第二章 敵意-4
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先入観、あるいは思い込みというものは、誰にだってある。シャーリー・ピットが、『わがままな不良生徒』を演じていた御影奏多に失望を感じたのはまた少し話が違うが、少なくとも事前に抱いていた印象と実際の人間が異なることはよくあることであり、あって当然、当たり前のことだ。
自らの考えから逸脱したものの存在を、大抵の人間は受け入れることができる。そうでなければ、窮屈だからだ。ありとあらゆるものが自分の思い通りにいかなければ満足いかない人間は、ままならない現実というやつに逐一悩まされることとなる。
だが、それでも人は失望する。先入観、思い込み、自らの期待を裏切られるのは必然かつ不可避だとしても、度合いというものがある。ある程度当たっていれば納得もできるが、その真反対、あるいはあたかも異世界からの住人が如き異物を前にすれば、誰だって戸惑うだろう。
だからこそ、ソニア・クラーク、シャーリー・ピットの両名を責めることは、誰にもできない。責めるべき対象など初めからいないのだが、いないという事実を呪いたくなるほどに理不尽な人間というやつも、確かに存在するのだから。
そう。例えば、彼女のように。
「わーお! ミカゲンが久しぶりに来てくれたのかと思えば、新たなヒロインが一気に二人も登場だぜ! YEAH! これはノゾムにとって大ピンチ? 波乱の展開? 取り合いに殴り合い? ノン、ノン! 攫われ体質に登場は入院服で薄幸少女と、属性が多種多様にして唯一無二のノゾム相手に、金髪と赤髪の勝ち目は無いのであった! 第二部、完!」
プレハブのドアを開けると、そこには脳の隅から隅までオタク文化に毒された、見た目はまあまあ美人なのに第一印象からして残念でしかない鳶髪の少女がいた。
「…………」
「……これは酷い」
シャーリーが絶句する横で、ソニアが半分白目になって呟く。御影に『ガッカリする』と事前に言われてはいたが、まさか本当にそうなるとは思っていなかった。
といっても、前述のとおり見た目だけなら悪くはない。白のワンピースに、鳶の髪が彩りを添え、裸足の足は美しいとさえ感じるほどに皺ひとつない。髪と同じ色のくりっとした瞳に、薄桃の唇。顔も端正に整っている。体型こそ凡庸だが、全体として平均より上なことは間違いない。
そう感じるのは、やはり全体的によく手入れされているのを感じるからだろう。髪には枝毛がほとんどなく、ワンピースも染みがまったく見当たらない。自分で気を付けているというよりは、彼女を世話する人間が手入れもしていると考えた方がいいだろう。
「ねえ、ミカゲンは? 酷いんだよ、ミカゲン! 文句を言わなきゃノゾムの気がすまないもんねだ!」
……喋りさえしなければ、普通にかわいいのだが。性格が色々と台無しにしている。慣れると愛らしいのかもわからないが。
「二人で死地を潜り抜けたんだよ? だったら次は、あの大きな家に同居でしょ! それが王道パターンでしょ! それなのに、『部屋が無いから駄目』ってどういうこと!?」
「……同居?」
メラリと、隣で怒りの炎が上がるのをシャーリーは幻視した。薄々思っていたが、やはり二人はそういう関係なのだろうか? むやみに追及するつもりはないが。
「おや。これは珍しい。お客様ですか」
奥のキッチンらしい空間から、燕尾服にエプロンをつけたダンディな紳士が出てくる。思わず真顔になるシャーリーに向かって、彼は深々と頭を下げた。
「御影家の執事、サミュエル・ウォーレンと申します。以後、お見知りおきを」
「……御影先輩、執事まで雇っているんっすか?」
「といっても、趣味のようなものです。お給与も必要経費分以上は固くお断りしておりますので、誤解なきよう」
「いろいろと異次元っすね、先輩は」
素直に感心してしまう。生徒会長の言う通り、彼にはやや性格に問題がある(後輩補正込み)があるが、ウォーレンと名乗ったこの紳士とは一定の信頼関係を築いているのが少し会話しただけでもわかった。
ますます、御影奏多という人間がわからなくなってくる。平気で悪役を引き受け、戦場で常に不敵な笑みを浮かべ、それでいてどこか暗い面がある。本気で嫌そうな顔をしながらも、引き受けた仕事は全力で取り組み、自分に絶対の自信を持っているようでありながら自身を毛嫌いしていることは間違いない。
曖昧で、有耶無耶で、モザイク状だ。人には様々な面があるとは言うが、彼はあまりにも多角的だとシャーリーは思う。自分自身が単純すぎるのかもしれないが、そうやって生きてきた以上はもうどうしようもなかった。
「そういえば、ミカゲンはどこ? 一緒にいるんでしょう?」
「あ、はい。ミカゲンって、御影先輩のことっすよね」
「かわいいでしょう?」
「かわいいかどうかはわかりませんが、愛嬌はあると思うっすよ。先輩は何かテレビ電話で話す相手がいるとかで、まだ外にいるっす」
「……ノゾムがいる場所に、初対面の人間を先に送り付けたの? 御影が?」
ノゾムが急に真剣な口調になって、こちらをじっと見つめてくる。若干の戸惑いを覚えながらも、素直に頷きを返した。
「そういうことになるっすかね」
「普通、御影はそんなことしないよ。だって御影、ああ見えて気が利くもん。それをあえて曲げたってことは、何かあるんじゃないの?」
「……」
残念ながら、それはないとすぐに返すことはできなかった。
ソニア・クラークの方へと目を向ける。彼女は複雑そうな顔で腕組みをすると、直立姿勢のお手本のようなたたずまいのウォーレンに話しかけた。
「一つ質問してもいいでしょうか?」
「何でしょう」
「奏多がバイクの免許を持っていることは知っていますが……もしかしなくても、車の運転もできますか、彼?」
「できますね。車の免許も持ってますから」
二人で顔を見合わせたのと、外からバンのエンジン音が聞こえてきたのがほぼ同時だった。
示し合わせたかのように二人同時に玄関の方へと走り、靴を履く時間も惜しんで外へと飛び出す。プレハブのドアが開く音に気付いたのか、今にも門から出ようとしていたバンの運転席に座る御影奏多が、こちらの方を振り向いた。
「先輩どこへ!?」
シャーリーの問いかけに、御影は白い歯を見せつけるようにして笑うと、右手をハンドルから一瞬離してサムズアップし、そのままバンと一緒にシャーリーの視界から消えて言った。
全身に脱力感が襲い掛かって来て、その場にしゃがみこんでしまう。隣に立つ生徒会長が、金の髪を振り乱して玄関へと向き直り、そこに立っていたウォーレンに問いかけた。
「あのリムジンは、あなたのものですよね? あれで奏多を追いかけてもいいですか?」
「その御影様から、ソニア様宛に伝言を承りました。たった今」
ホログラムウィンドウを出現させ、ウォーレンは淡々とそこに表示された文章を読み上げた。
「『追ってくるな。理由は後で』、だそうです。よっぽど急いでいたんでしょうね」
「ワハハーイ! 扱い雑! やっぱり正ヒロインはノゾムだね? ……あれ? もしかして、会う事すらできなかったノゾムの方が何か悲しい? それとも放置プレイ?」
「……ノゾム様。今、御影様はある騒乱に巻き込まれていると説明したでしょう? 少し我慢してください」
「あーあ。ミカゲンも大変だねえ。ま、ノゾムのために世界を敵に回しちゃうようなお人好しだから、仕方ないっちゃ仕方ないか。……極悪非道なところは、フォローできないけど」
ウォーレンだけでなくノゾムからすら憐憫の目を向けられてしまい、シャーリーはあまりのことに両手で顔を覆ってしまった。なんというか、人間として何かで負けたような、そんな気がする。彼のことを少しでも『いい人』だと考えてしまった自分をぶん殴りたい。
ソニア・クラークは肩にかかった金髪を後ろに払うと、ため息交じりに言った。
「覚えておいてください、シャーリー・ピット。彼には確かに良い面もありますが、悪い面も多々あります。例えば、何も説明しないで自分だけどこかに行ってしまう、とか」
「……ハイ。身にしみてわかったっす」
次があるかどうかもわからないが、次があった場合は彼の言う事は全面的に疑ってかかることにしようと決意したシャーリーだった。
※ ※ ※ ※ ※
大人になるのがいつか、と聞かれれば、これまた考えるのが面倒で億劫だ。どうやらそれになると、子供を威圧し制圧することができるらしいが、何かしらの段階を踏まなければならないという決まり事があるように思われる。
文化と時代の変化により、大人というものの在り方も変化したということだ。例えば、元服の儀。あるいはアフリカ民族の猛獣殺しでも構わない。何歳だろうが、何年生きようが、ある儀式、あるいは試練を乗り越えない限り、大人だとは、社会のメンバーだとは認められないという事だ。現在それが分化し、分離し、よくわからないことになっている。
学校に通っていれば子供。仕事をしていれば大人。ただ、学校に通っていても大人だと褒められることもあれば、仕事をしていても子供だとけなされることもあるらしい。結局は主観か。あるいは主観の集合体である、世論とやらが判断するのか。
そうだというのなら、クルス・アリケスには、その世論とやらに尋ねたいことが一つある。
波乱万丈にして七転八倒、自業自得の、中学校生活とやらを飛び越したが卒業はするという数機な人生の果てに、史上最年少弁護士となり、学生でありながらその合間に半ば趣味で荒稼ぎをするクルス・アリケスは、子供か、大人か?
ちなみに、友人にして敵対者である彼の答えは、『二択にするな、阿呆』という、至極もっともなものだった。ようは、問いが間違えていると言いたいらしい。それを言ったらおしまいのような気がしてならないが。
「……ま、確かに考えたとこで、どうしようもどうなりもしないんだけど」
そういう無駄なことを無駄だとみなし、なのにまともに相手しようとするところが、御影奏多の御影奏多たる所以なのだろう。
そんな益体のないことを考えながら、クルス・アリケスはウィンドウで事務仕事をひと段落つかせると、車いすの上で大きく伸びを一つした。彼の動きに合わせ、車いすのフレームがぎしりと軋む音がした。
彼が今いるのは仕事場だ。アリケス法律事務所。偽名とはいえ、第二の名とはいえ、自分の苗字が使われているのはどうにもこそばゆい。そんな資格はないのにと言ったら、『そんなもん求めるな』と御影奏多は怒るだろう。ただ、やはりそれを言ったらおしまいだ。
当たり前のことは、当たり前で。みんながそう思っていることはそうであり、罪とは罪で、罰とは罰で、乗り越え方が分からずとも、乗り越えなくてはならない代物なのだから。
とそこで、ウィンドウが件の御影奏多から通信が入ってきたのを知らせてきた。
それはクルスにとって大きな出来事だった。何やら事務所の外では、公理議事堂占拠事件が嘘だったという大スキャンダルが発生したり、機械仕掛けのゴリラのお散歩目撃証言があったりと色々いそがしいが、クルス個人にとってはやはりこちらが最優先である。
それだけ、珍しい事なのだ。御影奏多がクルスのアカウントナンバーではなく、事務所の番号を使い、『弁護士アリケス』と連絡を取ろうとするのは。
通信用のアイコンをタップする。クルスはいつも通りの事務的な口調で、ホログラムに映し出された彼の顔に向かい言った。
「お電話どうも。アリケス事務所です。それでは依頼をどうぞ、お客様」
テーブルの上に置いてあったコーヒーカップを手に取り、口元に運ぶ。目を瞑って中身を慎重に口に含んだクルスに、御影は早口で告げた。
『突然だが、お前にある人物の調査を依頼したい』
「調査? オイオイ、奏多。うちを探偵事務所か何かだと勘違いしてないか?」
『顧客情報とか、裁判用調査網とか、いくらでもあるだろう。何も聞かずに、調べて欲しい』
「それは職権乱用だ。そういうのはあくまで裁判を戦うためにあるのであって、私的運用で他人のプライバシーを侵害するのは……」
『駄目か? どうしても?』
「……駄目じゃない。他ならぬお前の頼みだ。少しぐらいは、信念も曲げるさ」
『そのまま折れないと良いんだが』
「あいにくと形状記憶合金製だ。お湯をかければ元に戻る」
なかなかに馬鹿げた会話だった。馬鹿らしい、と言った方が良いかもしれない。といっても、御影との会話は大抵こうなる。ようは、二人共面倒くさい性格なのだろう。
それも当然のことだ。
面倒な、面倒ごとに巻き込まれ。それでもこの、友情とかいう面倒極まりない重くて鬱陶しい関係が出来上がってしまっていることは。ハッキリ言って、クルス・アリケスの甘さだった。
甘さというのは、恐ろしい。
為政者が。上に立つ人間が足元をすくわれる理由は、大抵それだ。だけれど、抜け出せない。だってそれは、その人間にとっては、文字通り『甘い』のだから。
「さて、奏多。お前も俺のことはよく知っているはずだ。俺の信念ってやつは何度曲げてもいい代物だが、そう簡単に曲げるわけにはいかないものだってことをな。それでもあえて、俺にルール違反をさせるってことは、それだけお前の覚悟が重いってことだ。他者の信念如きでは支えられないほどにね」
車いすを操り、反転させる。クルスの仕事場は、いたって簡素なものだ。真ん中にテーブルと来客用のソファ。さらには水道設備。それだけ。もっとも別室には、完全にインターネットから独立した仕事用データベースがあるが、客の目にはつかないようにしている。
紙の資料が仕事に必要なくなっただけで、こんなにも殺風景になるとは。文明と書物はそれだけ密接に繋がっていたという証左なのかもわからない。
「教えてもらおうか。お前が俺に調べて欲しい人間は、どこの誰で、何者だ?」
※ ※ ※ ※ ※
中央エリア、とあるビルの屋上。グレッグ、ヘルムートの、落下地点。
「爆薬で座席ふっとばして空を飛ばせるとか、頭が男子小学生か! 絶対あの人の能力がなきゃ、あの場で爆発四散してただろ!」
「で、でも、結果として逃げられたからよかったじゃないですか。ここまでなら、敵も追手は来ないでしょう」
「着地地点をどこにするかまで、あの人が考えていたとは思えないけどね。ビルの壁に直撃してたって可能性もある。行き当たりばったりのとばっちりだ、畜生」
足元に転がっていたバンの残骸を、グレッグが思いっきり蹴り飛ばす。金属の塊らしく甲高い悲鳴を上げながら、それはコンクリートの上を転がって、屋上の鉄柵にぶつかり静止した。
テクラ・ヘルムートは彼から目を離し、周囲を見渡した。このあたりではどうやら一番高いビルらしく、視界が開けている。数キロ離れた場所で夕日を浴びるエンパイア・スカイタワーを見ながら、彼女はぽつりと言った。
「そろそろ、治安維持隊が動きますかね?」
「これだけ騒ぎになっていればそりゃあね。さっきニュースを確認したら、どうやら議事堂は最初から占拠されていなかったようだし、学校を脱出するときに副隊長が治安維持隊に連絡を入れたのがそろそろ効いてくる頃だと思うよ」
「そうですか……それは、良かったです。アレインさんは、凄いですね」
エボニー・アレインは凄くて強い。それが、テクラ・ヘルムートの、嘘偽りない感想だった。
「おうよ。なんせ、第一高校トップスリーの一人だからね。そりゃあ、座学に関してはソニア・クラークに一歩譲るし、御影奏多はただの化け物だけど、兵士としてはあの人が一番優れている。あの人がいるから、癖の強い学生警備もまとまっているんだ」
グレッグが誇らしげに言う。つい先ほどまで彼女に対して罵詈雑言をまき散らしていたのが、まるで嘘のようだ。
そう。強ささえあれば。力さえあれば。その持ち手が、どんな性格だろうとも関係ない。
御影奏多が、その代表例だ。
極悪非道。悪辣不遜。残虐無慈悲。これだけの否定の言葉を並べておきながら、たとえそれらを利用し御影奏多が演技をしていたのだとしても、結局学生警備の面々は彼の言葉に従った。従わされた。
強さとはそれだけで力であり、力とはそれだけで社会肯定の印になる。グレッグの左胸で輝く、学生警備のバッジのように。
その人間には役割があり、価値があり、生きて社会に貢献することができるのだと。
超能力者とは、そういう存在だ。
そうでなくては、いけなかった。一万を踏みつける代償として、何かを守り、救う事を責務とされた。
「ああ。……なんて、羨ましい」
本音が。本心が。外に、出る。
「ヘルムートさん?」
不穏な空気を感じたのか、グレッグが何かを探るような目をこちらに向けてくる。
その眼が、忌々しい。
疑いを持つのが、余りにも早い。彼を自分の色に染め上げるには、あまりにも時間が足りなかった。それは、仕方のないことだ。シャーリー・ピット、アリシアあたりなら十分だっただろうが、彼には過去を、過去の一部を語るだけでは足りなかった、ということだろう。
「羨ましいと、そう言ったんですよグレッグさん。彼女の強さが羨ましい。それは、私にはない物ですから。持ちえなかった、物ですから」
「……言いたいことは、わからなくもない。強さはそれだけで、暴力だからね」
「暴力の荒々しさは副産物ですよ。あくまで力は、力です」
「ごめん、ヘルムートさん。君の気持ちは、僕にはわからないよ。でも僕は、君の事をかわいそうだと、助けたいと、そう思っている」
「思っていた、の間違いでしょう? グレッグさん。もしかして、次期副隊長候補なんじゃないですか? 貴方と同様、アレインさんには苦労しました」
両手を、広げる。ビルの下に広がる街を、世界を抱きしめるように。あるいは、平均台の上で、バランスを取るように。
まったく。受け取る愛が、重すぎて、甘すぎて、酔っぱらってしまいそうだ。転げ落ちてしまいそうだ。
でも。だからこそ。この感覚は、麻薬だ。
「私は強さが欲しかった。強さに憧れた。でも、それは私には決して手に入れられないものでした。私を求めた彼らもそうです。セミナーにいた劣等生も、宗教に救いを求めた社会不適合者も、企業のカウンセラーに通っていた自称エリートも。全員、弱いから自分に無いものを、私という救いを求めた」
「宗教に……カウンセラー?」
「わかる必要はありませんよ。わかるはずがありません。あなたは元から、強いのですから。でも、だからこそ私は、弱さを捨て強くなった、彼女の美しさがわかった」
腕を肩に回し、己を抱きしめる。舌を少しだけ突き出し、舌なめずりをし、テクラ・ヘルムートは、目の前の強者へと笑いかける。
「美しい者を自分の物にしたい。それは、人間として当然のことだと思いませんか?」
「なるほど。君は……そういう人間なんだな」
グレッグの発する気配が、明確な敵意に変わる。二人を囲む夕日色の天球よりも紅い過剰光粒子の群れが、テクラ・ヘルムートを包み込んだ。
「我欲に呑み込まれたな。アレイン副隊長がいなくなったことで、そして僕が優しさを見せたことで、慢心したか」
突如、周りにあるありとあらゆるものが、彼女に向かって集結した。
具体的に言えば空気。明らかに、彼女の体を持ち上げるような運動をしている。めくりあがってしまいそうなスカートを抑え、足元の地面がメリメリと音を立てて隆起していくのにヘルムートはクスリと笑った。
「凄い能力ですね。重力あたりを操る感じですか?」
「外れだ。そして僕は、自分の能力を『敵』に教えるほど馬鹿じゃない」
彼女を中心として、屋上全体に亀裂が走り、コンクリートが砕ける重く鈍い音が響く。
グレッグはよれよれのズボンのポケットに手を突っ込み、鋭い口調で問いかけてきた。
「殺す前に聞こうか。考えてみれば、明らかにセミナーとは無関係の勢力が襲ってきた時点で、不自然に思うべきだった――」
※ ※ ※ ※ ※
『――テクラ・ヘルムートはセミナーに操られていたのではなく……セミナーを始めとした、明けの使いやライクリーフードと言った大組織を、逆に操っていたと。そう言いたいのかしら?』
「そういうことだ、エリート。確証はまだないが、確信がある」
学生警備のバンを運転しながら、御影は幼馴染の顔を映したホログラムへと視線を向けた。
彼女の後ろでは、何台ものHUROSTが半壊状態で横たわっている。やはり彼女にとって、あの産業廃棄物をスクラップにすることは容易かったらしい。
物事には相性がある。たとえ御影奏多が第一高校の頂点に立つ存在なのだとしても、いざ実戦となればこの通りだ。学生警備副隊長としての経験も大きいのだろう。
「元から俺は、アイツのことを疑っていた。アイツの目は、どっかの大嘘つきにそっくりだったからな。言っただろう? 俺はアイツが嫌いだって」
『その大嘘つき、毎日鏡を見る時に会ってるんじゃないかしら?』
「そうかもしれねえな。ま、そんなことはどうでもいい。今まではちょっとした事情があってできなかったが、知り合いの弁護士に調査を依頼したら、興味深い事実がでてきた。テクラ・ヘルムートという名前には心当たりがないが、顔には見覚えがあるんだと」
『顔に覚えがあるというだけで、あの子が真犯人だっていう証拠にはならないと思うけど?』
「だから、その証拠を今から確かめるんだ。さすがに、資料の流出までアイツにやらせるわけにはいかないからな。二人で直接、確認したい」
『どうして一人で行かないのよ。アンタの性格なら、何もかも一人でやりたがりそうだけど?』
「適材適所ってもんがあるだろうが。こういう事件で、お前以上に頼りになる人間を、俺は知らねえよ」
『……そ。お世辞として受け取っとくわ。何にせよ、その弁護士の事務所に行けばいいのね。場所を教えてくれないかしら?』
「既にメッセージとして送ってある。そんじゃ、あの女狐の化けの皮を、あとかたもなく剥がしてやろうじゃねえか――」
※ ※ ※ ※ ※
「――化けの皮を剥がしたと、そう思っていますか?」
吹き荒れる上昇気流に髪を揺らしながら、テクラ・ヘルムートが笑う。蠅を捕食するカエルの口を連想してしまい、グレッグは全身に鳥肌が立つのを自覚した。
自分の移り身の速さに、ぞっとする。ついさきほど。ほんの数分前まで、グレッグは彼女を救う事を使命とまで考えていたのだ。それが、あっという間にひっくり返った。ひっくり返された。
しかしここは、自らの正気を疑うのではなく、テクラ・ヘルムートの方を疑うべきなのかもしれない。まだ、何かがある。彼女には奥の手があるからこそあの余裕なのだと、そう思わざるをえない。
「能力の使用を止めた方がいいですよ、グレッグさん。いい加減屋上が限界を迎えそうです。それにあなたには、私は殺せない。いや、殺すことができない、と言った方がいい。違いますか? 人を脅すときには、言葉の強さにも気をつけなくては駄目ですよ。甘い言葉にこそ、そこに隠された毒にこそ、人は恐怖する」
「……チッ」
紅の光が、消滅していく。確かに彼女の言う通り、加減をするのはこれが限界だった。
髪と服のはためきが止まり、ヘルムートがスカートから手を離す。彼女は眼鏡の位置を直しながら、罅だらけの屋上を歩き出した。
「私が本性を明かしたのは、既に私の目的は達成されているからですよ」
「ほう。大きく出たな。君が襲撃者の黒幕だというのなら、僕たち学生警備が未だそれに抗っていることは、計画外のことじゃないのかい?」
「いいえ。計画通りですよ。私はあなた方に、私の下にいる組織を潰して欲しかった」
「……何だって?」
「言ったでしょう。彼らは弱い。私が欲しいのは強さです。そして私は、強さを手に入れた。だから、彼らを掃除したんですよ」
「強さを手に入れた、だって? それこそ君がさっき言っていた事と矛盾するじゃないか。君は弱いんだろう?」
「ええ、そうですよ。私はか弱くて、脆くて、哀れで、かわいそうな人間です。ジミー・ディランさんが、私のことを疑いつつも、その本質を見抜けなかったのも無理はありません。私にできることなんて、誰かに助けを求めることだけなんですから」
ぞわり、と。背中を恐怖に、舐められる感覚がした。
しかし同時に、こうも理解していた。自分には……グレッグには、もう何もすることはできないのだと。
「ですから、どうかお願いです、皆さん。こんな私だけど、そう望むのは間違いだと分かっているけど、それでも私はこう言うしかないんです」
「待て――」
「――私を、『助けて』ッ!」
根源的かつ、根本的な、その叫び。
正義の味方を動かすための、魔法の言葉。
何かの機械が駆動する音が背後から聞こえてくるのに、そこでようやく気がついた。
後ろを振り返る。丁度エレベーターが屋上に到着し、そこから降りてきた人物にグレッグは瞠目した。
「お前は!?」
「お前だって? 下級生なのに、礼儀がなってないじゃないか。僕は第四学年特設クラス学級委員だぞ。無礼千万、浅学菲才。嘆かわしいったらありゃしない」
白のワイシャツの上に黒のチョッキを着た彼、ロイド・ウェブスターが、前髪をかきあげながら気取った様子でこちらに近づいてくる。
グレッグは反射的に一歩足を引くと、顔に虚勢の笑みを張り付けて言った。
「リエラ先輩の能力でおねんねしていた奴が、今更登場か」
「あいにくだったな。そのとき僕は、校舎にはいなかった。部活に入っているわけじゃないからね。襲撃の際役に立てなかったのは残念だが、最終的にこうしてヘルムートさんの力になれたんだからよしとしよう」
「――ッ!」
グレッグの笑みが消えるのと同時に、ロイドの立つ場所が文字通り吹き飛ばされた。
「おおっと。怖い怖い」
「何!?」
だがすぐに、右側から彼の声が聞こえてくる。そちらへ視線を向けると、傷一つないロイドが柵にもたれかかり、こちらに手を振っていた。
「瞬間移動か!?」
「外れだ。そして僕は、自分の能力を『敵』に教えるほど馬鹿じゃない」
見事に先ほどの意趣返しをされた形になり、グレッグは怒りに歯噛みした。だが直後に、エレベーターから新たな人物たちが降りてきたのに、瞠目することとなった。
「うわ、恐! 私たち、戦闘とか嫌なんですけどお」
「まあでも、仕方ないか。テクラちゃんの為だもんね。正直一緒に過ごした時間は長くはないけど、友情に時間は関係ないっしょ!」
頬にタトゥーをつけた女と、下にピアスをした女が二人並んで歩いてくる。グレッグは顔を引きつらせると、どこか安心したような、そんな、何の害もなさそうな、どう見ても被害者側の少女にしか見えないテクラ・ヘルムートを睨みつけた。
「強さを手にするとは、そういう意味か! ヘルムート! お前、一体どこまで『汚染』していた!?」
グレッグの問いかけに、彼女の笑みが、凶悪な簒奪者のそれへと変貌する。彼女はつけていた厚底の眼鏡を取ると、ロイドの差し出してきたコンタクトレンズのケースを受け取りながら、得体の知れないものに対する恐怖に震えるグレッグに向かって宣言した。
「あなたが思うよりも広く、ですよ」
※ ※ ※ ※ ※
中央エリア。アリケス法律事務所前の通りにて。
バンの扉に寄りかかり神経質に腕時計を叩いていた御影は、突如聞こえてきたエンジン音に顔を上げた。
よく見知った、背の高い幼馴染のまたがるバイクが、こちらから十数メートル離れた場所に静止する。御影はバンから背中を引きはがすと、彼女の方へと歩きながら顔をほころばせた。
「遅かったじゃないか。待ちくたびれ……」
そして、突如感じた違和に、足を止めた。
なぜ彼女は、わざわざ御影から離れた場所にバイクを停めたのだろうか。あたかも、こちらが爆弾か何かのような扱いだ。
だがその違和感は、すぐに激甚な衝撃に上塗りされることとなる。
彼女、学生警備副隊長、エボニー・アレインは、バイクから降りることなく、ただただ無言でポケットに手を突っ込み、中からライターを取り出した。
「……オイ」
彼女にとっての最強の武器が、迷いなく御影奏多の方へと向けられる。
御影は、どこか夢心地のまま、わけもわからずライターの銀の輝きを見つめていた。
「お前、どうして……」
そして、エボニーの親指が、フロントホイールを回し。
彼女の能力で、その規模を一瞬で増大させた炎の塊が、御影奏多の元へと走り、彼の体を情け容赦なく吹き飛ばして。
御影奏多の視界は、瞬間、真っ白に塗りつぶされた。




