソークの方は、99。カンストしていた。強さの差は見た目にも現れていて、こちらのアバターが小人程の大きさなのに対し、向こうは身長がゲーム内の縮尺でも三メートルはあるであろう大男だった。
「……これは」
思わずそう呟いた途端、御影奏多が顔を寄せて囁いた。
「ハンデだよ、ハンデ。負けたらうるさいんだこれが」
なるほど。さきほど御影奏多が、一撃でやられると言っていたのは、そういうことか。このゲームには、一瞬で勝敗が決する、いわゆる即死技というものはないので、妙だとは思っていたのだが。
たとえどんなに弱い攻撃でも、当たってしまえばこちらの負けだ。逆に勝つには、強攻撃でも百回は繰り返す必要がある。正直言って、これはハンデと呼ぶには理不尽すぎた。
これほどスペックの差があるのなら、手を抜く必要はないだろう。そう考えた私は、気を引き締めて画面へと向き直った。
ゲームが始まった。
三十分後。私が勝利した。
「おーい! なにしてくれとんじゃワレェッ!」
御影奏多が私の襟首をつかんで、前後に激しく揺らしてきた。
「そこは負けとけよ! なにリアルジャイアントキリリングしちゃってんの!? というか、三十分間相手の攻撃全て避け続けるとか、お前は神か!」
「そう言われても困るのだが……」
それほど大した話でもない。相手は素人。攻撃もワンパターンだった。だからこそやけくその一撃が恐ろしかったのだが、彼女は対戦相手としては悪い意味で正直すぎた。
で、その対戦相手であったマリ・ウェルソークは、泣いていることを隠すためか、ソファの上で横になり、頭をランドセルに突っ込んで、くぐもった叫び声を上げていた。
「クリちゃんのバーカ、バーカ! 弱い者いじめはいけないのです!」
「泣かせたな! 女の子を泣かせたな!」
「……やかましい」
ウェルソークが騒いでいるのはいつも通りだが、御影奏多までもがギャンギャン喚き散らしているのは意外だった。もう少し理性的だと思っていたのだが。
「しかし、何なんだコイツは」
幾分か落ち着いた御影奏多は、未だにランドセルをかぶった状態のマリ・ウェルソークを見下ろして、わしゃわしゃと髪を手で掻きまわした。表情から察するに、彼女の奔放さに相当振り回されたのだろう。やはり彼は、災難体質なのだろうか。
「エンパイア・スカイタワーのいたるところに現れ、仕事を妨害してくる小学生コスプレ幼女だ。一部の層から絶大な人気を誇り、食事は全て隊員から施されたもので済ましている」
「ただの寄生虫じゃねえか」
「与えるほうも幸せならそれでいいと、ヴィクトリアは判断した。そろそろ帰るぞ、御影奏多」
私はソファから立ち上がると、部屋の奥にある自販機へと歩いて行った。硬貨を投入し、凍らされたオレンジジュースのボタンを押す。
「その言い方。何か嫌な予感がするんだが。お前はどこに帰るつもりなわけ?」
「もちろん、貴様の住む家だ」
ガコン、と音を立てて落ちたペットボトルを取り出し、ランドセルをかぶったまま足をじたばた動かしているマリ・ウェルソークの前のテーブルに置いた。彼女が正気に戻るころには、ほどよく溶けていることだろう。
御影奏多は右手を額に押し当てると、やれやれと言った調子で首を振った。
「理由は、俺の護衛役だからってところか。まったく。そのうち、俺の家がホテルか何かのような扱いになるんじゃねえだろうな」
「十二分に広いのだから問題ないだろう。かねてから疑問に思っていたのだが、貴様はなぜあれほどの豪邸に住んでいる?」
「俺だって好きで買ったわけじゃねえよ。不動産の奴に全部任せたら、あの野郎、俺を上客扱いして、指定した額ぎりぎりの物件を持ってきやがった。あんな見た目でも、第一高校の学生様がふんぞり返っているウサギ小屋に八年住むよりは安いぞ。元の持ち主が書斎で自殺しているうえに、俺が買ったときには廃墟寸前だったからな」
「なるほど」
ひとまず、彼の説明に素直に頷いておくことにした。
しかし、この少年もかなりのひねくれものだった。罵詈雑言をまき散らしつつも、口元は笑みの形で固定されている。果たしてこれは、皮肉の笑みか、それとも本心が零れたものなのか。無意識とは言え、このあたりのはぐらかし方はルークに通ずるものがあった。
「私の住むアパートに寄らせてもらうぞ。それなりに準備しなくてはならない。道は教える」
「……というと、またサイドカーに乗る気か?」
「何か問題でも?」
「いや問題ではないけどさ。諦めるけどさ」
「なるほど。私に運転してほしいのか」
「なぜにそうなる! いやしかし、ビジュアル的にはそっちの方がましか?」
御影奏多はしばらく腕組みをして考え込んでいたが、やがて表情を幾分か柔らかいものにして言った。
「それじゃ、運転をお願いしようか。事故るなよ」
「無論だ。私を誰だと思っている」
※ ※ ※ ※ ※
結果、一般道を時速百キロオーバーで爆走することになった。
「あ、アホー! アーホー! スピード違反どころの騒ぎじゃないって! 死ぬ! これ絶対死ぬ! 今サイドカーの車輪が浮いたんですけどお!?」
「やかましい。黙って乗ってろ」
「白バイ! 治安維持隊のバイクが追って来てるぞ!」
「仕方ない。まくか」
「そんな馬鹿な!? お前、治安守る側だよな、オイ! というか、そう簡単に逃げられないぞこれ!」
「仮に捕まったとしても、超越者のバッジを見せれば無罪放免だ。ヴィクトリアがトップにいる限り、私は法の外にいる。逃げようが捕まろうが結果は同じだ。故に今最優先すべきは、夕食の時間までに帰ること。お腹がすくのは良くない。とっても良くない」
「なーにお茶目なこと言ってごまかそうとしてるんじゃワレェ!」
「しかし、なかなか危険な乗り物だなこれは。無免許で運転する物ではない」
「無免許だったんかいッ!」
※ ※ ※ ※ ※
……とまあ、壊れたスピーカーよろしくがなり立てる少年を連れての、暴走族の如き帰還となった。
御影家正門を潜り抜け、砂利道の上を走っていく。タイヤにはあまり良くないように思うが、歩いていくには邸宅まで距離がある。ガレージも妙なところにあったし、前の持ち主が何をしたかったのかが少々理解できない。
事前に知らせてあったため、サミュエル・ウォーレンに案内された部屋に荷物を置き(なぜか和室だった)、食堂へと移動したときには、既に二人分の食事がテーブルに用意されていた。
かなり広い食堂だ。柱は上の方で弧を描き、天井で合流してアーチとなっている。シャンデリアがいくつか吊り下げられているところから見ても、西欧の意匠と見てよいのだろうか。詳しいことは何とも言えない。
「おい。アイツの分はどうした」
御影奏多の問いかけに、ウォーレンは私たちを席へと案内しながらにこやかに答えた。
「ノゾム様ならもう済ませました。今はお部屋にいるものかと」
「……なるほどね」
御影奏多は少しの沈黙の後にそう言って頷くと、席に着いた。私の席は彼の向かい側だ。メニューは中華。麻婆豆腐、餃子、チャーハンなどなど。
見た目からしてかなり豪華だが、この老人が作ったからには、そこらのレストランが出す物より数段勝る物なのだろう。栄養補給という観点では、治安維持隊の食堂で出されるものと甲乙つけがたいかもわからないが。
「ご老人。なぜ、御影奏多に仕えている」
私はかなり赤みの強い麻婆豆腐をレンゲで掬い取り、ウォーレンに話しかけた。
「なぜ、とは?」
「言葉通りだ。子供が主というのは、珍しい話だと思うのだが」
「ハハハ。簡単な話です。ずばり、趣味ですよ」
「フォウ?」
「……何ですと?」
麻婆豆腐が辛すぎて舌が痺れた。食べるのに苦労しそうだ。
私が御影奏多の方へと視線を向けると、彼は肩を竦めた。
「正確に言えば、ウォーレンは執事じゃねえ。そもそも雇っていないからな。ひょんなことで知り合ってから、いろいろと面倒を見てもらってはいるが、給料を支払おうとしても受け取ってくんねえんだこれが」
「所詮、老後の暇つぶしでございますから」
「……暇つぶしでここまでされたら、全国のハウスキーパーが泣くって何度も言ってんだろ、オイ。冗談で言ってるならまだマシだったんだけどな」
彼は苦笑して、スープの入ったカップを口元に運んだ。
御影奏多の人に対する評価基準が非常に厳しいことはだいたい察していたが、その彼がここまで褒めちぎるとは。あの武術の腕といい、この老人は何者なのだろうか。
案外、本当にただの一般人という可能性もあるかもしれない。世の中には、表に出ない才能というものが多く眠っているものだ。
「幸運なことだ」
思わず私がそう呟くと、御影奏多の動きが一瞬止まったのがわかった。すぐに何事もなかったかのように
食事を再開したが、私の言葉が、彼の心の琴線に触れた、あるいは、彼の地雷を踏みぬいてしまった可能性が高い。
しばらく食事を続けたところで、私は一度レンゲを置いた。
「どうした? 料理が冷めるぞ」
御影奏多が私と目を合わせずに、少しばかり平坦な口調で言った。察しがいい相手だと、会話の一つでも苦労させられる。
「ヴィクトリアの思惑を教えてやる」
「俺を手に入れたいだけじゃなかったのか?」
彼はそう、心にも無いことを言って、先ほどとは別種の笑みを浮かべた。相手を退け、あわよくば傷つけるための冷笑だった。
「わかっているだろうに。御影奏多。貴様には、今回の治安維持隊の作戦に参加してもらう。公理評議会との橋渡し役として、前線に出ることになるだろう」
「嫌なこった」
……即答だった。
取り付く島もないとは、このことだ。流石にここまでバッサリと切って捨てられるとは思っていなかった。
黙り込んだ私の前で、彼はクツクツと笑った。
「何だよ。そんなに意外だったのか」
「断られる可能性は頭にあった。だが、もう少し遠回しな言い方をすると思っていてな」
「生憎と、言葉の化かし合いでは勝ち目が無いことを、重々承知しているんでね」
御影片多は吐き捨てるようにそう言うと、箸で餃子を強く挟んで潰した。
なるほどと得心する。ヴィクトリアとルークの権力闘争に巻き込まれるのは、当事者としてはたまったものではない。ある程度慎重になるのも仕方のない話だろう。
「この際だ。俺が公理評議会側の人間であることを前提にして議論を進めるとこまでは許容してやる。だがな。俺は詐欺師の人形になるつもりはねえ。ましてや、あの痴女の思惑にのってやる義理も理由もない」
「……」
「だいたいあの詐欺師も、俺に何の指示も出してないじゃないか。俺を動かしたいのなら、まず奴を通せ。話はそれからだ」
「それはおそらくできない。公理評議会側にいる貴様が、自ら我々の利となる行動を取ること。それが肝要だというのが、ルークの判断なのだろう」
「ああ、そうですか。だったらこうしよう。俺は頭が悪いから、お前らの考えがさっぱりわからない。上司から丁寧に説明されるまでは、動くことができないってな」
なかなかうまい逃げ方だと、私は思った。
彼が言ったことは建前だ。実際には、御影奏多は私の言うことにある程度の理解を示している。だが、わからないと主張されてしまえばそれまでだ。裁判で『記憶に無い』と発言して真相をはぐらかすのと、似た手法と言えるだろうか。
今、治安維持隊も公理評議会も、かなり危ない橋を渡っている。何か問題が起これば、即対立しかねない犬猿の仲だ。故に、あの傍若無人のヴィクトリアですら、私には『御影奏多の護衛をしろ』としか命令を出していない。
私が次なる言葉を紡ぐ前に、御影奏多は夕食を平らげると、ナフキンで口元を拭いつつ、始終給仕の仕事をこなしていたウォーレンに微笑みかけた。
「御馳走様。うまかった。が、そろそろ休んでいいんじゃないか? 俺の料理の腕がなまる」
「料理なんてしていなかったでしょうに」
「お前が始める直前まで練習してたんだよ。ホント、お前も頑固だな。仕方ない。とりあえずは、その好意に甘えるとしますかね。悪いが、『お客様』の相手は、お前に一任するぞ」
「了解しました」
御影奏多は鷹揚に頭を下げるウォーレンに背を向けて、こちらには一瞥もくれることなく、食堂から立ち去って行った。
「……やれやれだ」
私がレンゲで麻婆豆腐を突っついて、ポツリとそう呟くと、ウォーレンが御影の残した食器を片づけつつ言った。
「なかなか難しいお方でしょう」
「そうか? 確かに反抗的ではあるが、その根底にある物は、一般の青少年と共通するものがあると思うのだが」
私の指摘に対し、ウォーレンはゆるゆると首を横に振った。
「もしそうでしたら、私は御影様に仕えておりません。……彼は、その。誤解を恐れずに言いますと、『危うい』ような気がしまして」
「危うい?」
「はい。御影様が特別だと言うつもりはありません。彼が毛嫌いする言葉の一つでもありますしね。かといって、普通と言われても頷けないと言いますか……」
「何か、引っ掛かる物があると?」
私の指摘に、ウォーレンは重ねて持っていた食器を一度テーブルに戻し、無言で頷いた。私は米と麻婆豆腐を咀嚼して飲み込んで、ウォーレンへと向き直った。
「興味深いな。少し話さないか、サミュエル・ウォーレン」
「ええ。構いませんよ」
ウォーレンは先ほど御影奏多に向けたものと同種の笑みを見せて、御影奏多が座っていた席に腰を下ろした。
「では、今現在の、御影様に対する印象をお聞かせ願いませんか?」
「自らより上にいる者に対する対抗心が強い。物事を達観し皮肉る傾向にあり、中立的な立場をとる。さらには、そうある自分を正確に把握し、自嘲する。『抵抗者』、『日和見』、『自己嫌悪』。この三単語が、御影奏多という人間の核だ」
「…………」
「どうした?」
「いえ。私が思う以上に、具体的な分析を進めていたことに、少々驚きまして。根拠を聞かせていただいても?」
「『抵抗者』であることは先ほど言った通りだ。『日和見』。これも、先ほどの会話からわかる。どっちつかずに、自身に都合のいい選択をしていたからな。『自己嫌悪』に陥っていることも明らかだ。自らを愚者だと、否定の言葉を求めるわけでもなく、心の底から言い切れる人間はそう多くない」
「大枠として見れば、当たらずとも遠からずだとは思います」
「しかし、外れていると?」
「ええ。私はあなたのような考え方はしませんし、語彙力にも乏しい。うまく言葉にすることができないのですが、何かが間違っているような気がしてならないのです」
ウォーレンの言葉は、彼自身が指摘したように、かなり抽象的なものだった。だが、彼の方が本質をついていることは間違いないだろうという確信があった。
「ですが、気を付けた方がいいですよ。御影様は、人間を言葉で定義することを嫌悪します」
「言いたいことは分かる。だが、それだと何も始まらないぞ。誤解が混じる可能性を許容することもまた、他者に対する配慮と言えると思うが?」
「正確に言えば、御影様は、人間というものを安易に一言で切り捨てられることを嫌うのです。態度が真摯であるかどうかが重要なのでしょう。……そうですね。よくよく考えれば、あなたほど真正面に人と向き合う方なら、御影様も邪険に扱ったりはしないでしょう」
「既にかなりの敵意を向けられているぞ」
「ハハハ。御影様が本気で他人を敵視したときには、あんなものではすみませんよ。この私ですら、背筋に冷たいものが走る気がしてなりません」
「……気がしてならない?」
その言葉の意味するところを考えてみる。が、いかんせん情報が足りない。思えば、彼とは一日過ごしただけの関係だ。それだけで何か結論を出せるはずが……。
『いや。初対面時のあれが、一番参考になるか?』
四月一日。御影奏多を追い詰め、金堂真の娘が私の前に立ちはだかった、あのとき。御影奏多は極限状態にあった。むき出しの感情というやつを、私にぶつけていたはずだ。
……ぶつけていた? むき出しの、感情を?
本当にそうなのか?
まだ何か隠しているのか。いや、あるいは……隠してすらいないのか。
本人すら自覚していない何かが、そこにあるのか。自分のことは自分が一番分かっているだろうと言えば、それは違うと御影奏多が冷笑を浮かべるであろうことくらいは私でも予測できる。彼がそのような態度である以上、こちらから踏み込まなくては何も出てこない。
確かめてみる必要がある。
「ご老人。御影奏多が、自身について語ったことはあるか?」
「あります」
「具体的には?」
「彼はこう言いました。『御影奏多という人間を誰よりも憎悪するのは、御影奏多自身だ』と。さらには一度、私が御影様を『格好つけ』だと表現した際、『的を射ている』と答えました」
「それだけ聞くと、『自己嫌悪』が一番当てはまるように思えるが」
「先ほどの、クリケット様の分析。御影様はおそらく、『正しい』と見るでしょう。御影様の自己分析とかなりの部分で一致しているはずです」
「だが、ある真実が、真実の全てだとは限らないということか」
「私たちが見ている物は、枝葉の部分に過ぎないのかもしれません。地中深くにはられた根の部分。これを掘り起こしてみない事には、何ともいえません」
彼の言う通りだと、私は思った。
どうやら私の思う以上に、御影奏多は複雑怪奇な人間のようだ。もちろん、人間はいつだって難しい。だが、ある程度パターン化されていることも事実だ。しかし彼は、そのパターンからかなり外れているようだった。
「そろそろ、この家で過ごすうえでの、簡単な注意事項などを話させていただいても?」
「……ああ、そうだな。お願いしよう」
ウォーレンの呼びかけに、思考の迷宮から現実へと呼び戻された私は、御影奏多が指摘した通り冷めてしまった夕食を手早く口に運びながら頷いた。
「といっても、話すことはそれほどありません。普通のホテルに泊まる感覚で結構です。ですが、女性がいることに配慮していただくと幸いです」
「ほう。あの娘は、この家に住んでいたのか」
「ご存知なかったのですか?」
意外そうな様子だったが、私とて御影奏多の全てを知っているわけではない。いや、まったく知らないと言った方が正しいだろう。
ヴィクトリアも、書類レベルでいいからもう少し情報を渡してくれると幸いなのだが。あとで請求しておくことにしよう。
「お風呂はかなり広いですが、一つしかありません。シャワーが複数あるとはいえ、交代制で使用していただくことになるでしょう。午後九時ごろにはノゾム様が使用するので、それを頭に入れておいてください。誰かが入っているときには、扉に札が下げられています」
「……もはやただの宿だな、ここは」
「そう言っていただけると幸いです。この家を民宿のような形にするのが、私の夢でして」
「御影奏多がそれを許すとは思えないのだが」
「ええ。ですから、なし崩し的にそうできないかと。御影様。そして、ノゾム様も、もう少し他者と触れ合うべきだと思うのです」
「貴様のような理解のある人間が傍にいるとは、御影奏多も恵まれているな」
「ハハハ。ただの年寄りの、おせっかいでございますよ。それに……」
そこでふと表情を陰らせると、ウォーレンは御影の残した食器の一式を手に持って、呟くように言った。
「私が御影様の理解者になれるとは思えません」
「……」
「あなたが、そうなってくれれば幸いです」
「私が彼らの、敵であったとしてもか」
「だからこそです。御影様にはずっと、敵対してくれる人間すらいなかった」
私は最後の豆腐の欠片を口に放り込むと、じっとウォーレンを見つめた。
彼の顔は真剣だった。彼が全てを知っているとは思えない。かつて私が、御影奏多に重傷を負わせたことについても、また。
しかし、御影奏多が政治的な闘争に巻き込まれていること。私と彼が、敵対する陣営に属していることくらいは把握しているだろう。彼はそれを知ったうえで、私に依頼しているのだ。
「いいだろう。貴様が心からそれを望んでいるのなら、私もそれに応えないわけにはいかない。真の理解者などいないという問題は、また別としてな」
「感謝します」
ウォーレンは器用にも、食器を落とすことなく深々と頭を下げてきた。
食堂の柱に付けられた時計へと目を向ける。時刻は丁度、午後九時を過ぎたばかりだった。
「では手始めに、あの娘と一緒に風呂に入ろうと思う」
「それがよろし……何ですと?」
急に真顔になったウォーレンに対し、私は大きく頷いてみせた。
「だから風呂だ。今から、突撃隣の女風呂を敢行してくる」
そう言って、私が椅子から立ち上がろうとした、次の瞬間。
床に食器が落ちて砕け散る音が食堂に響き渡り、ウォーレンが老人のそれとは思えないすさまじい速さでテーブルに飛び乗って、私の顔面に靴底をめり込ませた。




