Memory 2
Memory-2
午後の陽ざしが、窓を通して教室に流れ込んでくる。眠気を誘発するような、生温く気だるい暖かさ。穏やかな風が、萌黄色のカーテンを閃かせる。
だが、今の彼女には眠気を感じるほどの余裕は存在しなかった。全身を縛り付ける緊張。この教室に入る前にあれだけ水分補給をしたはずなのに、喉はカラカラに乾いている。まるで砂漠にいるみたい。この感想も、あながち間違いではないかもしれない。彼女の故郷とは違い、第一高校の外には、見渡す限りコンクリートで埋め尽くされているのだから。
中央部に二つ、向かい合う形で置かれた椅子の片方に彼女は座っている。それ以外の机等は教室の端に寄せられている。ここは急ごしらえの面接会場だ。彼女が第一高校に進学した年に設立された、学生特別警備隊の採用試験。ここでの学生警備隊長との面接が、最終関門となる。
はずだったのだが。
『……来ない』
その面接官である、ジミー・ディラン隊長が、まだ顔を見せていない。教室の外にいた男性教員は、『諸事情で遅れているから中で待っていてほしい』と言っていたが、流石に予定の時間から一時間が過ぎてもまだ来ないというのはどうかと思う。
電車が止まっているのか、交通事故にでも巻き込まれたのか。せめて理由くらいは教えて欲しいものだ。一応は人生の転機となるであろう試験の開始時間がわからないまま、情報もなく延々と待たされるのは正直心臓によくない。拷問か何かのように思えてくる。
「――はあ」
彼女は大きく息を吐き出すと、少しだけ体の姿勢を崩した。ずっと背を伸ばして座っていたため、全身がこわばってしまっている。いっそ立ち上がって教室の中を歩き回ってやろうかと思ったが、流石にそれはやめた。
とりあえずは、窓の外に散る桜の花びらを数えることで気を紛らわす。寝る前に羊を数えるのすら面倒だと感じてしまう彼女にとって、それは苦行以外の何物でもない。だが、それ以外にやることもない。
案の定、すぐに飽きた。
だから彼女は、とある計画を実行に移すことにした。
※ ※ ※ ※ ※
それから、さらに一時間後。
教室の外から、何やら言い争うような声が聞こえてくる。椅子の上で伸びをしていた彼女が姿勢を正すのと、教室の前の扉が開けられるのが、ほぼ同時だった。
「いやあ、寝坊した! 遅くなってごめ――」
面接官にあるまじきことをヘラヘラと笑いながら言ったおっさんの頭に、直後、チョークの粉がたっぷりとつけられた黒板消しが激突した。
それはもちろん、エボニーが仕掛けたものだった。と言っても、教室の引き戸の間に黒板消しを挟む古典的な手では、すぐにばれてしまう。そこで彼女は、少しだけ工夫することにした。
といっても仕組みは簡単で、部屋の棚に入っていたガムテープを使い、扉の上の桟に軽く固定。靴ひもを抜いてくっつけた黒板消しと引き戸を繋ぎ、開けた瞬間黒板消しが紐に引っ張られて落ちるようにしただけだ。
「……」
しばし、頭が粉まみれになったジミー・ディランと見つめ合う。呆然としている彼の姿を見ているうちに、エボニーの胸に後悔の念がふつふつと湧き上がってきた。
ちょっとした出来心だった。理由が説明されないという事は、試験管が自堕落で学校側に説明もなく遅れていると考えられる。その腹いせにと仕掛けたが、流石に度が過ぎていた。
「どうしたのですか、ディラン隊長?」
廊下の方から、男性教員の訝し気な声が聞こえてくる。どうやら、彼の立っているところからでは、ジミーが粉をかぶっている様子が確認できないらしい。どちらかと言うと前側に当たったのが不幸中の幸いだった。
それでも、一時的にしか隠すことはできないだろう。ジミーが振り返ればすぐにそうとわかるだろうし、何よりジミーには彼女を庇う理由はない。それ以前に、未だ彼が彼女に対して激高していないことそれ自体が奇跡だった。
だが、その奇跡は二度起こった。
「……いいえ、何でもありませんよ、先生」
教員の問いかけにジミーはそれだけ言うと、教室の中に入り後ろ手に扉を閉めた。
ポケットからハンカチを取り出し、頭と制服を軽く払う。口を開けた状態で唖然とする彼女にジミーは微笑みかけると、試験管用の席にのんびりと腰を掛けた。
「チョークの粉がどれくらいとれたか教えてくれない?」
「……髪にまだ少し」
「そっか。まったく。ホログラムウィンドウが普及しているんだから、先生も全員黒板なんて使わなければいいのにね。数学科に不人気だったか。まあ、実態のないホログラムの上でペンを動かす気持ち悪さは、わからなくもないけどさ。君はどう思う?」
「わかりません。ウィンドウに直接書き込んだりはしません。ホログラムのキーボードを使うのがほとんどです」
「それもそうだね。でも、あのキーボードも辛いよね。ずっと手を浮かせてなくちゃいけないじゃん? 机に貼りつければその問題も解決だけど」
「あの。怒らないのですか?」
「君は僕に怒られたいのかい? 怒られて喜ぶようなマゾヒストだったのかい、君は?」
「それはないですけど……」
初めに彼に対して出てきた感想は、『よく喋る』というものだった。無駄なことを、面白そうに話す。単調な毎日は単調だからいいのだと錯覚させるほどにこやかで、先ほど黒板消しをぶつけられたのが嘘の様だった。
だがそれは、まごうことなき現実だ。事実、彼の赤茶の制服は、ところどころ粉で白くなってしまっている。落とすのには苦労するだろう。
「さて。面接を始めようか」
ジミー・ディランは、あたかも夕食の内容を話すかのような気軽さで言った。待たされたことに対して苛立ちを覚えていたのが、馬鹿みたいに思えてきた。
「まずは、あの黒板消しについて質問しようか。君、僕を試したんだとでも言い訳するつもりだったんだろう?」
「はい」
彼の言う通りだった。結果問わず、『自分の上に立つ人間がどれほどのものか見極めようとした』と答えればいい。黒板消しがぶつかれば無能だと糾弾し、避けたら流石だと褒めたたえる。冷静になって考えてみると、そんな方法で切り抜けられるはずがなかった。
しかし、ジミーの口調は詰問するときのそれではなかった。むしろ穏やかなものだと言ってもいい。向かい合っているだけで肩の力が抜けていくような、そんな気がした。
「つまり、君は試験官に試験を課したわけだ。残念ながら僕は、君の試験で落第点を取ってしまった。平和ボケもいいところだねえ」
彼はそう言って、胸ポケットから煙草の箱を取り出し、中から一本つまんで口にくわえた。もう大抵のことには驚かないつもりでいたが、その予想を更に上回った形だった。
「それじゃあ、善悪の話をしよう」
「いきなりですか」
「いきなりだよ。会話なんてそんなものだろう? ああ、もっとリラックスしていいよ。君の合格は確定してるから。この面接は、あくまで形式的なものだ」
「確かに、志望動機八百字作文とか、成績条件とかいろいろありましたけど……」
幾ら形式的とはいえ、それでいいのだろうか? 答えはもちろん否だったが、どうもジミー・ディランを前にしていると、世間一般の価値観がふやけてそのまま無くなっていくかのような錯覚にとらわれてしまう。彼はそれだけ、つかみどころのない人間だった。
たとえるなら、窓の外に舞う桜の花弁だ。少しの風で、ふわりふわりと舞い上がる。
「君は僕についてどう思う?」
「あなたについて?」
「そうだ。僕は君の面接の試験官でありながら二時間以上遅刻し、仕掛けられた黒板消しも避けられず、面接もまともにやろうとしていない。ここで問題だ。君にとって僕は、善か悪か?」
「わかりません」
「どうして?」
「あなたが怠惰であることと、善悪の概念が結びつかないからです」
「じゃあ質問を変えようか。社会において、僕は悪だろうか?」
「……悪、だと思います」
そう答えることしか、できなかった。
確かに、彼女自身の基準で判断するなら、ジミー・ディランは悪ではない。悪というのは、もっと重たい印象を受ける。存在そのものが許されないぐらいが、悪としては丁度いい。
だが、今回のジミー・ディランの態度を表に出したらどうだろう? やるべきことをやらないことは、それだけで悪だとみなす人間もいるはずだ。ネットニュース辺りでジミーが超能力者であることとセットで取り上げさせれば完璧だろう。
「見る者によって基準が変わったわけだ。なるほどね」
「確かにそうです。ですが、誰もが悪だとみなす存在だって、ありうるのではないでしょうか?」
「エイリアンとか怪獣とか?」
「そんな類の何かです」
「なるほどね。さて、話を少し変えようか。もっとも、僕が話せることは、僕についてしかないけどねえ」
ふと気がついたが、彼は煙草の先に火をつけていなかった。先ほどまではくわえていたが、今は右手の指に挟んでいるだけだ。一体何をしたいのかわからない。
それを言うなら、この会話についても同じだ。着地点が、見いだせない。それが気持ち悪い。相手が何を言いたいのか分からないまま、ただただ時間だけが過ぎていく。
「僕は学生警備隊長としては、一般的観念から考えれば失格だろう。でも、僕は自分の態度を改める気はない。なぜなら、国に属する組織とは腐りきっているべきだからだ」
「……何ですって?」
「賄賂が横行し、密告が絶えず、内輪もめに終始する。何も決まらず、どこにも進まない。ただそこにあるだけ。それが、国の機関の『正しい』在り方だ」
「それは……おかしくないですか」
「なぜ?」
「だって……なら、その組織は、何のためにあるのですか?」
「ただそこにあるためにあるんだよ。ありとあらゆる情報が開示されるこの社会ではね。停滞する事こそが善なんだ。誰にとっても利となることなんて、初めから存在しないんだから」
何も決めず、どこにも進まず、停滞し続ける。
怠惰の極み。それは彼女には受け入れがたいことだった。受け入れてはならないことだった。それでは、自分が何のために進んできたのかわからない。学ぶことも、戦うことも意味が無いのなら、やることなんて何もない。生きている意味はどこにあるのか。
「生きている意味なんてなくても、人は生きていけるんだよ」
ジミー・ディランの声が、思考を遮る。彼女は思わず、息を呑んでしまった。
全身から嫌な汗がにじみ出てくるのがわかる。おかしい。自分たちは、たわいない談笑をしていただけのはずだった。それが、どうしてここまで追い込まれているのか。
「意味の消失により存続できなくなるのは、国家であり経済であり文化だ。人とそれらは密接に繋がっているから、忘れがちだけどね」
ライターのフリントホイールが回る音で、彼女は我に返る。顔を上げると、ジミー・ディランが煙草の煙を深く吸い込んでいるのと目があった。
そこで、初めて気づいた。
彼の笑いは表面上のもので……目は最初から、冷たく凍り付いていたのだと。
「君にとって、今の僕は悪だ。先ほど君は僕を悪ではないといった。これは矛盾だ」
彼女から顔を背け、煙を吐き出しながら、彼は楽し気な、楽し気にしか聞こえない口調で、淡々と、機械のように続けた。
「悪は何を基準にするかで変動する。エイリアンや怪獣が絶対悪だと呼ばれるのは、それらが社会に悪影響を与えることが明瞭だからだ。だけどね、エボニー・アレイン。何かを悪だと判断するのは、社会ではなく、あくまで億を超える人間一人一人なんだよ」
煙草の先の煙が、指で潰される。ジミー・ディランはそこで初めて表情を消すと、椅子の上で声もなく固まる彼女をじっと見つめた。
「覚えておくといい。ありとあらゆる概念は主観により決定される。君の中で僕が無害な人間から『悪人』になったのは……僕の言う事が、君にとって『都合が悪く』なったからだ」
※ ※ ※ ※ ※
そこから先のことは、よく憶えていない。
自然な形で通常の面接の方式へと移行し、平凡な質問に当たり障りのない答えを返したような気がするが、内心それどころではなくて、何を聞かれたのかもどう答えたのかも記憶から抜け落ちてしまっている。
後日、学生特別警備隊選抜試験に合格したことがわかった数時間後。彼女は職員室で、教員が選抜試験の点数のほとんどが面接で占められていたと噂しているのを聞き、心の底からの敗北感を味わったのだった。




