第二章 敵意-3
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朱に染まりつつある中央エリアのビル群を背景に、橙の光の粒と炎が舞い踊る。
エボニー・アレインが手にしたライターのフリントホイールを回すたびに、彼女を囲むパワードスーツの関節部分が爆発し、機械仕掛けの腕や足がもぎ取られていく。死角から殴りかかられたとしても関係ない。肩越しにライターを向け、火打石が火花を散らした瞬間、強大な炎がパワードスーツを包み込み、装甲の隙間だけが的確に爆砕されていく。
「化け物だな」
エボニーから車内待機を命じられたグレッグは、彼女が次から次へとHUROSTを葬っていく光景に顔を引きつらせた。
一方的な蹂躙劇ではあるが、対象の見た目がロボットであるためか、彼の隣ではテクラが眼鏡の奥で目を輝かせていた。彼女は、わかっていない。『いずれ完治するなら問題ないでしょ?』と、眉一つ動かさずに生きた人間の手足を焼くエボニー・アレインの恐ろしさを。
常に皆を引っ張り、時には冷酷な判断をもくだしてみせる。味方には厳しいと同時に極端に甘いが、一度敵と定めた者には容赦がない。隊長曰く、あれでも相当手加減しているらしいが。
「すごいですけど、どうしてあのロボットは銃器を使わないんですか?」
「……えーと」
ロボットではない。パワードスーツだ。中には人も乗っている。だが、余計なことを言ったら、彼女はまたあの悲しそうな顔をしてしまうだろう。過保護だと思いつつも、グレッグはその事実は伏せておくことにした。
「副隊長の能力は、燃焼反応の度合いを操るんだよ。ゼロから火を生み出すことはできないけど、火さえあればいくらでもその勢力を大きくすることができるし、その逆も同じなんだ。火薬の爆発すら、あの人には抑えられる」
「つまり、あのロボットは銃を使わないんじゃなくて、使えないんですね?」
「そういうこと。あの人の前では、誰もが原始的な暴力に頼らざるをえなくなる。それでいて副隊長は何の遠慮もなく能力を使えるんだから、反則もいい所だよ」
言ってしまえば、彼女とまともに戦えるのは同じ超能力者だけだ。過去に隊長にそう言ったら、『いやあ。それが、例外もいるんだよね世の中には』と微妙な顔をされたが、正直そんな一般人がこの世にいるとはグレッグには到底思えなかった。
「すごいです。私みたいな未熟な人間とは、大違いですね」
テクラが何かを悟ったような、淡い微笑を浮かべる。グレッグは慌てて、彼女のフォローをすべく口を開いた。
「人には向き不向きがあるだけの話だよ。テクラさんは今まで、能力の使い方を学ぶ機会を奪われていたんだ。まだいくらでも挽回できるさ」
「……そうだといいんですけど」
彼女はそう言って俯くと、顔を少し陰らせた。今にも泣きだしそうに、まつ毛が細かく震えているのがわかった。
「いいや、そんなことないって! 何なら、アレインさんに直接学べばいいじゃないか。あの人はスパルタだけど、教え方はすごくうまいから」
何をそんなに必死になっているのかと、自分でも苦笑してしまう。だが自分は、彼女の過去を知ってしまった。こんな不幸な人を、グレッグは今まで見たことがなかった。
守りたいと、強くそう思う。たとえ一時の関係なのだとしても、自分は彼女について深く知ってしまった。ここで退くのは、自分の信条に反する……。
『……あれ?』
そこで思考が何故か急停止し、グレッグは瞬きを繰り返した。
『おかしいな。いや、何がおかしいのかわからないけど。何か大切なことを忘れているような……?』
その何かが、どうしてもわからない。
黙り込んだまま思考の迷宮へと意識を吸い込まれかけたグレッグは、それこそ陽光の下を流れる小川のせせらぎのような清らかな声に我に返った。
「ありがとうございます、グレッグさん」
視線が、隣の少女に吸い込まれる。
テクラ・ヘルムートは、別人かと見間違えるほど美しい満面の笑みを浮かべて、グレッグの手を固く握りしめていた。
「あなたはとても、優しい人なんですね」
「……」
言語中枢が焼き尽くされた。
胸に熱いものがこみ上げてくるのがわかる。日々の労働基準法完全無視の業務で心がすさんでいたが、そもそもにおいてグレッグは、テクラ・ヘルムートのような弱者を救いたいと願って学生警備に入ったんだった。そう。あれは、超能力者に選出されたときのこと。グレッグは父親に、ノブレス・オブリージュについて教えられ……。
『グレッグ。ちょっといいかしら?』
……グレッグにとっては極めて大事な回想が、横暴な副隊長からの通信でぶった切られた。
グレッグは運転席に浮かぶホログラムウィンドウにのろのろと向き直ると、未練たらたら、不満たらたらで通信に応じた。
「はいはい。何ですか?」
『何で不機嫌なのよ。私ばっか活躍してて暇だから? そんな甘い心構えだと死ぬわよ』
「ええ、はい、そうですね。そういうことにしておきましょうね」
『……? ま、いいわ。どうでも』
「どうでも……ッ!」
うちの副隊長は、とても優秀で頼りがいがあるのだが、優しさというものが足りない。いなくなってわかる、ジミー・ディラン隊長の癒し効果。いや、違うか。あやつが適当だから、副隊長の厳しさが全て向こうに行くだけか。何にせよ、スケープゴートとしては使える。
『二人共、シートベルトはしっかりしている?』
「そりゃあ、まあ」
『そう。ところでグレッグ。あなたの能力なら、地上百メートルから落とされたとしても生還できるわよね?』
「できるけど、アンタ一体何考えてんの!?」
『ついでに言うと、テクラが一緒でも大丈夫よね?』
「いや、大丈夫だけど! 何するつもりだちゃんと言え!」
『こうするのよ』
バンの外へと、超高速で目を向ける。グレッグの視線の先で、エボニーはホログラムウィンドウに手を触れ、何らかの操作をしていた。
『私のバイクが改造されているのは知っているでしょ? 実はそのバンにも、ある仕掛けが施されているの』
「待て! アンタまさか……ッ!」
『あなたたちを守りながら戦うのは面倒だから、ひとまず先に逃げてもらうわ』
エボニーがウィンドウに人差し指を押し付けた次の瞬間、バンのフレームが、天井を中心として縦方向に真っ二つに割れた。
金属音と共にバンの外側が道路に転がり、車の中身が露わになる。それと同時に、グレッグとアリシアの座るシートの上から透明なプラスチック製らしきカバーが降りてきて、二人を覆った。もしかしなくても、そのカバーは風防だとしか考えられなかった。
呆然としている間に、車の床が真っ二つに割れ、前方と後方に別れてしまう。タイヤが2つしかない為、一瞬バランスを崩したが、すぐにバンの下から昆虫の足のような金属の棒が伸びて、後部座席が倒れるのを防いだ。
「展開が予想できる! 予想できるけど、何じゃこりゃ!?」
「グレッグさん!? これは一体……」
『足までちゃんとカバーで隠れてる? それじゃ、行くわよ。発射まで5、4……』
「発射!? どういうことですか!?」
「クッソ! いつか絶対下克上して――」
『0』
「――――ッ!?」
※ ※ ※ ※ ※
そして二人は、おそらくは人類史上初めて、床下に爆薬が仕込まれたバン(の半分)で空を飛んだ。
※ ※ ※ ※ ※
中央エリア。ソニアサイド。
「すみません。私の見間違いかもしれないっすけど、ついさっき、夕焼けを背景に、人を乗せた椅子が空を飛んでたような気がするっす」
「は? 何言ってんだ、お前? そんなことあるわけねえだろ」
「奏多。話は逸れますが、ハンドル近くにどう考えても不必要なボタンがいくつかあるのですが、これは……」
「触るなよ。アイツのバイクも妙な加速機能がついていたから、まず間違いなくこのバンにもロマンの塊みたいな機能が搭載されている」
「……エボニーさん、たまにものすごく頭が悪いですよね」
「昔からそうなんだよ。破天荒というか何というか」
「あの、空飛ぶ椅子が……」
「だから、そんなことはありえねえって。大体、空を飛ぶ機械はロケットだろうが飛行機だろうが製造禁止だ。空気の流れが、謎の飛翔体で乱されてなんかないからな。絶対だからな」
とまあ、こんな無駄な会話を交わせるぐらいには、センター跡地までの道のりは平和だった。
向こうがこちらを追う事を諦めたか、あるいはエボニー側にテクラ・ヘルムートがいることがバレたか。どちらにせよ、少し急ぐ必要がある。
「もうすぐ着きますよ。ここを右に曲がれば……」
ハンドルを回し、大通りから外れた場所に来たところで、ソニアが息を呑んだ。
シャーリーもまた、驚きの表情を浮かべている。御影は既に何回かセンター跡地を訪れているため平静を保てたが、半月ほど前にこの場所に来たときは彼女たちと同じような反応をしていたはずだ。
金属製の柵を挟んだ向こう側、精神医療センターがあった場所の地面のほとんどが、黒と白に塗りつぶされている。焼け焦げた建物の残骸は大部分が撤去されていたが、いまだ回収されていない炭の塊がいくつかにわけて積んであった。
元々あった建物の基礎部分がむき出しになっていて、煤で汚れたコンクリートから突き出す錆びた鉄骨の群れが、どこか物寂しい雰囲気を醸し出している。三月三十一日の放火事件からはまだ一ヶ月ほどしか経っていないが、その場所は廃墟と呼ぶにふさわしかった。
門から少し離れた、やや奥まったところにはそれなりに手入れされた芝生の庭が広がり、その中央部に御影の言ったようにプレハブで作られた住居が一棟、ポツンと建てられていた。その場所だけ火の手が及ばなかったのが見て取れる。何やら幻想的な光景だが、この場所に住みたいかと言われれば否だろう。それでも、彼女はひとまずここに落ち着くしかなかった。
「……ここが、公理評議会の保護を受けている施設、ですか?」
「家と言った方が正しいかもな。一応、こんな見た目でも安全対策はしっかりしている。そこらへんに積まれてる瓦礫の山の下には、AIを搭載した固定砲台が隠されているはずだ。当然、部外者は入れないようになっている」
左腕の腕時計に触れ、ホログラムウィンドウを出現させる。御影がウィンドウでいくつかの捜査をしてからしばらくして、出入り口の門が自動で開いていった。
「既に手続きは済ませている。フィールドの条件設定で締め出されることはないはずだ。手続きが済んでいなければ、敷地の周りを赤いホログラムの壁が囲んでいるのが見える。そんなものは見えないだろ?」
「はい。確かに、何もありません。ですが、このまま中に入るのはためらわれますね。あのプレハブの小屋には、誰がいるんですか?」
「四月一日の、公理評議会と治安維持隊の衝突。その元凶だよ」
「……」
ソニアは珍しく緊張した面持ちで、バンのアクセルを踏み込んだ。後部座席では、シャーリー・ピットが顔を真っ赤にして、「世界の秘密に触れるんっすね……!」と悶えている。
まあ、二人共、現物を前にすれば、その元凶が実はとんでもないお喋り災厄ガールであることがわかるだろう。少なくとも、期待と真逆の方向に頭の螺子が飛んでいることは間違いない。
「もう一度言うが、アイツの前では……」
「超能力は使わない、ですよね? わかっていますよ。アウタージェイルの関係者なら、超能力者は憎悪の対象なのは当然のことです」
プレハブの隣には、既に車が一台停められていた。車と行っても乗用車ではなく、高級感漂うリムジンだ。彼が今日ここに来るはずだった御影の代わりに来ているのはわかっていたが、正直言ってリムジンを送迎だけでなく普通の生活で使うのは止めて欲しい。というか、御影がまったく出資していないにも関わらずこんな高級車を用意するあの男は、一体全体何者なのか。
「リ、リムジンですか!」
「いよいよ期待が高まるっすね! プレハブにリムジン。二つの矛盾したものが存在するこの土地の主は果たして……!」
あまりにもカオスな光景に、女性陣二人のボルテージがいよいよ最高潮に達している。御影は頬杖をついて、テクラ・ヘルムート争奪戦に無理やり巻き込まれたときにもまして憂鬱になっていることを自覚し、重苦しいため息を吐いた。
「正体はただの馬鹿だ。ガッカリしろ」
※ ※ ※ ※ ※
「ガッカリはしないぞ。絶対にガッカリはしない。たとえ私の最低最悪の予想が正しくても、私は高笑いと共に受け入れてやるからな」
「……ヴィクトリア。そんな無駄なことを言っている暇があったら、少しは働いたらどうだ。君らしくもない」
エンパイア・スカイタワー最上階。ニーラントを中心とした集団は、超能力者や専用機器を用いて議事堂内部の様子を探ることに尽力し、ラハティ達は議事堂突入計画について永遠と議論している。そんな中、超越者担当のヴィクトリアはと言うと、椅子の上で体をのけぞらせて、ぼんやりと天井を見上げるばかりで、完全に周りから浮いていた。
ちらちらと将官たちがこちらをとがめる視線を送ってくるが、反応する気にもなれない。やる気がなさすぎて、着ている制服も鬱陶しい。いつものコートオン百円Tシャツのラフな格好に戻りたい。
ザン・アッディーンはそんな上司の姿に眉をひそめながらも、その体躯に似つかわしくない素早さでウィンドウを操作しながら言った。
「報告だ。レイフ・クリケットが行方不明らしい。アカウントナンバーを使って、居場所を探るか?」
「いいよ。どうせいつもの独断専行だろ? あれは下手に管理するよりも放っておいたほうがいいって」
「残り三人の超越者は、地下で待機している。先ほどマイケル・スワロウから通信が入った。『ポーカーで盛り上がってるけど、元帥もやらね?』だそうだ」
「無視しろ。どちらにせよアイツらの出番は今回ないだろ」
「…………」
ザンが無言でこちらを見降ろしてくる。何かえも言われぬ圧を感じて、ヴィクトリアは渋々体を起こすと、今度は円卓の上に頬杖をついた。
「ヴィクトリア。いい加減、円卓の皆が爆発してもおかしくないぞ?」
「そっちが早いといいなあ。でもその前に、多分……」
「報告します! 議事堂の方に動きがありました!」
ケース・ニーラントの叫び声に、ざわついていた円卓が一瞬で静まり返る。
ヴィクトリアは椅子に座りなおし上体を起こして胸の下で腕を組み、期待半分、諦め半分に問いかけた。
「何があった?」
「その、信じられないことなのですが……」
ニーラントが言葉を濁して、額に浮かぶ汗を拭うような動作をする。ヴィクトリアはそれだけで、自分の最悪の想定が当たってしまたことを予感した。
「……議事堂の正面玄関から、彼が歩いて出てきました。堂々と。一人で」
円卓の面々の前に浮かぶウィンドウ、及びヴィクトリアの頭上の巨大なモニターに、その映像が映し出される。
公理議事堂。その前庭の中央部で、全身を白のスーツで覆った男が楽な姿勢で立っている。やがて、遠方からカメラで撮られているのに気がついたのか、人差し指で銀縁の眼鏡を押し上げると、悪戯な笑みと共にこちらに手を振ってきた。
それを見て、アーペリ中将が顔を引きつらせた。
「おい。まさか……」
「まさかもクソもねえだろうがあッ!」
ヴィクトリアは心の底からの叫びと共に両手を円卓に叩き付け、その場に勢いよく立ち上がり、近くにあった椅子を全力で蹴り飛ばした。
サッカーボールよろしく木製の椅子が宙を舞い、ガラス張りの壁に跳ね返されて床を転がる。あまりの怒りに両肩を震わせる彼女に、ケース・ニーラントが恐る恐ると言った様子で話しかけてきた。
「元帥……?」
「ああ、わかっていたさ! これが、壮大な茶番劇だとわかってはいたさ! だけどなあ! 議事堂を占拠されたと報道機関に大々的に発表されたあげく、正面から宣戦布告までされたら、ひとまず隊を動かすしか他に手はないだろ! やってられっか!」
肩から羽織っていた治安維持隊のコートをひっぺ返し、床に叩き付ける。ヴィクトリアが何に対して憤っているのかわからないのか、部下の大半は狂人か何かを見るような目を向けていたが、数少ない何人かはヴィクトリアの言わんとすることがわかったのか、今にも何かに当たり散らそうな顔で黙り込んでいた。
「もう帰る。皆さんお疲れ様、事後処理でもっと疲れろごきげんよう!」
「待て、レーガン。一応説明ぐらいはしろ」
その数少ない一人であるアーペリ・ラハティ中将が、制服の上まで脱ぎ捨て、ワイシャツ姿で本当に帰ろうとするヴィクトリアを引き留める。彼は葉巻を取り出し先を焙りながら、怒りを押し殺した声で問いかけた。
「皆の疑問はこうだろう。公理議事堂はフェイスレスマンに占拠されていたはずだ。なのになぜ、彼だけが解放されたのか」
「それじゃあ、逆に聞こうか。この一連の事件で、何が起きたのかを。ニーラント」
「私ですか?」
「他に誰がいるんだよ」
ヴィクトリアの突然の指名に、最初は戸惑い顔だったが、周囲の視線が自分一人に集まっていることがわかったのか、抵抗を諦め疲れたように言った。
「本日午後三時頃、情報管理局に通信が入り、『公理議事堂を占拠した』との犯行声明が出されました。その直後、報道機関もまたその事実を発表しました」
「それで?」
「治安維持隊の人間が見えたら即人質を殺害するという宣言を受け、我々は議事堂を中心とした九ブロックを封鎖し、その周りに人員を配置しました」
「そこから二時間、何の動きもなかった。議事堂の構造が複雑なこと、そして接近できない事が重なり、内部の様子もうまく確認できていなかった」
「はい。三十分ほど前に一度、議事堂から通信が入り、私が対応しました。そして現在。彼が一人で、議事堂から出てきています」
「なるほど。それで? 導き出される結論は?」
「……本日起きたことは、私が今説明したことが全てであり、それ以上でもそれ以下でもないと思われます。つまり、公理議事堂は、最初から占拠などされていなかった」
ニーラントの説明が終わってからも、最上階にいるヴィクトリア以外の人間は誰一人として反応することができなかった。彼女は舌打ちを一つすると、椅子に荒々しく腰を掛けた。
「そういうことだ諸君。敵がしたことは恐らく二つ。一つは、議事堂がテロリストに占拠されたという虚偽の情報を大々的に発表し、そう偽り続けること。二つ目は、議事堂の人間に通信がつながらないようにすることだ。我々は、二時間半の間、騙され続けていたんだよ」
向こうがしたことは至極単純だ。単純だが、酷く大胆でかつ手が込んでいる。あの施設は元々会議を行うためのもの。『たった』二時間半であれば、外部に通信がつながらず、外の情報が入ってこないという状況をばれないようにすることができる。
酷くリスクの高い綱渡りではあるが、実際に敵はやってのけた。エイジイメイジア中の人間が議事堂が占拠されたと騒ぐ中、内部の人間はいつも通りに仕事をしていたというわけだ。
「にわかには信じがたい事態だな。エイプリルフール時以上の失態だ」
アーペリ・ラハティ中将が、くしくも二時間半前とまったく同じ言葉を口にする。だが、その意味合いはまるで正反対のものだ。
治安維持隊が、虚偽の情報に惑わされ、起こってもいない事件を解決するために全勢力を動かしていた。面目が丸つぶれどころの騒ぎではない。
事態の重さがようやくわかったのか、誰もが顔面を蒼白にしていく。そんな中、ケース・ニーラントが強く首を振って、こちらに向かって叫んできた。
「ですが、あの首相はどうなるんですか? 映像は加工されてなどいなかった。通信でもこちらに向かって話しかけてきていたじゃないですか! それも、議事堂の休憩室から!」
「お前の言う通り、画像は加工されていなかったんだろう。画像はな。だが、カメラの向こう側にあったのが、そもそも議事堂の休憩室ではなかったとしたら?」
「……あ?」
「実にアナログかつ面倒な方法を使ってきたものだ。あの映像は、議事堂そっくりに作り上げられた舞台装置だよ。首相の方は、奴が変装していたんだ」
「奴、とは?」
「一人しかいないだろ。こんな人間離れした演技をこなして、議事堂にいる人間に勘付かれないよう通信障害を起こせる奴なんて」
ヴィクトリアは両足を円卓の上に投げ出し、天井を見上げ、吐き捨てるようにして言った。
「完全なる一般人。最優の傭兵。人間を極めし人間。その他、ありとあらゆる肩書をほしいままにする、正真正銘の天才。四月一日にもまた我々治安維持隊を弄び、アカウントナンバーすら偽造してのける、希代のハッカーにしてクラッカー。ボクシだよ」
そうとしか考えられない。逆に、彼女の仕業でなければ、一体誰がこんなことをしてのけるというのか。
超能力者がもてはやされる世界で、『本物』の才能をもって裏社会を駆けあがった究極の異端児。彼女に並び立てる『人間』を、ヴィクトリアは一人しか知らない。
彼女は腕の肘を円卓の上に押し当てると、手で片方の目を覆い隠した。強い後悔の念が、脳に突き刺さる。ボクシという人間がこれほどの脅威になった責任の一端は、自分にもある。七年前、この未来を知っていたら、決して彼女の逃走を許したりなどはしなかった。
「……甘かった」
ヴィクトリア、そしてルークもまた、彼女のことを軽視していた。そうでなければ、あの才能を利用するなどおこがましいことは考えなかった。
最初から、殺しておくべきだったのだ。金堂真の忘れ形見と共に。
「私は一体……何をしているんだろうな」
言葉が、口から零れ落ちる。
それは意図したものではなく、独り言でもなく、感情の吐露でもなかった。零れ落ちた。漏れ落ちた。ただの現象に過ぎない。
だが、言葉は人の手から離れた瞬間、まったく違う意味合いを持つ。それは紛れもない弱音であり、後悔だった。
「ヴィクトリア?」
唯一彼女の声を聞き取れたザン・アッディーンが、表情を一変させる。アッディーン自身の言葉を借りるなら、彼は彼らしくなかった。めったなことでは動揺を見せない彼が、心を動かされている。揺らされている。
そこで彼女は、取り繕うべきだった。嘘をつくべきだった。腹心の部下とも言うべき彼に己の弱さを見せるなど、あってはならない事態だった。
だが、その機会は与えられない。
目の前に浮かぶウィンドウが、あの男からの通信が繋がれていることを知らせてくる。ヴィクトリアは無言で右手を持ち上げると、他のウィンドウにも映像が出るよう設定し、通信のアイコンをタップした。
白スーツの男の姿が、映し出される。彼、ルークは、銀縁の眼鏡越しに、吸い込まれるような青の瞳を彼女に向けて言った。
『最初に言っておこう。今回の事件の首謀者は、私ではない』
「……戯言を。お前以外に誰がいる、この詐欺師が」
挑戦的な声が、勝手に自分の口から流れ出る。その声をぼんやりと聞きながら、ヴィクトリアは内心でそれは違うと確信していた。
ルークは基本、無駄な嘘はつかない。むしろ、都合の悪い事実を隠す方が彼の専門だ。こうして、ルーク自身もまた欺かれていたという弱みをこちらに晒しているのは、彼もまたボクシを相手取る上で治安維持隊の協力を必要としていることに他ならない。
『わかっているだろう。このようなことをするメリットが、私にはない。議事堂が占拠されているというフェイクニュース、さらに言えば議事堂の通信状況が意図的に悪化させられていたのをこちらが掴んだのは、つい数分前のことだ』
「四月一日には、ボクシと共闘していただろう」
『彼女は傭兵だ。自分の気に入った相手の隣に立つのが、ボクシという人間だ。四月一日以降、彼女と連絡がつかない。おそらくは、私よりも魅力的な雇い主を見つけたんだろう』
「それは残念だったな。お気に入りの女を奪われた気分はどうだ?」
『最悪だ、と。そう答えておこう。だが、ここで問題にするべきはそこじゃない。起きてしまったことを後悔するのは誰にだってできる。重要なのは……』
「失敗を認めたうえで、その後どうするか、だろ? 知ってるよ。私は誰よりも、そのことを知っている」
自然と、自分の唇が笑みの形になっていくのがわかった。
やはりこの男は、自分にとって最大の障害であるのと同時に、なくてはならない好敵手なのだろう。
勝敗が決した先に、何があるのか。それは今考える問題ではない。
「議事堂占拠事件はブラフだった。となると、ボクシの目的は別にある」
『二時間半。治安維持隊の目を公理議事堂に向けることこそが、重要だった。皮肉でもなんでもなく、治安維持隊は優秀だからね。今回ボクシは、君達を欺くために多大な労力を払ったはずだ。逆に言えば、そこまでしてやりたいことが、彼女にはあった』
「お前が隊のフォローをするな。不愉快だ」
『これはこれは。申し訳ない』
画面の中で、ルークが人の悪い笑みを浮かべる。ヴィクトリアは忌々し気に舌打ちを一つすると、所在なさげに佇む将官たちに向かって声を張り上げた。
「我々が議事堂占拠事件の解決に動いている間に、中央エリアの別の場所で、何らかの事件が発生しているはずだ! 何かないか?」
ヴィクトリアの問いかけに、その場にいる者の視線がまたもやケース・ニーラントへと集中した。
あたかも肉食動物に睨まれた兎か何かのように、ニーラントがすくみ上がる。『またお前か』と怒鳴り散らしたくなるのを必死でこらえつつ、ヴィクトリアは額に青筋を立てて言った。
「情報を伏せてやがったな、お前」
「し、しかし……議事堂占拠には明らかに無関係だったので……」
「その大前提が今崩れただろうが! 言え! 私の知らないところで、一体何があった?」
「第一高校が、武装した集団により襲撃を受けたと。そう報告されました」
「……何だって?」
あまりの怒りに口元が痙攣しているのが、自分でもわかる。ヴィクトリアの地雷原でタップダンスを踊っていることをようやく自覚したのか、ニーラントは蒼白だった顔からさらに血の気をなくして続けた。
「ですが、第一高校にいる勢力で撃退できたと連絡が!」
「完全に敵を無力化したと報告は受けたか?」
「……いいえ」
「第一高校の勢力ってのは具体的に何だ。ジミー・ディラン特別学生警備隊隊長は、何と言っていた?」
「彼とは、連絡がついていません。さらにその後、第一高校からの通信は無く……」
「何も解決してないじゃないか! 何でそんな情報を今の今まで黙ってた!」
「確かに今、議事堂の件がハッタリだったと発覚しましたが、それまでは最優先事項でした! 元帥の御手を煩わせるわけには……」
「それと情報を隠蔽することは、また話が別だろう!? お前たちに任せるかどうかの判断をするのは私だ! 知らなきゃ何もできないだろうが!」
「……ヴィクトリア。そこまでにしておけ」
後ろに控えるザン・アッディーンが、小声で諫めてくる。確かに少々八つ当たり気味になってしまってはいたが、それでも黙っていた事実それ自体は、許せることではない。
「他には?」
「明けの使いが不穏な動きを見せていること。あとこちらは誤報の可能性が高いですが、HUROSTが街中に現れ、超能力者と交戦しているという目撃情報が多数……」
「そんな具体的な証言が多数あった時点で誤報でもなんでもないだろ。さらに言えば、治安維持隊の超能力者がHUROSTなんかと戦闘していたら、流石に報告が入る。それがまだないってことは、その超能力者たちは治安維持隊の人間ではないということだ。例えば、そうだな。第一高校の学生とかはどうだ?」
「……あ」
「あ、じゃねえよまったく……」
もはや怒りを通り越して呆れてしまう。ヴィクトリアは自らの失態に俯くニーラントから目を背けると、将官たちに向けて宣言した。
「これより治安維持隊は、中央エリアの騒動解決のために尽力する! 明けの使い本部と、ライクリーフード株式会社に立ち入り調査! 同時に、中央エリア全域に隊員たちを分散させ、第一高校の生徒を確認した場合には直ちに保護するよう指示をだせ!」
「はっ!」
「了解しました、元帥!」
曲がりなりにも、円卓のメンバーである以上、命令された後の動きは速い。打ちひしがれた様子のニーラントもひとまず自分の仕事を果たすべく動き出したのを確認し、ヴィクトリアは再び無表情に戻ったアッディーンに向き直った。
「レイフは……行方不明だったか。なら、ティモ・ルーベンス少尉に繋げ。早急にだ」




