第一章 名もなき舞台の上で-2
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彼女が何を言わんとしているのかがよくわからず、しばらくの間、御影奏多はまじまじと彼女のことを見つめてしまった。
「……俺が、おもしろい、ねえ。わけわかんねえぞ。どういう意味だ、クソアマ」
トウキョウ特別能力育成第一高等学校の頂点に君臨する高校四年生、御影奏多は、自らの家を盛大に荒らしてくださった謎な少女を相手に舌打ちを一つした。
何というか、完全にこの女に呑み込まれてしまった感じだった。彼女に不用意に話しかけてしまったことで、対話が成立してしまった。こうなったら今更暴力に訴えかけるのも大人げないし、ひとまず会話を進めるしかほかにないだろう。
少女は手にしていたハードカバーの本を閉じ、机の上に置くと、飛び跳ねるようにして椅子から立ち上がった。本のタイトルは彼女の体に隠れてしまい、確認することができなかった。
「本棚はその所有者の性格を表すって、昔ノゾムは聞いたことがあるんだ。だから、ノゾムもこの部屋にあった本棚を見て考えてみたよ。私を誘拐した人はどんな人なのかなあ、ってね」
「人聞きの悪いことを言うな」
「アハハ、ごめんごめん。うそうそ。ノゾムを攫ったのは、怖いおじさんたちだからね。君じゃないってことは知ってるよ。目が覚めたときは、すっごく怖かったけどね」
「……そいつは悪かったな」
彼女と同じ部屋に自分もいたほうがよかったかもしれない。そうすれば、自分が彼女を攫ったわけではないということをすぐに説明できただろう。さらに言えば、彼女がこの家を徘徊することもまた、未然に防げたかもしれない。まあ客間にこいつがいたときですら目が覚めなかったことを考えれば、どうしようもなかったのかもしれないが。
「でも、君がノゾムをどうにかしようと考えていなかったってことは、すぐにわかったよ。だって、普通攫った相手を拘束もせずに放置はしないでしょ。誘拐犯失格だよ。少年探偵団にいつも逃げられる、怪人二十面相よりも無能だよ」
「ああそうだな。本当に、お前を縛り付けとけばよかったと後悔しているところだよ、俺は」
「え、嘘! お兄さん実は誘拐犯?」
「お前のご指摘通り、俺が血も涙もない誘拐犯だったらもっとうまくやってるよ」
だいたい、怪人二十面相なんて、もう四百年近く前の文学作品を引き合いに出してくる意味がわからない。どう考えても古すぎるだろうに。
「まあ、お前を見つけたときの話とかは、おいおいしていくとして……」
御影奏多は壁際においてあった椅子を、どうやらノゾムという名前らしい少女の前まで移動させると、そこに腰を掛けて足を組んだ。
「このまま話をうやむやにするのも癪だから、全部話してもらおうか。それで? お前は、この部屋の本棚を見て、俺がどういう人間だと思ったんだ?」
正直に言って、本棚は持ち主の人格を表しているという話にはそれなりに感心した。なるほど確かに、人がどのような本を読んでいるかを確認することは、その人物像を把握する上では非常に有効だろう。持ち主の趣味嗜好のみならず、思想までをも予想することが可能なはずだ。
このとんでもガールは、どのような結論をだしたのか。興味がないと言えば嘘になる。
ノゾムは、んーっ、とうなりながら天井を見上げると、あっさりと言った。
「ごめん。わかんない」
「……」
御影が無言でボクシングのファイティングポーズをとると、ノゾムは慌てて御影を押しとどめようとするかのように両手を前に突き出してきた。
「いや、違うよ! 違わないけど、違うから! 君も無表情のままシャドーボクシングしない!」
「わかった。わかったからさっさと理由を説明しろ。でないとこの家からつまみだすぞ」
「路頭に迷った挙句、ヤンさんに攫われそうになったかわいそうなノゾムちゃんに、これ以上何をするっていうの!」
「いや自分で言うなよ。いろいろと台無しだろ」
確かに改めて言われてみれば、なかなかに壮絶な状況下にある少女を保護してしまったようだ。当の本人にそれを指摘されると、どうも気が抜けてしまうが。
「ノゾムも本棚を見て、君がどんな人なのか当てようと頑張ってみたんだよ。結局、すぐに諦めたけどね」
「なんでだよ、オイ。この部屋には、見てのとおり相当数の本が置いてある。てめえの言う性格の分析とやらには、好都合だったんじゃねえのか?」
「逆だよ。多すぎたからわからなかったんだよ。それも、数だけじゃなくてジャンルもバラバラだったから、特定のしようがなかった。難しそうな新書の隣に、漫画みたいなイラストの文庫が置いてあったりするんだもん」
「なるほど、そういうことね」
御影には、特定の好きなジャンルといったものは存在しない。物語なら何でもよく、漫画も読めば純文学だって読むし、専門書を読むことでさえも苦痛には思わない。
しかし、それゆえに御影個人がどのような人間かを特定するのは難しいだろう。一つの人間性を見出すには、この空間は明らかに情報量が多すぎた。
「だから、ノゾムは君がどんな人なのか、凄く楽しみだったんだよ」
「へえ。それで、俺と実際に会話してみての感想は?」
「いやあ、おもしろいの一言だよ! 読書家だっていうことはわかっていたから、もしかしたら丸眼鏡をかけたいかにもな人かと思っていたら、目つきがすごい悪い根暗さんなんだもんね! 口調も乱暴だし」
御影はニッコリと微笑んで、両の拳を胸の高さまで持ち上げた。
「最期に何か言い残す言葉は?」
「いや、違う! 違うよ! 違わないけど、違うんだって! 根暗なお兄さん!」
「だから根暗とか言うな、クソアマ」
「むう! ノゾムのことをクソアマって言う君には、そんな抗議をする権利はないんじゃないかな……って、そういえば自己紹介してなかったね。ごめんごめん!」
「ノゾムだろ」
「ええ! どうしてわかったの? 職員さんが話してくれた超能力ってやつ?」
「最初からてめえ一人称が自分の名前じゃねえか。そんなのわかるに決まってるだろ、オイ。……というか、お前一体何歳だよ」
「十七歳だけど?」
「…………」
まさかの同い年だった。
確かに見た目年齢はそれくらいだが、中身の方はだいぶ残念なことになっているような気がする。いや気がするも何もないけれど。
御影はいらだちに髪をわしゃわしゃとかき回すと、少し気分を落ち着かせるべく窓際へと歩いて行った。窓の外には、いつもと変わらない光景が広がっている。うららかな陽光に照らされた雑木林が、そよ風に吹かれて枝をゆっくりとこちらに振っていた。
その何でもないと思われる景色を前にして、御影が目を細めていると、後ろから推定精神年齢十歳未満の少女が話しかけてきた。
「ねえ、お兄さん」
「なんだ、クソアマ」
「髪の毛乱暴に扱うと禿げるよ」
次の瞬間、御影奏多は目にもとまらぬ速さでノゾムの元へと移動すると、彼女の頭を両手で引っ掴み、椅子の上からゆっくりと持ち上げていった。
「誰のせいだと思ってんだ、このクソアマ!」
「痛い痛い! 暴力反対! イッツ、DV!」
「黙れ! いつからお前は俺の嫁になったんだ! 昨日か! 昨日なのか!」
「うわーん! なんだかお兄さんが、さっきからわけわからないよお!」
その言葉に御影はつまらなそうに鼻を鳴らすと、ノゾムを部屋の中央部へと放り投げるようにして開放した。窓の外から、風が木の葉を揺らす音が静かに流れてきていた。
「とりあえず、俺も自己紹介しないとな」
御影は窓から目を逸らすと、先ほどまでノゾムが座っていた椅子に腰を下ろした。机の上に頬杖をついて、床に座り込んで頭を痛そうにさすっているノゾムのことを見つめる。
「俺の名前は御影奏多。第一高校の四年生で、お前と同じく十七歳。お前をヤンキー共の魔の手から救った、救世主様だ」
「……なんか、すごい偉そうな恩人だね」
「当然だ。俺がいなければ、お前は大変なことになっていたんだぞ。俺はお前に、あんなことやこんなことを要求する権利がある」
「ええ! まさか、胸を触らせろとかそういう系?」
「……薄々感じていたが、お前、相当なレベルでオタク文化に頭犯されてるだろ」
現実にそんなことを要求するのはセクハラです。誰だ、こんな悪い文明を最初に考えた奴は。
御影奏多は肩をすくめると、再び足を組んで椅子の上にふんぞり返った。
「なめてもらっちゃ困るぜレディ。そんな低俗な願いを、俺が口にするわけがないだろう?」
「じゃあ、何を要求するっていうの?」
「絶対服従」
「わーい! ヤンキーに攫われていたほうがまだましだったーっ!」
「いちいち反応がおもしろいな、お前」
御影はにこりともせずにそう言うと、右手を伸ばして窓の端を掴み、ゆっくりと閉めた。
そのままカーテンも閉める。陽ざしが分厚い布に遮られて、部屋の中が突如として暗がりの中に沈んだ。強力な光源が突如として失われたことで感じる違和に、御影は二、三度瞬きをする。ノゾムもまた戸惑うように目を手でこすった後、急に表情を明るい物にした。
「ねえねえ、ミカゲン。ミカゲンって何者なの? 普通の人はヤンキーに攫われた人を助けることなんてできないと思うんだけど」
「ミカゲンって呼ぶな。御影でいい」
御影は頬杖をついた状態のまま、そっと両目を閉じた。
自らの意識を、体の外側へと広げていく。その範囲は邸宅内部を超え、庭全体へと広がっていった。
大気が、揺れ動いている。空気中の微細な分子。その一つ一つが無秩序に動いているように見えて、全体では大きな流れをつくりだしているのがわかる。
それをかき乱すのは、個々の分子よりも、むしろ大気の流れの中に混入される異物だ。それは樹木でも、石像でも、そして生きた人間でもいい。何か障害物があれば、それに気流がぶつかることで流れに変化が生じる。
「隠しても仕方ないからな。俺は超能力者だ。というか、学校名を言った時点で察しろよ」
「ちょ、超能力者! すごいねミカゲン! スーパーマンじゃん! 全身青タイツじゃん!」
「だから何でお前は、そんなに古い作品を持ち出してくるかね。知っている俺も俺だが。あと、そのミカゲンっていう呼び方はやめろ。御影でいい」
「ええー。かわいいのに」
「だから嫌なんだよ」
気体の流れを把握すれば、どこに何があるのかを大まかに把握することができる。とくに生き物はわかりやすい。生きている限り呼吸せざるをえず、また体温が気温と異なれば、それだけで気流が方向を変える。それを利用することで、御影奏多は周囲にいる人間の、おおよその位置を割り出すことを可能としていた。
もちろん、人間等の位置特定を専門とする超能力者にはかなわないが、それでも戦闘系超能力者としては破格の策敵能力だ。加えて、能力の性質上、『敵』の居場所を特定できることは、『戦場』において御影に絶大なアドバンテージを与えていた。もっとも、幸か不幸か、本当に実戦に駆り出された経験は御影にはまだない。その事実は普通に日々生活していくぶんには問題なかったが、どうやら今の状況に限れば不幸なことだと言えそうだった。
御影は目を開けると、不満そうに口を尖らせるノゾムに、少しだけ相好を崩した。
「いい加減コントをやめて真剣にいかせてもらうぞ。いつまでたっても話が進まねえ」
「あ、コントになっている自覚はあったんだ。案外空気も読めていたんだね」
「うるせえよ、クソアマ。聞きたいことは単純だ。てめえ、一体全体何者で、どうしてヤンキーに攫われるようなことになったんだ? 明らかに訳ありだよな」
ノゾムは少し顔を陰らせると、御影から目を背けて俯いた。肩口にかかっていた髪がその動きで下に落ちて、彼女の唇をかすめて揺れた。
「怒らないでね。正直ノゾムも、どう説明していいかわからないや」
「……どう説明していいかわからない、ねえ」
御影はノゾムの言葉を繰り返すと、右手を頬から離して、先ほどまで彼女が読んでいた本の上に乗せた。人差し指で、裏表紙を叩く。表表紙を下にして置いてあり、また背表紙も御影の位置からは見えなかった。一瞬、手に取って確認しようか迷ったが、そういうことができる雰囲気でもないだろうと思いなおして、御影は視線をノゾムの方へと戻した。
「わかりやすく伝えようなんて考えなくてもいい。短くしようとする必要もねえ。だから好きなように話せ。疑問に思ったことは逐一聞いていく」
御影がそう促すと、ノゾムは小さく頷いて、御影の顔を見上げてきた。
「小さいころから、ノゾムは病院に預けられていた。理由はよくわからないし、両親についてもあまり覚えていないんだ」
右手を本の裏表紙から離して、彼は少し姿勢を正した。
「その『病院』とやらに、だいたい何年前からいたかわかるか? あと、その理由は?」
「多分だけど、七年前だと思う。病院の人たちは、ノゾムが頭の病気だからって言っていたけど、正直その実感はなかったかな」
「七年前、ね」
七年前の二三九二年といえば、自分が十歳だったときだ。超能力者に選出された自分にとっても特別な年ではあるが、それとは別に二三九二年には……。
「考えすぎか」
少々発想を飛躍させすぎたかもしれない。御影は今思いついたことについてはとりあえず棚上げすることにして、なぜか床で正座している彼女に続けて問いかけた。
「そうだな。『病院』内部に、お前に親切にしてくれる人とかはいたか」
「うん、一人いるよ。アリスさんっていう人。黒い服を着た眼鏡のお姉さんでね。よくノゾムの部屋に本を持ってきてくれたんだ。ビデオも見せてくれたし、たまに庭に連れ出してくれたりもしたんだよ」
「それは、本来許されていないことだった?」
御影の問いかけに、ノゾムは目を丸くして言った。
「よくわかったね。お姉さんはいつも、職員さんには秘密だって言ってたよ」
「……すごいだろ。昔からそういう勘だけは鋭いんだよね、俺」
軽い調子でそう応じながらも、ノゾムの言葉に御影は思わず天井を見上げてしまった。
物事を学ぶ上で必要不可欠な本ですらまともに与えられず、施設敷地外への出入りをさせてもらったことはない。
確定だ。ノゾムはその『病院』にいたのではない。彼女はそこに監禁されていたのだ。おそらく、一般に知られるわけにはいかないような理由で。
そう考えれば、外見に反して彼女の精神が異様に幼いことにも説明がつく。
「話を少し戻すが、病気の実感がなかったということは、具体的に病名を聞かされていたわけではないんだよな」
「うん、そうだね。食事の後に、薬はいつも飲まされていたけど」
はたしてその薬とやらは、どのようなものだったのか。ただの偽薬ならば問題ないが、最悪を想定してしまうときりがない。
「それでね。昨日の話なんだけどさ。ノゾムは病院の外に出されちゃったの」
「出された。どうして」
「うん。あのね、ノゾムが寝ていたときに、突然ビービーうるさい音がしたんだよ。警報ってやつだと思う。で、起きてみたら、病院が火事になっているって、大騒ぎしていたの」
「火事になっていた」
昨日の、あの学生警備との会話が脳内に浮かんでくる。もしかしなくても、ちょうどノゾムを保護したころに全焼してしまった施設が一つあったはずだ。
「うん、火事。どうしようかと思っていたら、なんだか会ったことがない職員さんが来てね。ノゾムを外に連れて行ったんだ。ノゾム一人で逃げなさいって」
怖かったよ、とノゾムは明るく言った。
「とっても小さいころに、ノゾムもお父さんやお母さんと町を出歩いたことがあるはずなんだけどね。病院の外は、やっぱりノゾムにとっては全部目新しかった。本物の車が走っているのは大迫力だったし、建物とかも映像で見たのとは全然違うからね」
黙ったまま身動き一つしない御影に対し、ノゾムはとても楽しそうに、御影と話していることを本当に楽しいと感じているかのように、終始笑顔で喋り続けた。
「でね、でね。街を歩いている間に、ヤンさんに捕まっちゃったの。あ、なんでヤンキーってわかったかと言うと、最近、北……なんちゃらのアニメを見せてもらったからなんだあ」
「……いろいろと世紀末だな」
「で、目が覚めたら、なんかでっかいお屋敷で、でっかいベッドの上に寝かされていたというわけ。すっごいね。映画みたいだよね」
御影は彼女から目を逸らし、再びカーテンの方へと目を向けた。壁の向こう側で、風が穏やかに吹いている様子が、御影には手に取るようにわかった。
「で、俺の家を荒らしまわったというわけか」
「……いやでも、見知らぬ場所にいきなり連れてこられたら、そこがどういう場所か確認するのは当然のことじゃないかな」
「そうだな。当然だな。そのついでに、トランプで遊んだり、台所で食べ物を盗んだり、書斎で人の本を勝手に読んだりするのも当然のことだよな」
「……あう。ごめんなさい」
「何で謝ってるんだよ、お前。俺はお前に対して怒りなんて微塵にも感じていないし、お前の言い訳は百パーセント正しいと納得しているのに」
「うわあ! 確かに私が悪いんだけど、君の方は人が悪いような気がするよ!」
御影はカーテンに視線を固定したまま、彼女の抗議を無視した。
「確認したいんだけど、お前の友達って何人くらいいるんだ」
「へ? いや、アリスさんと、あと職員さんを合わせて三人くらいかな」
「そうか。実は……そうだな、十人くらい軍人のお友達がいたりしないよな」
「当たり前だよ。だいたい軍人さんなんて会ったこともないよ」
「だろうな。で、次が一番重要なことなんだが」
御影はもともときつい目元をさらに尖らせて、カーテンの『向こう側』を睨みつけた。
「とりあえず、お前の父親の名前がわかるなら、教えてくれないか」
「お父さんの名前? ええっと……」
ノゾムは人指し指を顎に当てると、しばらく考え込んだ後に、呟くように言った。
「確か……こんどうまこと、じゃなかったかな」
その名前を聞いた瞬間、御影奏多は脳天に雷を直接落とされたかのような衝撃を覚えて、目を大きく見開いた。直後に、椅子が倒れ、床に転がる音が響き渡る。御影はその音を聞いて初めて、自分が思わずその場に立ち上がってしまっていたことに気がついた。
何事かとこちらを見つめてくるノゾムを無視して、彼は額に右手を押し当てると、壁際まで後ずさりして、そのまま寄りかかった。
目を瞑る。ノゾムの口にした人物名が脳内で暴れまわり、御影は軽い片頭痛を覚えて、額に五本の指を強く押し付けた。
「金堂真だと? よりにもよってその名前が出てくるのかよ。訳ありだとは思っていたが」
「君、お父さんのことを知っているの?」
「知らないほうが珍しいぜそりゃ。金堂真といえば、アウタージェイルの……」
言葉の途中で、突然御影が左腕につけていた、ウェアラブル端末である腕時計が震えだした。
通信が来たときには、ウィンドウを出すまでもなく、普段は現在時刻を表示しているタッチパネルの小型画面が知らせてくれる。メールかテレビ電話かの確認も、メールボックスを開いたり電話に応じたりといった操作も、その画面ですることが可能だ。
画面には今回はテレビ電話の呼び出しである旨が表示されていた。
「おい、クソアマ。先に説明しておくと、これはテレビ電話の呼び出しだ。ウェアラブル端末はともかく、まあ、電話くらいは知ってるだろ。その発展形だと思えばいい」
御影はそう言うと、書斎の中を見渡した。手あたり次第に本を読み漁ったのか、床にもかなりの数の本が散乱している。
「というわけで、俺は一度部屋の外に出ておしゃべりしてくるから、帰ってくるまでに散らかした本を片づけておけ。棚に戻すだけでいい」
「わかった。でも、どうしてこの場で出ないの? 彼女から?」
「彼女じゃない。誰がかけてきているのかはわからないが、おそらくお前は聞かない方がいい内容だろうな、こりゃ」
御影はそう応じつつ立ち上がると、開いたままの扉から廊下に出た。扉を閉めようとして振り返り……そして、ノゾムが自分の後について来ようとしているのに気がついた。
「共通語を理解できないのか、クソアマ」
「待って、一つだけ聞きたいことが……」
最後まで聞かずに、容赦なくドアを閉めた。扉越しに何やら抗議している声が聞こえてきたがそれも無視して、御影は部屋のすぐわきの壁に体重を預けた。
廊下にも窓はあるが、北側のため日の光が差し込むことはない。照明もつけないまま、薄暗く、細長い空間で彼は一人佇む。窓から吹き込む風が、彼の髪を柔らかく揺らしていた。
「――――」
再び腕時計の画面へと視線を向けた。通信相手のアカウントナンバーに心当たりはなかったが、その下に表示されている単語に彼は注目した。
「治安維持隊大佐、か」
番号自体は見知らぬものでも、特別な肩書を持つ者からの通信ならば、その社会的地位が番号と共に表示されることがある。つまりこの表示は、一高校生である御影奏多に対して、治安維持隊高官がコンタクトをはかっていることを意味していた。
第一高校関連のことならば教員が連絡してくる。そもそも、大佐クラスが御影ごときに直接通信を繋ごうとするなど普通ありえない。本来ならば、たとえ治安維持隊からの通信だとしても、御影は末端の末端くらいの人間としか接触することができないはずだった。
そうでないということは、御影奏多という人間が予想外にも治安維持隊から重要視されていたのか……それとも、大佐が自ら動かなくてはならないほどの異常事態なのか。
御影は薄く唇を曲げると、左手を持ち上げて、右手の指で腕時計の表面に触れた。
御影の前に、音もなくホログラムウィンドウが出現する。ウィンドウは一瞬白黒の砂嵐となったのちに、通信相手のいる場所の映像を表示した。
真っ白な蛍光灯に照らされた、明るい部屋だった。装飾の少ない木製の椅子が画面中央にあり、そこに一人の男が座っているのが見えた。
予想通りというか通知通りというか、それは治安維持隊の軍服を着た男だった。赤茶を基本としたその服は、迷彩効果を狙ったものというよりはむしろ、着る人間の地位、権力を表すことを目的としているように思える。
肌は白人にしても色素が無いのかと疑うほどに白く、それでいて病的な印象を人に与えることはない。左手には銀の高級感漂う腕時計を巻き、高い鼻梁の上には同じく銀縁をした眼鏡をのせている。海や空を思わせる深い青の瞳と、明るい金の髪が、制服でより際立って見えた。
『初めまして、御影奏多。私は治安維持隊の者だ。ルークと呼んでくれたまえ』
ルークと名乗った男に対し、御影は露骨に顔をしかめた。もちろん、御影はルークと名乗る男には一度も会ったことがないばかりか、その名前すら知らなかった。
つまりは、こちらは向こうについての情報は何も持ち合わせていないのに、向こう側は御影のことを既に調査済みだということだろう。
「プライバシーの保護って概念知ってるか」
『もちろん。個人情報はその人間の財産であって、守られるべき対象であるという……』
「皮肉に対して真面目に答えんな」
御影は右手で髪の毛をわしゃわしゃとかき回した。ノゾムに続いて、またも面倒くさそうな人間の登場だ。正直言って、彼女よりも大佐であるこいつのほうが胡散臭いが。
「世間話をしている暇はねえ。こちらは結構やばい状況でな。早速だが、一体どこまで知っているんだ?」
『どこまで、とは?』
「俺の家にいる、とある人物について、お前はどのくらい知っている」
ルークは右人差し指で眼鏡を押し上げると、笑みをより一層深いものとして言った。
『なるほど。出す情報を必要最低限のものにするくらいには賢いようだね。その女の子を保護したのが、君でよかったよ』
ホログラムの言葉に、御影は目を細める。御影はノゾムの性別については一言も触れていない。となると、少なくとも、こちらと同等以上の情報を相手が持っていると考えられる。
そして、治安維持隊所属というからには、少なくとも自分をどうこうしようとは考えていないはずだ。もしそうなら、そもそも連絡を取ろうとしないだろう。
「あいつは、自分のいたとある場所が火事になったと言っていた。確か昨日どこかで火災があったと思うんだが、関係はあるか」
『察しが良くて助かるよ。君の言う通り、その子は医療センターにいた人間だ』
「……なるほどね。全部知っていると、そう言いたいわけか」
御影奏多は歯をむき出しにして笑うと、ホログラムから窓の方へと目を向けた。
「じゃあ、今俺の家を包囲しているお客様についても、知っていたりする?」