第一章 戦意-1
第一章 戦意
1
筋線維という筋線維が全て断ち切れていくような気がした。
光の雨が降り注ぐ。青の粒子が浮遊するのをかき分けるようにして、ふとした瞬間に現れる木の根や地面の凹凸を飛び越える。周囲の気体を操り自らへと吹かせることで、微妙に姿勢を調整し、追い風に乗って加速していく。
あるときは木の枝を掴んで宙を舞い、またあるときは前転で茂みの隙間を潜り抜け、ただひたすらに前へ進む。ありとあらゆる雑念を排除して、走り続ける機械としての己を確立する。
木々に遮られていた視界が開けて、太陽光がどっと押し寄せてきた。思わず目を細めてしまった御影は、女神像の噴水が鼻先に迫っていることに気がつき、今度は逆に目を大きく見開いた。風の向きを反転させ、両足を前に突き出しブレーキをかける。なんとか軌道を修正して衝突は回避したが姿勢を整えることは叶わず、御影は白の砂利をまき散らして地を転がった。
土埃が舞う。左肩がじくりと痛んで、御影は思わずうめき声を上げた。
石造りの女神が抱える壺から放出される水が、透明な筋を描いて視界から消え去り、ため池へと落下していくのがわかる。御影は何度も咳を繰り返しながら、ゆっくりと目を閉じた。
御影家、正面玄関前広場。ここをスタート地点とし、庭で約三キロのフリーランニングを行った。御影の所有地は広く、手入れが行き届いていない場所がほとんどだ。普通の雑木林とほとんど変わらない。そこを、能力を使いながら駆け抜ける。
それを、退院してからまだ幾ばくも経っていないうちに再び強行したのは、完全に御影の判断ミスだった。おかげで、スタート地点まで戻れるタイミングも計れず、こうして無様に大の字で寝転がっている。
「……ハハッ」
御影は起き上がろうとして結局失敗し、体を横にして顔を玄関と反対側、正門の方へと向けた。敷地の出入り口まで距離にして約五百メートル。視力は悪い方ではないが、茫漠と霞んでしまってよく見えない。
霧が出てきているわけではない。曖昧になっているのは、御影の意識の方だ。全身へと蓄積した疲労に、体をまかせる快感。それを、あの日三度も味わった。
そうやってしばらくの間目を閉じていたところ、御影の頬に何か冷たい物が当てられた。
「お休みのところ悪いですが、こんなところで寝ていたら風邪ひきますよ」
「アヒャンッ!」
小型犬か少女のような甲高い悲鳴を上げて、御影は上体をはじかれたように起こした。突然の来訪者は、御影の顔にあてがったスポーツドリンクのペットボトルを弄びながら、金糸のように明るい髪を肩から払い、春の陽光に煌かせた。
「こんにちは。元気そうで何より」
「ソニア!」
トウキョウ特別能力育成第一高等学校四年生にして、生徒会長であるソニア・クラークの姿に、御影は服についた汚れを払いつつ、慌ててその場に立ち上がった。
全体的に清楚な雰囲気の少女だった。白を基調としたカットソーに、髪の金が彩りを添えている。元の肌の白が強いのもまた、その輝きをより印象的な物にしていた。
「なんでお前がここに? 事前に連絡しろよ」
「火急の用でしたから。正解でしたね。寝顔、見られましたから」
「……つまり、俺はマジで少し寝ていたのか。すぐ起こせよ。趣味が悪いぜ」
御影はいつものバツが悪くなったときの癖で、わしゃわしゃと髪をかき回しながらため息を吐いた。彼女の後ろでは、相変わらず水滴がため池の上で散っていた。
「ま、何はともあれ、来てもらったからにはもてなさないとな。ちょっと待て、今……」
「その前に」
自分の無防備な姿を見られていたことが少し恥ずかしくなって、急いで玄関へと向かおうとした御影の頬に、ソニアが再びペットボトルを押し当てた。
「喉が渇いていますよね? そう思って、買ってきました」
「俺が何をしていたか、わかっていたとでも言いたげな顔だな」
「ベストタイミングだったでしょう?」
確かに彼女の言う通りだったが、どうにも釈然としない。彼は憮然とした表情のままソニアからペットボトルを受け取り、キャップを乱暴に外して口元へと運んだ。
癪なことに、限界近くまで酷使した今の体には、その飲み物は極上に思えた。こんなにも美味なスポーツドリンクは飲んだことがない。今まででの人生で、一、二を争う甘美な時を過ごせている。人間万歳。
プラスチック製の容器の中で幾つもの気泡がはじけていく音が、轟々と流れる血液の勢いを沈めていく。御影は半分以上を一気に飲み干して口元を拭い、ボトルのキャップを締めた。
「犬は?」
「今日は連れてきませんでした。しばらくは私のほうで預かっていますよ」
「ああ、そう。まあ、アイツも俺よりソニアになついているだろうから、いいんじゃねえの」
「その逆なのが悔しくて、連れてこなかったんですがね」
「そうか?」
適当に会話しつつ、御影は玄関までたどり着くと、一度ペットボトルをソニアに預けてドアに向き直った。一ヶ月前とは違い、物理的に扉が開かなくなるように改築されている。鍵穴に金属製の鍵を差し込みひねると、カチリとシリンダー錠が開く音がした。
少し薄暗く、だだっ広い大広間へと足を進める。御影は大階段の手前で立ち止まると、ゆっくりと家の中を見回して言った。
「ウォーレン! いるか!」
「はい、ただいま」
隣の部屋から、タオルを片手に持った燕尾服の男が出てくる。御影は彼の手からタオルを受け取り、額に浮かぶ汗を拭った。
髪が黒よりも灰色の面積が広い、かなり年のいった男だった。よく手入れされた髭が曲線をくっきりと描き、顔には深い皺が多いもののくたびれた印象を与えることはない。身に着けた燕尾服はしっかりとアイロンがかけられていて、全体的に隙がなかった。
「客人だ。紅茶でも出してくれ。俺は麦茶でいい」
「かしこまりました」
四十歳以上年下の御影に対し、深々と頭を下げてくるサミュエル・ウォーレンに、御影は苦笑しながら首を振った。
「あのなあ。何度も言ってるけど、正式な俺の執事ってわけじゃねえんだから、そうかしこまらなくてもいいんじゃねえの? あと、俺やっぱ敬語使った方がいいよね」
「こちらも何度も具申していますように、私は執事としての自分を楽しんでいるのです。ですから旦那様も、旦那様でよろしいかと」
「旦那様って呼ぶな、御影でいい」
「わかりました。では、御影様。客間の方でお待ちください」
最後に再び仰々しいお辞儀をかまして、ウォーレンはてきぱきとした足取りで御影の視界から消えていった。
御影はため息を吐きながらわしゃわしゃと髪をかき回し、後ろを振り返った。そこでは、ソニア・クラークが、先ほど御影が飲んだスポーツドリンクのペットボトルにストローをいれて、口にくわえていらっしゃった。
「あの、ソニア」
「何でしょう?」
「何でしょうじゃなくて、それ俺にくれたんじゃ……いや、そういうわけでもないのか?」
「おいしいですね、これ」
「……ああ、そうですか」
質問に答えてほしかったが、ウォーレンのときと同じく会話が不毛になりそうなのでやめた。
思わず二回目のため息を吐いてしまったことに我ながら呆れつつ、御影は天井を見上げた。二階までの空間を貫く大広間の天井は高い。ここが自宅であるという認識が、余計にこの家を広く感じさせる。御影自身が望んで購入した家ではなかったが、住めば都だ。
「さてと。それで? 話ってなんだ?」
一階の客間に移動し、御影はソファに腰かけると、向かいのを指し示しながら問いかけた。
ソニアとはそれなりに長い付き合いだが、こうして改まって話すのは珍しい。あの学生警備とは何度も学校関連の話をしたが、彼女の方とは生徒会長という役職に関係なく、雑多な無駄話に終始することがしばしばだった。
「本来ならば、学校で奏多が直接話を聞くべきでしたが、もともと不登校気味なうえに、つい最近まで入院していた人間にそれを望むのは酷でしょう」
「つまり、何か学校側からの伝言を持ってきたのか?」
「そういうことです。端的に言えば、留年の危機ですよ奏多」
「……何だって?」
顎に左手をあてがい、顔を引きつらせた御影に、生徒会長ソニア・クラークは始末に負えないとでもいうように、首を左右に振った。
「授業出席日数が今日で足りなくなりました。後日、担任に頭下げるなりなんなりして、どうにかしてください」
※ ※ ※ ※ ※
放課後。第一高校廊下にて
「でも、残念ながら留年決定じゃないのよね、これが」
「残念なんっすか?」
褐色の肌をした少女、学生警備副隊長エボニー・アレインが、女性にしてはかなり長い足でせかせかと歩いていくのに、赤髪の少女が若干の速足で追随している。彼女、学生警備新人の二年生、シャーリー・ピットの問いかけに、エボニーは軽く舌打ちした。
「残念よ。あんにゃろう。エイプリルフールにやったことは忘れないんだから」
エボニーの格好はいつも通りのもので、Tシャツにジーパンと服装自体は男子のそれに近く、腰回りにジャラジャラとつけられた銀のアクセサリーと、耳の下で輝く金の輪のイヤリングが、逆にボーイッシュさを増長するという奇跡を成し遂げている。
一方、シャーリー・ピットの方はというと、無難にスカートとブラウスを着用している。髪は染めていない筈なのだが、そうと間違えるくらいには赤い。基本私服登校である以上、両者共にそれほど服装にはこだわっていない。
「何の話っすか? もしかして、あの噂話って本当なんっすか?」
エイプリルフールという単語を聞いた途端、目を輝かせた後輩の姿に、エボニーは自分の浅はかさを呪いたくなった。
四月一日の一件。御影奏多が治安維持隊と対立していたという事実そのものは『なかった』ことにされてはいるが、人の口に戸は立てられない。あくまで噂話程度の範囲ではあるが、彼が関わっていたことを隠しきれていないというのが現実だ。
「先輩は、治安維持隊の作戦に参加していたんっすよね! 実際に、御影先輩とバトったんっすか?」
「バトったって、簡単に言ってくれるわね……」
「クラス中の噂になってるっすよ! 春休みのあの日に中央エリアが封鎖されたのは、御影先輩とアレイン先輩が怪獣大決戦をしていたからだって!」
「その噂広めた馬鹿を今すぐ連れてきなさい。焼くから」
実情を知っている身としては、鼻で笑うレベルだ。あの高校生。あろうことが、世界最高戦力の皆さんとじゃれあっていたことは間違いない。たとえ逃げ回っていただけなのだろうが、エボニーにしてみれば、あの超越者から逃げきったという事実だけでも笑うしかない。さらに言えば、『さすが』ではなく、『大馬鹿野郎』という感想しか出てこないところも泣けてくる。
「話を戻すわよ。アイツは新学期が始まってから、ずっと登校していないわけだけど、そのうちの半分以上はサボりじゃなくてちゃんと理由があるのよ。三途の川をバタフライしてまで生還した代償に、全身打撲に左肩一時脱臼に出血多量で長期間入院していたわけ」
「……何をどうしたら三途の川でバタフライになるんっすか?」
「噂通り、治安維持隊に喧嘩ふっかけたのよ。学生警備以外の人には内緒だからこれ」
「そんなこと言っても、まず信じてもらえないっすよ。それに、誰かに教えるなんてもったいないっす」
結果として噂の一つが真実だと知った後輩は、さらに目を輝かせていらっしゃった。
先ほどとは逆に、廊下をスキップしだしたシャーリーを速足で追いかけつつ、彼女はため息交じりに言った。
「当然、入院している間は登校しなくてもいいわけだけど、あんにゃろうがその書類を提出していなかったというわけ。どうでもいい話題で随分長くなったわね」
「治安維持隊と対立したなら、このまま第一高校を飛び出しちゃうってことはないんっすか? 悪をくじき弱者を助ける一匹狼とかカッコいいっすよね」
「ありえないわね」
一匹狼云々は完璧に無視して、彼女は無意識に腰のアクセサリーを弄びながら続けた。
「放校になる覚悟ぐらいはしているでしょうけど、御影に限ってそれはない。だって……」
※ ※ ※ ※ ※
トウキョウ某所。
第一高校の式典用の制服に身を包んだ御影奏多は、ついこないだ新調した前と全く同じデザインのバイクにまたがり、サイドカーにソニア・クラークをのせ、一般道を爆走していた。
「今午後二時過ぎですから、正直終業時間前に学校につけるかは微妙ですよ!」
ヘルメットに備え付けられた通信越しに問いかけてくるソニアに、御影は叫び返した。
「今日で留年確定なんだろ!? だったら今日中に解決しねえと!」
「そこまで必死になる必要があるのですか? 担任に謝罪するのは後日でも……」
「四月の件で退学にされるのはいい! だけど、俺のミスで留年になるのは何か嫌だ! 今までの無駄な努力が、本当に無駄になる! 可及的速やかに解決したい!」
「また変にねじ曲がったプライドがあるんですね、奏多は……!」
※ ※ ※ ※ ※
テクラ・ヘルムートはか弱い少女だった。
もちろんこれは、女性だから腕力がないという意味ではない。気が弱く、頭が弱く、体が弱い。ただ生きていくだけでも問題を抱えた欠陥品だということだ。
といっても、今すぐに死を迎えるほど弱いわけでもない。鬱病であれば。痴呆であれば。植物状態であれば。それはある意味で、周りからの援助を受けて生活することができる。弱さは突き詰めれば強さだとテクラは思う。
本当の弱さとは、中途半端さだ。
自立できるほど強くなく、かといって補助を受けるほど弱くもない。憐憫の目さえ向けられない。ただ、弱いことは間違いない。集団に放り込まれたら無個性だと断じられるほどには。
誰かに利することもなければ害することもなく、限られた資源を浪費して、ただそこに存在しているだけ。役割を与えられなければ、惑うしかない。
漠然と生きていることに、不安がある。
だけど、どうしようもない。テクラ・ヘルムートという人間は、何かを変えられるほど強い人間ではないからだ。
第一高校校舎内のデザインは、『洒落ている』という言葉がぴったり合う。廊下に立ち並ぶ柱は全て木製で、タイル敷の床の幾何学模様には、初見の人間は感嘆することだろう。
軍直属というわりには、いやに芸術性を意識していると思う。詳しいことはわからない。こういう感想しか思いつかないところが、テクラがつまらない人間であることの証左なのだろう。
「ねえ。アンタさ。これから時間ある?」
そのいやに文化的な校舎の隅に、彼女は追い詰められていた。
二人の女子生徒が、廊下の角の部分を利用しテクラの逃げ道を塞いでいる。第一高校は私服登校が基本だが、彼女らはその中でもかなり派手な方に分類されるだろう。二人共にピアスをし、髪を染め、アクセサリー類を服にジャラジャラとつけている。
テクラには理解できない人種だ。ぱっと見ただけでも服装にかなりの額を費やしていることがわかるが、なぜそんなどうでもいいものに情熱を注げるかが理解できない。服を与えられるならともかく、自分で買いたいとは思えない。
もっとも、超能力者は国から補助金を与えられている身だ。お金には困っていないのだろう。そう
「ちょっと今、暇してるんだよね」
女の口が開き、ちらりと舌が覗く。銀のピアスが舌の中央部につけられているのが見えて、反射的にすくみ上がってしまう。
「だからさ。暇してるなら、ちょっと遊ばない?」
舌にピアスはしていないが、頬にタトゥーを入れたもう片方が笑いかけてくる。しかし、どうにも二人共目の焦点があっていないような、そんな気がした。
「……そういうの、困ります」
か細い声が、自分の口から漏れ出るのが聞こえた。
じれったい。この状況下で、下手に出る事しかできない自分が憎らしい。
「何言ってんの? 私たち、友達じゃん? ねえ?」
「そうそう。最近顔を合わせたばかりだけど、友情に時間は関係ないよね?」
二人の顔が、至近距離まで迫ってくる。香水の匂いが鼻に突く。化粧が無駄に濃いのが理解できない。どうせ高い物を使っているのだろうが、正しい使い方を分かっていないのだろう。香水は匂いがきつくならない程度。化粧も学校なのだから基本は薄くだ。
それでも、ファッションに気をつかうことすら億劫に思うテクラよりはましなのだろう。見た目と中身が違うなんて言い訳だ。
「だから、さ?」
熱い吐息が、耳にかかる。片方の手が首元に伸びてきて、思わずすくみ上がってしまったその瞬間、テクラの耳に男性の声が飛び込んできた。
「そこで何をしているのかな?」
弾かれるように、二人の女子生徒がテクラの元から離れた。
テクラの視界に、声の主の姿が飛び込んでくる。水色のジーンズに、ワイシャツの上から黒のベストを着用している。茶の髪はワックスで整えられ、清涼な印象を与えてくる。
「第四学年特別クラス学級委員の、ロイド・ウェブスターだ。僕には生徒を監督する義務がある。もう一度聞こう。君たち二人は、その子に何をしていたのかな?」
あくまでにこやかに問いかけてはいるが、若干詰問口調になっている。頬にタトゥーを入れた女が舌打ちする横で、もう一人がヘラリと笑った。
「やだなあ。ちょっと話していただけですよ。ね?」
いきなり笑いかけてきた彼女に、テクラが曖昧に頷きを返す。ロイドと名乗った男子生徒はため息を吐くと、二人を押しのけるようにしてテクラの元に近づいてきた。
「悪いけどね。彼女には僕から少し話すことがあるんだ。急用じゃないなら、連れて行かせてもらうよ」
「どうぞ。ご自由に?」
「それから君たちのことは、担任に報告させてもらう」
「……げ」
タトゥーの女があからさまに顔をしかめたのを睨みつけて、おそらくは二人を含んだ『グループ』のリーダー格であるピアスの女が肩をすくめた。
「私たち別に、何も悪いことはしてないんですけど?」
「それは教員の判断することだ」
ロイドは最後に吐き捨てるようにそう言って、テクラの腕を掴み、その場から歩き去っていった。
彼が若干大股で歩いているため、小走りになる必要があった。数メートルほど進んだところで後ろを振り返ると、二人が忌々し気にこちらを見つめているのと目があった。
二人の姿が見えなくなったところで、テクラは自分の腕を掴むロイドの手を叩き、ぎりぎり聞こえるか聞こえないかぐらいの声で言った。
「あの。ちょっと、痛いです」
「……ああ。すまない」
ロイドはそこで我に返ったかのように立ち止まり、テクラの腕を解放した。
「少し手荒だったか。悪かったね」
「いえ。助けていただいて、ありがとうございました」
「問題ない。彼女たちは前から問題になっている。もっとも、この学園は元から問題だらけだけどね。金銭取引に麻薬売買。まったくもってなげかわしい」
彼は額に右手を押し当てて、物憂げなため息をついた。どこか芝居かかっているような、そんな気がする。助けてもらっといてなんだが、正直テクラには苦手なタイプだった。
そんなことを言っているから、誰も友人がいないのだろう。
「すみません。もう、いいですか?」
「ちょっと待ってくれ。少し話したいことがある。君は、四月の中ごろからの途中編入だったね? 一応は特別クラス所属なわけだが、正直言って……」
「はい。私の実力では、すぐに移動になるでしょう」
「それは仕方のないことだ。他人の世話をできるほど殊勝な人間が、特別クラスにしかいないこの学校が悪い」
「随分と学校の悪口を言うんですね?」
「そりゃあ、ああいう生徒がいるくらいだからね。ある程度不登校の生徒が出ているのもうなずける。もっとも、あの学年一位は許すわけにはいかないが」
ロイドの目がふと陰ったような、そんな気がした。だが彼はすぐに元の柔和な表情をすると、テクラの肩に右手を置いてきた。
「でもね。僕は君には、この環境に負けて欲しくないと思っている」
「……はあ。ありがとうございます」
「そこでだ。僕が主催する、勉強会に所属する気はないかい?」
「勉強会、ですか?」
「そう。相互扶助も目的としているから、ああいう輩に絡まれることも少なくなるだろう」
急に話が飛んだ。正直ついていけない。テクラは戸惑いのままに、視線を周囲へと泳がせた。
二人がいるのは、階段前にあるホール。少し開けた場所だ。窓から差し込む日の光が、数人の人間がたむろす空間に差し込んでいる。
『……あれ?』
そこで、少し違和感を覚えた。
今は放課後。時間帯的にも、多くの生徒がこの場にいると考えるのが普通だ。それなのに、どうにも閑散としている。いや、正確に言えば、二人のいる空間だけが開けている。
無意識に階段の出入り口とホールの隅の廊下へと目を向ける。そこにさりげなくたむろし、しかしたしかにこのホールに人が来れないようにしている生徒がいるのを見て、彼女の疑念は確信へと変わった。
階段と廊下を塞いでるのは、おそらくロイドの言う『勉強会』のメンバーだ。こうなってくると、その単語が言葉通りのものとは思えなくなってくる。
「……そういうの、困ります」
「まあまあ。そう言わずにさ」
テクラのすぐ横の壁に、ロイドの手が置かれた。彼はそこに体重を預けながら、相も変わらず穏やかな、しかし有無を言わせぬ口調で続けた。
「話だけでも聞いてくれないかな? なんなら、このあとカフェでお茶でもどうだろう?」
「あの。その」
「よければ、他の勉強会のメンバーも紹介しよう。どうだい?」
彼の左手が、テクラの手を取ろうとゆっくりと伸ばされる。後ろにさがろうとして、そこで初めて、いつの間にか壁際まで追い詰められていたことに気がついた。
呼吸が荒くなる。頬が熱い。体が動かない。
ロイドの手が、テクラに触れそうになった、その瞬間――。
「そこで何をしているのかしら。学級委員さん?」
彼女の声が、テクラの耳に飛び込んできた。
弾かれるように、ロイドがテクラの元から離れた。
テクラの視界に、声の主の姿が飛び込んでくる。ジーンズのベルト通しにジャラジャラとつけられた銀のアクセサリー。胸の上で光る十字架。大きな輪の形をした金のイヤリング。総じて軽薄な印象を与えてくるが、胸元に付けられたバッジがそれを吹き飛ばす。
「学生警備副隊長の、エボニー・アレインよ。私には生徒を監督する義務がある。もう一度聞くわ。アンタ……いや、アンタたちは、その子に何をしようとしていたのかしら?」
※ ※ ※ ※ ※
トウキョウ、中央エリア。治安維持隊本拠地、エンパイア・スカイタワー。その最上階にあたる将官用の会議室は、四月一日以来の喧噪に包まれていた。
八十階のフロアのほとんどを埋める巨大な円卓の上座には、一人の女が座っていた。固い印象を与える赤茶の制服を、豊満な胸が持ち上げている。体型は女性としてかなり整っているが、それはあくまで自然に生まれたものであり、彼女自身が美を追求しているわけではない。
「……面倒なことになったな」
彼女、治安維持隊元帥、ヴィクトリア・レーガンは、右人差し指でこめかみを叩きながら、目の前に浮かぶホログラムウィンドウを睨みつけていた。
周囲では、普段は椅子に座っているだけの将官たちがあわただしく歩き回り、同僚との情報交換や、部下への通信を行っている。四月一日の件を口実に、無能と判断した人間の首はことごとく刈り取ったつもりだったが、やはりまだ万全とは言い難いのが現状だ。
「ヴィクトリア。この状況、どう見る?」
後ろに直立不動で控えていた、ヴィクトリア直属の部下であるザン・アッディーンが話しかけてくる。ヴィクトリアは後ろを振り返り、およそデスクワークという概念から程遠い見た目でありながらそれを得意とする部下に言った。
「どうもこうもない。言っている意味はわかるな?」
「なるほど。どちらにせよ、私たちのとれる行動は変わらず、全てはルーク次第だと。そういうことか」
「理解が早くて助かるよ」
ヴィクトリアは前に向き直ると、ホログラムウィンドウの表面に指を這わせ、画面をスクロールさせていった。
ウィンドウには、とあるニュースサイトの記事が表示されている。その内容をもう一度確認した彼女は、両目を強く瞑った。
「ったく。この状況で、一体何をしているんだ、あの詐欺師は」




